第2話:泥にまみれた皇女
迷宮都市オラクルを出発してから、徒歩で丸三日。
東へと延びる街道は次第に舗装が途切れ、赤茶けた乾いた大地と、ゴツゴツとした黒い岩肌ばかりが目立つ荒野へと変わっていった。
風が吹くたびに、ざらついた砂埃が喉を焼き、遠くの地平線には紫がかった不気味な靄――魔境から漂い出す『瘴気』が、巨大な壁のように空を覆っていた。
「……なるほど。噂通りの陸の孤島だな」
ハルトは水筒の蓋を開け、最後の一口を含んで喉を湿らせた。
ここはルミナス大陸の最東端、アルカディア領。
かつては古代帝国の交易路として栄えたとも伝えられているが、数百年前に起きた『大崩壊』の天変地異以降、周囲を危険な魔境の瘴気断層によって完全に包囲され、王都からの街道も寸断された。
今では商隊も滅多に寄り付かず、中央の貴族たちからは「流刑地」「呪われた不毛の地」と忌み嫌われている土地だった。
街道の終点に見えてきたのは、崩れかけた石造りの門と、干からびた畑が広がる小さな集落だった。
すれ違う村人たちの顔には生気がなく、痩せ細った腕で杖を突き、虚ろな目でハルトを見つめていた。
子供たちは軒下で身を寄せ合い、母親が薄い粥をすする音だけが、寂れた集落に小さく響いている。
物流が死ぬと、命が死ぬ。
前世でも、大災害で鉄道や道路網が寸断された被災地を何度も見てきたハルトには、この村が直面している危機の深刻さが痛いほどよく分かった。
食料や薬品が届かないだけではない。希望という名の流通が、完全に止まっているのだ。
「――っ、よい、しょ……! あともう少しです、皆さん! ここを掘り抜けば、古い伏流水の筋に届くはずです!」
不意に、乾いた土煙の向こうから、鈴を転がすような澄んだ、だが芯の通った少女の声が聞こえてきた。
ハルトが視線を向けると、集落の端にある干上がった水路の底で、十数人の農民たちに混ざって、一人の少女が懸命に鉄の鍬を振るっていた。
目を奪われたのは、その特異なまでの気品だった。
泥まみれの麻の作業着を着て、長い髪を後ろで無造作に束ねているが、その髪は陽光を浴びて透き通るような白銀に輝いていた。
肌は抜けるように白く、額には大粒の汗が浮かんでいる。そして何より、その双眸――燃えるような深紅の瞳が、絶望に沈む周囲の風景の中で、唯一鮮烈な生命の輝きを放っていた。
「姫様、もうおやめください! そのような高貴なお手で、土弄りなどなさっては……!」
「何を言っているのですか、バランさん!」
老いた農夫が慌てて鍬を止めようとするが、少女は袖で汗を乱暴に拭い、力強く笑ってみせた。
その手のひらは、何度もマメが潰れて血が滲んだ跡だらけだった。
「身分が何ですか! 民が飢えて明日食べるものもないというのに、皇族の誇りなど何の足しにもなりません! 私が鍬を一度振れば、それだけ水が早く届くかもしれない。なら、私は百回でも千回でも振ります!」
「姫様……っ」
農夫たちが涙ぐみながら、再び固い岩盤に向かってツルハシを振り下ろし始める。
ハルトは立ち止まり、その光景をじっと見つめていた。
(……あの方が、アステリア皇女殿下か)
王都で小耳に挟んだ噂話が頭をよぎる。
宮廷闘争の末、腹黒い兄たちによって実権を奪われ、この滅びゆく辺境領地へと追いやられた旧帝国の第十四皇女。
贅沢に溺れ、民を搾取することしか頭にない中央の貴族どもとは、まるで人種が違った。彼女は本気で、この見捨てられた土地と民を救おうと泥を啜っている。
その時だった。
ガキンッ! という、鈍く重い金属音が水路の底に響き渡った。
「うわあっ!?」
「な、何だ!? ツルハシの刃が砕けたぞ!」
「岩じゃない……鉄だ! 地面の下に、何か馬鹿げた大きさの鉄の塊が埋まっているぞ!」
農民たちが悲鳴を上げて飛び退いた。
アステリアが慌てて駆け寄り、泥を手で掻き分ける。
