第1話:遅延は絶対に許さない
地下四十五階層、通称『嘆きの冥府』。
天井を覆う鍾乳石からは、鉱物を含んだ冷たい水滴が一定の間隔で滴り落ち、石畳を濡らしていた。
気温は摂氏四度。空気中には魔獣の腐臭と、湿った硫黄の刺激臭が淀んでいる。
普通の人間の感覚であれば、十秒と耐えられずに吐き気を催すような極限環境だ。だが、俺――ハルト・クゼにとって、それは単なる「作業環境の数値データ」の一つに過ぎなかった。
「……バイパス結界の接地圧、正常。魔力逆流防止弁、異常なし。第三区画の魔物感知センサー、感度良好」
俺は泥で汚れた作業用グローブを叩き、地面に打ち込んだミスリル製の結界杭をスパナで固く締め上げた。
カチリ、と心地よい金属音が響き、淡い青色の魔力光が蜘蛛の巣のようにキャンプ地の周囲へと広がっていく。
これで半径五十メートル以内の魔力濃度は一定に保たれ、凶暴な冥府の魔物どもも、この一角を「ただの硬い岩盤」と誤認して素通りする。
腰の革袋から取り出したのは、自作の革表紙の野帳だ。
中には、ミリ単位の細いインクで引かれた無数の平行線――いわゆる『ダイヤグラム(運行計画表)』が、几帳面な筆跡でびっしりと書き込まれている。
「次の魔物群の発生予測は午前二時四十三分。湧出地点は北西の裂け目。……よし、迎撃ラインの迎角はこれで問題ない。ポーションの残数は上級回復薬が四十二本、解毒薬が十八本。前線の消費ペースから逆算すると、残余マージンは三十六時間といったところか」
俺の前世は、日本の超過密都市圏で秒単位の列車運行を支えていた鉄道運行管理者――いわゆる「スジ屋」だった。
過労で倒れてこの剣と魔法の世界に転生した時、神から与えられたのは戦闘スキルではなく、【結界敷設】と【空間座標把握】という、誰もが鼻で笑うような地味な生産職スキルだった。
だが、俺にとってそれは天職だった。
ダンジョン攻略とは、本質的に「兵站」と「ダイヤグラム」の完全な運用に他ならない。
魔物がいつ、どこで、どれだけの数湧き出るのか。
前衛の剣士が剣を何回振れば刃こぼれし、魔導士の魔力が何分で底をつくのか。
それらをすべて秒単位で計算し、常に安全な退路を確保し、完璧なタイミングで補給物資を前線に届ける。
俺がこの三年間の冒険者生活で培った【絶対遵守の運行計画】があればこそ、このパーティはただの一人の死者も出さず、大陸最難関と言われる迷宮の深層まで到達できたのだ。
だが、その当たり前の日常を守り続けるためにどれほどの血の滲む労苦が注がれているのかを、理解できる者はこのパーティには誰一人としていなかった。
「おい、ハルト。何をもたもた油を売っている」
不快そうに響いた傲慢な声に、俺は野帳を閉じて顔を上げた。
豪奢なミスリルの甲冑に身を包み、腰に国宝級の聖剣を佩いた金髪の偉丈夫――このパーティのリーダーであり、『聖剣の勇者』と讃えられるアーノルドだった。
その後ろには、退屈そうに金の杖を弄ぶ聖女エレナと、爪の手入れをしている大魔導士のガイルが控えている。
彼らの装備には血の一滴もついていない。俺が完璧に魔物の巡回ルートを逸らし、安全なルートだけを選んで先導してきたからだ。
「魔力杭の最終点検だ、アーノルド。次の巡回ウェーブが二時四十三分に来る。あと十分で全員の装備点検を終えてくれ」
「ふん、相変わらず臆病な男だ。ゴミのような魔物など、俺の聖剣の一振りで塵に変わるというのに」
アーノルドは鼻で笑い、乱暴に暖炉の薪を蹴飛ばした。
火の粉が爆ぜ、結界の境界線にかかる。俺は小さく眉をひそめたが、何も言わなかった。
「用件は何だ? 補給の追加なら、明日の朝一番で転移搬送の手続きを取るが」
「いや、補給の話ではない」
アーノルドは冷酷な笑みを口元に浮かべ、胸ポケットから一枚の羊皮紙を取り出して俺の足元へと投げ捨てた。
「ハルト・クゼ。貴様を、我が『白銀の流星』パーティから除名する。今日、この瞬間をもって追放だ」
湿った石畳の上に落ちた羊皮紙には、ギルド公式の契約解除通知書と書かれていた。
洞窟内に、ピチャリと水滴が落ちる音だけが響いた。
