第21話:迫り来る帝国の影
迷宮都市オラクルの西郊、普段は交易商隊がラクダや馬を休める広大な草原地帯に、異様な軍靴の地鳴りが轟いていた。
金属と金属が擦れ合う冷たく重い摩擦音、整然と並ぶ黒鉄の槍衾、そして地平線を埋め尽くす数百頭の軍馬の荒い鼻息が、冷涼な大気を震わせている。
王都から派遣された帝国第二皇子直属の精鋭部隊――『黒鉄装甲騎兵大隊』。
総兵力、五百騎。
騎兵の一人ひとりが、全身を重厚な黒漆塗りの特殊鋼鉄甲冑で固め、跨がる軍馬の頭部や胸部にも分厚い馬鎧をまとわせている。
かつて隣国との国境紛争において、数々の歩兵方陣を紙屑のように蹴散らし、泥濘の戦場を血の海に変えてきた帝国の誇る「動く鉄壁」だった。
「ふん……こんな吹き溜まりのような辺境都市に、神代の遺物があるとはな」
軍馬の背の上から、オラクルの街並みを見下ろす男がいた。
黒鉄装甲騎兵大隊の総指揮官、ブラント准将。
引き締まった鷲鼻に冷酷な三白眼、綺麗に刈り揃えられた口髭の下に、他者を虫けらのように見下す嘲弄の笑みを浮かべている。
彼の手元には、第二皇子の豪奢な獅子紋章が刻印された羊皮紙の親書が握られていた。
「おい、商業ギルド長とやら。貴様がゴルドンだな」
騎兵大隊の巨大な本陣天幕の前に、縄で両手を後ろ手に縛られたゴルドンが引きずり出された。
普段の恰幅の良さと商人特有の堂々とした態度は見る影もなく、抜き身のサーベルを首筋に突きつけられて、顎から脂汗を滝のように流している。
周囲を取り囲む帝国騎兵たちの冷酷な眼光が、まるで屠殺場の家畜を見るかのように彼を見下ろしていた。
「は、はい……オラクル商業ギルド長、ゴルドンでございます、准将閣下……。して、帝国の栄光ある精鋭部隊が、このような辺境の商業都市に一体何の御用で……?」
「とぼけるな、豚め」
ブラントは手元の革製指揮鞭を無造作に振り下ろし、ゴルドンの太った頬をピシリと叩いた。
鋭い痛みにゴルドンが短く悲鳴を上げる。
「東のアルカディア領に敷かれたという『鉄の道』だ。馬車で三ヶ月かかる死の荒野を、わずか四時間で大軍や軍事物資ごと駆け抜ける神代の輸送兵器……。第二皇子殿下は、あの鉄道を大層高く評価しておられる。あんな強大な戦略兵器を、宮廷を追放された小娘と、しがない平民の技術者に私物化させておくわけにはいかんのだ」
「な……接収なさるおつもりですか!? しかしあれは、アステリア殿下とハルト殿が自力で荒野を開墾し、大地の龍脈を整えて開発された純然たる民間の――」
「黙れ、卑しい商人風情が!」
ブラントの冷たい怒号が、天幕の周囲に響き渡った。
「帝国の版図内にあるすべての鉄と鉱石、そして大地を貫く道は、皇帝陛下と帝国軍のものだ! ましてや相手は、宮廷闘争に敗れて辺境へ左遷された罪人同然の第十四皇女。あの小娘が勝手に軍事転用可能な兵器を開発し、私兵を養っていること自体が国家への反逆なのだ! 今すぐあの鉄の道と機関車を我が軍に引き渡し、皇女は鎖に繋がれて王都の牢獄へ戻るのが筋というものだ」
ブラントは傲慢に顎をしゃくり、部下の副官たちに冷酷な視線を向けた。
「明朝、我が大隊はアルカディアへと進軍する。あの鉄の怪物が駅に停まっている隙を突き、騎兵で機関車の周囲を完全包囲して焼き払う。抵抗する者は見せしめに皆殺しだ。……ゴルドン、貴様には大隊の先導を命じる。断れば、この街の商業ギルドごと反逆罪で灰にしてやるぞ」
「ひ……っ、ひいいっ! わ、分かりました……従います……!」
ゴルドンは額を地面に擦り付け、悲鳴を上げて平伏した。
だが、ブラントが背を向けて天幕の中へと消えた瞬間、ゴルドンは袖の中に隠していた小さな魔導通信器のスイッチを、震える親指で静かに押し込んだ。
オラクル商業ギルドの命運は、今やアルカディア鉄道の圧倒的な物流と完全に一蓮托生だった。
