第34話:貨物列車の無賃乗車
月光すら届かぬ新月の夜。
王都から夜通し歩き続け、泥と汗にまみれて西方辺境領の入り口――オラクル貨物ターミナルの外郭フェンスに、三つの影が這い蹲っていた。
アーノルド、エレナ、ガイルである。
借金取りの追手を奇跡的に撒き、空腹で朦朧とする意識を引きずりながら、彼らはついにアルカディアへと続く鉄路の起点へと辿り着いていた。
「はぁ……はぁ……見ろ、あれだ……!」
息を切らしながら、アーノルドがフェンスの隙間から指差した先。
そこには、真夜中であるにもかかわらず、巨大な魔導投光器に照らされて昼間のように明るい広大な操車場が広がっていた。
何条もの銀色のレールが幾重にも交差し、巨大なクレーンが唸りを上げてコンテナを吊り上げている。
そして何より彼らの目を圧倒したのは、黒光りする数十両の貨車を従え、煙突から微かに白い蒸気を吹き上げながら佇む、巨大な黒鉄の怪物――『黒鉄第二〇八貨物列車』であった。
「あんな巨大な鉄の乗り物……本当に動くのかよ……」
ガイルが震える声で呟く。
「動くからこそ、あれだけ大量の物資が王都に届いてるんでしょうが! ぐずぐずするな、見回りの警備兵が来る前に潜り込むぞ!」
アーノルドは二人の背中を小突き、有刺鉄線を無理やりこじ開けて敷地内へと滑り込んだ。
ターミナルの構内には、元帝国兵を中心とする警備部隊が規則正しく巡回していたが、彼らの巡回ルートは精密なダイヤグラムに基づいて完全にパターン化されていた。
かつてSランクパーティとして迷宮の罠を掻い潜ってきた技術だけは、彼らの中に辛うじて残っていた。
警備兵の足音が遠ざかった一瞬の隙を突き、三人は影から影へと滑り込み、連結された貨車の隙間へと飛び込んだ。
「ど、どこに乗るのよ!? 全部鍵がかかってるじゃない!」
密閉された有蓋コンテナの扉を引っ張りながら、エレナが半泣きで叫ぶ。
「屋根のないやつを探せ! あそこだ、石炭を積んだ無蓋車がある!」
アーノルドが指差したのは、黒鉄山脈の精錬所へ送られる燃料用の高純度魔導石炭を満載した、巨大な鉄製のホッパ車であった。
三人は錆びた梯子を手足から血を滲ませながらよじ登り、山積みにされた石炭の山の中へと転がり込んだ。
ズザザザッ!
「ぎゃっ!? 痛っ、固い……!」
「しっ! 大声を出すな、見つかったら元も子もねえだろ!」
石炭の鋭い角が容赦なく背中や尻に突き刺さる。
さらに、微細な黒い粉塵が舞い上がり、三人の顔や衣服を瞬く間に真っ黒に染め上げた。
かつて純白の聖女装束をまとっていたエレナの顔は、炭鉱労働者も顔負けの黒光りする異様な形相と化していた。
だが、三人は互いに身を寄せ合い、石炭の中に身体を埋めて、追手の恐怖から逃れられたことに安堵の息を漏らした。
「ふぅ……ふぅ……やったぞ。潜り込めた……!」
アーノルドは黒く汚れた歯を剥き出しにして、下品な笑みを浮かべた。
「これでアルカディアまで直行だ。タダ乗り大成功だな」
「ねえアーノルド、アルカディアに着いたら、本当にハルトは私たちを歓迎してくれるの……?」
エレナが不安そうに上目遣いで尋ねる。
アーノルドは鼻を鳴らし、偉そうに石炭の山にふんぞり返った。
「当たり前だろ! ハルトの奴、昔から俺の顔色ばかり気にしていた腰抜けだぞ? 俺たち元Sランクの三人が揃って姿を見せてやりゃあ、腰を抜かして平伏するに決まってる!」
「そうだよな……! あいつは所詮、荷物持ちの平民だ。どれほど金を稼ごうが、本物の勇者であるアーノルドや、天才魔導士の俺には逆らえるはずがない!」
ガイルも調子に乗って相槌を打つ。
「着いたらまず、あのふざけた求人票に書いてあった『白米』と『豚汁』を腹一杯持ってこさせようぜ! 最高級の熟成肉と酒もだ! 俺たちを満腹にさせて土下座したら、昔の恩を免じて許してやるって言ってやるんだ!」
「ふふっ、そうね! 私には最高のシルクのドレスと、薔薇の香りの温かいお風呂を用意させなきゃ! ハルトに足を洗わせて、昔みたいに『エレナ様、お疲れ様でした』って跪かせてやるわ!」
三人は石炭まみれの顔を見合わせ、下劣な哄笑を漏らした。
これから自分たちが向かう場所が、かつて見捨てた下僕が築いた王国であり、そこで再び甘い汁を吸い尽くせるのだと――愚かにも信じ切っていた。
――その時である。
フォォォォォォォォンッ!!