「……追放、だと?」
「そうだ。耳が腐ったのか? 貴様はクビだと言っているんだ」
エレナがくすくすと意地悪そうに喉を鳴らし、ガイルが嘲るように肩を揺らした。
「ハルト君、君は自分が今まで何をしてきたか分かっているのかい? 戦闘では後ろでおどおど隠れて、ペグを地面に打ち込むだけの土方作業。ボス戦では剣一本振るうこともできず、ただ時計を眺めているだけ。正直、見ていて哀れだったよ」
「そうよ、ハルト。あなたの分の報酬と分け前を、新しい強力な前衛アタッカーに回した方が、パーティは何倍も強くなるわ。あなたは私たちの足を引っ張っているのよ」
俺は足元に落ちた紙を見つめ、静かに息を吐いた。
彼らは本当に何も見えていないのだ。
なぜ自分たちが一度も奇襲を受けずに済んだのか。
なぜ傷口に塗る軟膏や、喉を潤す清潔な水が、常に絶えることなく手元にあったのか。
なぜ強大なフロアボスが、まるで示し合わせたかのように背中を晒し、アーノルドの必殺技がクリーンヒットしたのか。
すべては、俺が裏で泥を啜りながら敷設し続けた「見えないインフラ」の結果だ。
安全とは、誰かが血を吐くような思いで維持し続けて初めて成立する奇跡なのだ。それを彼らは「自分たちが天才だから当然」だと錯覚している。
「……本気なんだな、アーノルド」
「当たり前だ! 無能な荷物持ちに払う金など、一銅貨たりとも惜しいわ! 今すぐ荷物をまとめて、歩いて地上へ帰れ!」
アーノルドが胸倉を掴まんばかりに怒鳴り散らす。
交渉の余地はない。そして何より――俺自身、もう彼らの愚行に付き合う義理は一欠片も残っていなかった。
「分かった。契約解除を受諾しよう」
俺が取り乱すこともなく、平然とした声で答えると、アーノルドたちは拍子抜けしたように一瞬目を丸くした。命乞いでもされると思っていたのだろう。
「ただし、一つだけ忠告しておく」
俺は作業鞄から、先ほどまで書き込んでいた野帳の最新ページを破り取り、簡易テーブルの上に置いた。
「それはこの階層から地上までの、今後四十八時間の完全な『運行計画表』だ。そこに書かれた時間から一秒でも遅れるな。指定された安全地帯以外では絶対に足を止めるな。……もしそれを破れば、お前たちの命の保証はない」
「はっ! どこまでも偉そうに講釈を垂れおって!」
アーノルドはその紙を乱暴に引っ手繰ると、中身も見ずに丸め、足元で踏みにじった。
「紙切れ一枚でダンジョンが攻略できるなら、誰も苦労せんわ! 消えろ、無能が!」
ぐしゃりと潰されたダイヤグラムを見下ろし、俺は静かに背を向けた。
もう、言葉を重ねる必要すらない。
「そうか。……なら、好きにするがいい。今日この瞬間をもって、この迷宮の補給線はすべて運行を停止する」
俺は自分の最小限の工具と私物だけをリュックに詰め、結界杭のスイッチをオフにした。
パチン、と乾いた音がして、青い防壁が霧散する。
と同時に、暗闇の奥深くから、飢えた無数の魔獣たちの蠢く気配が、じわりとキャンプ地へと近づいてくるのが肌で分かった。
「おい、急に寒気が……おいハルト! どこへ行く!」
背後でアーノルドが何か叫んでいたが、俺は一度も振り返らなかった。
暗い洞窟の通路を、俺の頭の中に刻まれた「最短脱出ルート」に沿って、淀みない足取りで進んでいく。
地上へ出たら、どうするか。
中央のギルドに戻る気は毛頭ない。冒険者稼業など、もうこりごりだ。
そういえば、噂に聞いたことがある。
東の最果て、魔境の瘴気に囲まれ、物資も届かず飢餓と滅亡に瀕している極貧の領地――『アルカディア』。
そこでは、若い皇女がたった一人で領民のために泥を啜りながら戦っているという。
「……誰も道を通せないなら、俺が敷けばいい」
リュックの中で、使い古したスパナと設計用コンパスが、カチャリと頼もしい音を立てた。
魔導の力で動く鉄の車両。大地を貫く光のレール。
前世で夢見た、何者にも邪魔されない究極のインフラ網。
「定刻通りだ。これより俺の、新しい運行計画を開始する」
地下の冷たい風を背に受けながら、ハルトは光の差す地上へと向かって力強く歩き出した。