露出したのは、深い漆黒の光沢を放つ、分厚い特殊合金の装甲板だった。人の背丈の何倍もある巨大な円筒形の物体が、水路を完全に塞ぐように地中に横たわっていた。
「そんな……これでは、水路を掘り進められません……」
アステリアの顔から血の気が引いていく。
ツルハシ一本通さない古代の未知の金属。これを取り除くための重機も、強力な破壊魔術を使える魔導士も、この寒村には存在しない。
ようやく見えかけた希望の芽が、無情にも遮られた瞬間だった。
「……失礼。少し見せてもらってもいいか?」
静かな声とともに、ハルトは水路の縁から身軽に飛び降りた。
突然現れた見知らぬ青年に、農民たちが警戒の声を上げる。
「だ、誰だ貴様! 旅の者か?」
「怪しい者じゃない。ただの……しがないインフラ屋だ」
ハルトはアステリアの前を通り過ぎ、地中に埋もれた黒い鉄塊の前へと歩み寄った。
作業用グローブを外し、素手でその冷たい装甲に触れる。
と同時に、ハルトの脳内で【空間座標把握】のスキルが発動し、地中に埋まった物体の全体像が、青いワイヤーフレームとなって三次元展開された。
(……馬鹿な。これは……!)
ハルトの心臓が、ドクンと大きく跳ね上がった。
農民たちは「古代の兵器ゴーレムの残骸」だと思い込んでいる。だが、ハルトの目には全く違う構造が見えていた。
頑丈な高張力鋼で組まれた台車枠。
巨大な三対の連結動輪。
先頭部に取り付けられた、障害物を跳ね除けるための鋭利な排障器。
そして何より、胴体中央部に鎮座する、超高圧の魔力を循環させるための多管式魔導ボイラー炉心――。
「ゴーレムじゃない……。これは、機関車だ」
「え……? き、きかんしゃ……?」
思わず漏れ出たハルトの呟きに、背後で呆然としていたアステリアが小首をかしげた。
その拍子に、彼女の胸元から古びた小さな金属のペンダントがこぼれ落ちる。それは精緻な歯車と、一本の鉄の鍵を模した、不思議な意匠の装飾品だった。
「あなた、今何と仰いましたか……? この鉄の怪物が何なのか、ご存知なのですか?」
アステリアが、縋るような眼差しでハルトの腕を掴んだ。
細く、泥と傷だらけの手。だがその瞳には、消えかけた炎を必死に守ろうとする強烈な意志が宿っていた。
「ああ、よく知っている。これは人を殺すための兵器じゃない。人や物資を、どんな荒野の彼方へも届けるために作られた、文明の血液だ」
ハルトは黒い装甲の泥を拭い去り、アステリアに向き直った。
「あなたが、このアルカディアの領主様ですね」
「はい……アステリア・フォン・アルカディアと申します。でも、今の私には……この岩一つ砕く力すらありません。食料も、薬も尽きかけていて……もう、この民たちを救う手立てが残されていないのです……」
絞り出すような彼女の告白に、ハルトは穏やかに、だが確信に満ちた声で答えた。
「なら、俺が道を敷こう」
「え……?」
「馬車で三ヶ月かかる王都までの死の荒野を、わずか数時間で駆け抜ける鉄の道だ。そこにこの怪物を走らせれば、食料も、薬も、資材も、すべて定刻通りにこの村へ届くようになる」
荒唐無稽な言葉に、周囲の農民たちは「この男、正気か?」とざわめき合った。
だが、アステリアだけは違った。
ハルトの真っ直ぐな瞳の奥にある、一切の嘘や誇張のない「プロフェッショナルの確信」を、彼女の魂が直感したのだ。
「……本当に、そんな奇跡が起こせるのですか?」
「奇跡じゃない。ただの計算と、インフラの仕事だ。――俺を、あなたの技師長として雇ってくれますか、アステリア様」
「はい……! 喜んで! あなたを私の、アルカディアの筆頭技師長としてお迎えします!」
泥まみれの二人が、水路の底で固く握手を交わした。
その瞬間、地中に埋もれた巨大な黒い鉄塊が、二人の契約を祝福するかのように、微かな共鳴音を地鳴りのように響かせた。