鼓膜を揺るがす、耳をつんざくような重厚な汽笛が真下から轟いた。
続いて、ガコンッ、ガコンッ、と凄まじい衝撃が連結器を通じて連鎖し、三人の身体が石炭の山の上で大きく跳ね上がった。
「うわっ!? な、なんだ!?」
「きゃああああっ!!」
シュゴォォォォォ……ッ!
ズドオオオオオン……!
百トンを超える巨躯を持つ魔導蒸気機関車が、猛烈なトルクを車輪に叩き込み始めた。
貨物列車は、ゆっくりと、だが圧倒的な質量を伴って前進を開始する。
そして――。
ゴォォォォォォォッ!!
時速三十キロ、五十キロ、そして八十キロ。
貨物列車はあっという間にトップスピードへと達し、夜の荒野を切り裂くように疾走を始めた。
「ぎゃあああああっ!? か、風が……風があああああっ!!」
三人の甘い妄想は、一瞬にして絶叫へと変わった。
屋根のない無蓋車である。
時速八十キロの暴風が、吹きさらしの三人に真正面から叩きつけられた。
凍てつくような夜の冷気が、薄着の衣服を貫いて体温を一瞬で奪い去っていく。
さらに最悪なのは、機関車の煙突から吐き出される黒煙と、貨車の底から巻き上げられる石炭の粉塵であった。
猛烈な風圧に乗って、無数の硬い石炭の粒が散弾銃のように三人の顔面や身体にビシバシと打ち据えられる。
「い、痛い! 痛い痛い痛いッ!! 目が開けられないぃぃぃっ!」
エレナが顔を覆って絶叫する。
「ゲホッ! ゴホッ! け、煙が……息ができない……死ぬ、死んじまうぅぅっ!」
ガイルが喉を押さえて悶絶する。
「く、くそがあああああっ! 止まれ! この鉄の化け物、止まりやがれぇぇぇっ!!」
アーノルドが絶叫するが、レールの上を規則正しいリズムで刻み続ける列車が止まるはずもなかった。
ガタンゴトン、ガタンゴトン――!
一定の容赦ないテンポで刻まれる車輪の響きは、まるで愚かな密航者たちを嘲笑う処刑宣告のカウントダウンのようであった。
激しい揺れによって石炭の山が崩れ、三人は幾度となく石炭の下敷きになりかけた。
全身を切り刻むような寒風、肺を焼くような煙の悪臭、そして激しい振動による乗り物酔い。
豪華な客車の快適さなど、貨物列車の無蓋車には一欠片も存在しなかった。
あるのはただ、生きたまま石炭と一緒に運搬される地獄の苦痛だけであった。
「ハ、ハルトぉぉぉぉぉぉっ!!」
夜の荒野に消えていく、元勇者の情けない悲鳴。
三時間もの間、その拷問のような暴風と粉塵に晒され続けた彼らは、やがて声すら出なくなり、白目を剥いて石炭の山にへばりついていた。
そして――列車は減速を始めた。
眼下に広がったのは、眩いばかりの光で彩られた大都市――アルカディアの広大な貨物ヤードであった。