あの魔導列車が朝採れの新鮮な野菜や薬草を運び、黒鉄山脈の鉱石をもたらしてくれるからこそ、オラクルの街はかつてない好景気に沸き立っているのだ。
帝国軍の傲慢な貴族に鉄道を奪われ、軍事利用されてしまえば、オラクルも再び飢餓と衰退の暗黒時代へ逆戻りする。
ゴルドンにとっても、これは商人としての意地と、生き残りをかけた一世一代の賭けだった。
――その緊急通信は、魔導電波となって瞬時にアルカディア中央駅の総裁室へと届いた。
「……なるほど。五百騎の重装装甲騎兵ですか」
通信機の受話器を静かに置いたハルトは、デスクの上の懐中時計の銀の鎖を指先で軽く弄んだ。
部屋の中には、険しい表情を浮かべたアステリアと、怒りで猫耳と尻尾をピンと逆立てたチーフ車掌ミュウ、そして太い腕組みをして唸るドワーフの棟梁バロックが控えていた。
窓の外を見れば、平和な夕暮れのアルカディア駅前広場で、子供たちが笑い声を上げて駆け回り、仕事帰りの労働者たちが温かいスープの屋台に列を作っている。
「第二皇子の直属部隊……ブラント准将は、かつての西方戦役でも無抵抗の村を焼き払い、略奪の限りを尽くした冷酷非情な男です」
アステリアが拳を強く握りしめ、悔しさに唇を噛んだ。
その白銀の髪が、微かな怒りの震えで揺れている。
「アルカディアの民に、再びあのような恐怖を味わわせるわけにはいきません。……ハルト様、駅の周囲に防壁を築き、領民全員を駅舎に避難させて籠城戦の構えを取るべきでしょうか? 幸い、駅舎の玄武岩の壁は厚く、数週間分の食料の備蓄はあります」
「籠城などする必要はありませんよ、アステリア様」
ハルトは立ち上がり、壁に掛けられた巨大なアルカディア鉄道全線図の前に立った。
その背中には、一切の焦りや動揺は微塵も感じられなかった。
「敵の兵力は五百騎。個々の戦闘力や馬の突撃力は確かに一流でしょう。……だが、彼らは致命的な勘違いをしている」
「勘違い……ニャ?」
ミュウが琥珀色の瞳を丸くし、チーフ車掌の制帽の位置を直しながら首をかしげた。
「彼らは、鉄道を『ただの頑丈で速い荷馬車』だと思っているんです。駅に待ち伏せし、馬で四方から取り囲み、車輪に鎖を絡めて油を撒けば簡単に制圧できると高を括っている。……だが、線路の上を走る列車が、真の戦闘力を解き放った時、何が起こるのかを、あの軍人どもは一ミリも理解していません」
ハルトはチョークを手に取り、路線図の中央にある渓谷区間――キロポスト四十五地点に鋭い丸印を書き込んだ。
「鉄道の最大の強みは、圧倒的な『質量』と『速度』、そして『完全な再現性』です。馬の何十倍もの重量を持つ鋼鉄の塊が、馬の三倍の神速で突進してくる。それを真正面から受け止められる生物など、この星には存在しません。……彼らが線路に近づいた瞬間、戦いの勝敗はすでに決しているんです」
ハルトの冷徹な、だが絶対の確信に満ちた言葉に、バロック親方がニヤリと凶暴な笑みを浮かべ、太い拳を打ち鳴らした。
「へへっ……総裁、いよいよあいつの出番だな? ドックの奥で、主砲の魔力バイパスを繋いで待機させてあるぜ!」
「ええ、親方。ドワーフの魂を込めて鍛え上げた、俺たちの『走る鉄壁』を目覚めさせましょう」
ハルトは作戦指示書を手に取り、全員を見据えた。
その瞳の奥には、前世で幾多のトラブルや自然災害を秒単位の運行計画で乗り越えてきた、運行司令長の絶対の自負が燃え盛っていた。
「作戦開始時刻は、明日の十三時零分。……迎撃所要時間は、ちょうど十五分だ。十三時十五分には戦闘を終了し、十三時半のオラクル行き定期旅客便を通常通り運行する。――戦争ごときに、俺たちの定時運行を狂わされてたまるものですか。遅延は、絶対に許さない」
静かな宣戦布告とともに、アルカディア鉄道の秘密地下ドックの重い鉄扉が、重厚な軋み音を立てて開かれ始めた。




