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第15話:鉄路の安全は命に代えても

 午後六時ジャスト。

 茜色の空が群青色へと静かに溶け込む黄昏時、開拓者一号機は三百五十トンの鉱石貨車を従えて、アルカディア駅のプラットホームへと滑り込んだ。

 一秒の遅延もない、完全なる定時到着。


「着いた……! 本当に時間通りに着きました、ハルト様!」

 アステリアが歓喜の声を上げ、駅で出迎えた村人たちやドワーフたちが、地鳴りのような拍手と大歓声を轟かせた。

 黒鉄山脈からの大量の鉄鉱石と、銀色に輝く最高品質のミスリルの山。

 そして何より、途中で巨大魔獣ギガント・アース・ベアの群れを真正面から粉砕し、無傷で駆け抜けてきたという知らせに、誰もがハルトを「伝説の英雄」「生ける軍神」として称え、胴上げしようと押し寄せてきた。


「ハルト総裁、万歳!」「アルカディア鉄道、万歳!」

「おい、今夜は宴だ! 酒樽を全部開けろ!」


 だが、その熱狂の渦の中心で、ハルトの表情はどこまでも冷静だった。

 彼は差し出された祝杯の麦酒(エール)を丁重に押し戻すと、作業着の袖を捲り上げ、工具箱から一本の細長い真鍮の点検ハンマー(テストハンマー)を取り出した。


「ハルト様……? お祝いの宴が始まりますが、どちらへ行かれるのですか?」

 不思議そうに小首をかしげるアステリアに、ハルトは静かに答えた。


「点検です。あれだけの衝撃荷重を受けた直後です。台車とレールにかかった見えない亀裂を、今すぐ確認しなければならない」

「え……? ですが、ハルト様は朝からずっと運転し通しで、お昼も召し上がっていないのに……!」


「鉄が冷めないうちに点検するのが、鉄道員の鉄則です」


 ハルトは懐中電灯代わりの魔導カンテラを手に、迷うことなく機関車の巨躯の下――油と埃にまみれた車輪の隙間へと潜り込んでいった。

 賑やかだったホームの喧騒が、少しずつ静まり返っていった。

 誰もが、息を呑んでハルトの泥まみれの背中を見つめていた。


 カキン――ッ。

 夜の静寂に、澄み切った高い金属音が響き渡った。


 ハルトがテストハンマーで、巨大な第一動輪のリムを軽く叩いた音だった。

 耳を澄まし、反響音の余韻に全神経を集中させる。


「……澄んだ高い音だ。車輪内部の亀裂(クラック)なし」


 カキン、カキン、カンッ。

 ハルトは這うようにして台車の下を進み、ボルトの一つ一つ、軸受のベアリングカバー、板バネの積層板を順番に叩いていく。

 腰の革袋から取り出したのは、自作の真鍮製『フランジ摩耗ゲージ』だ。

 動輪の踏面にゲージの刃先を当て、隙間ゲージを滑り込ませて数値を読み取る。


「動輪踏面の偏摩耗、コンマ零八ミリ。許容値以内。だが、第三動輪の板バネ固定ピンに、わずか二ミリの緩みあり。……トルクレンチで本締め。ブレーキシューの摩耗残余マージン、残り三ミリ。明日の朝一番の便の前に交換が必要だな」


 独り言のように呟きながら、ハルトは素手で冷たい鉄の感触を確かめ、野帳にミリ単位の数値を几帳面に記録していく。

 顔は油煙と黒いグリスで真っ黒になり、作業着の膝は冷たい泥水にまみれていた。

 昼間、あれほど圧倒的な神速とパワーで巨大魔獣を跳ね飛ばした男が、今、薄暗い床下に這いつくばって、一本の小さなボルトと真剣に向き合っている。


「……おいおい、総裁」

 巨大な木製ジョッキを手にしたバロックが、弟子たちを引き連れて歩み寄ってきた。

 その顔には、いつもの豪快な笑みはなく、一流の鍛冶職人としての複雑な光が宿っていた。


「昼にあれだけの化け物を一撃で粉砕したんだ。多少のガタやボルトの緩みくらいあったって、走る分には何の影響もねえだろうが。今夜くらい、美味い焼き肉を食って、ドワーフの強い蒸留酒を飲んでぐっすり寝たらどうだ?」


 ハルトは台車の下からゆっくりと這い出て、カンテラの淡い光の下でバロックを見据えた。

 その瞳には、一切の妥協を許さないプロフェッショナルの炎が静かに燃え盛っていた。


「バロック親方。鉄道にとって、最大の敵は何だと思いますか?」

「ああん……? そりゃ、さっきの巨大熊みたいな災害級の魔獣か、山崩れだろうが」


「違います」

 ハルトは静かに首を横に振った。


「最大の敵は、俺たち自身の『油断』と『慢心』です」

「油断……?」


「ええ。たった一本のボルトの緩み。コンマ一ミリのレールの歪み。『まあ、これくらいなら大丈夫だろう』という、ほんの些細な現場の妥協。それが明日、時速百キロで走る列車の車輪を狂わせ、何百人もの罪のない乗客を乗せたまま、谷底へと叩き落とすんです」


 ハルトの静かな、だが鋼のように重い言葉が、夜の冷気の中を真っ直ぐに貫いた。


「安全とは、神に祈って降ってくるものじゃない。誰かが泥にまみれ、油を浴びて、命がけで守り続けるからこそ成立する『奇跡』なんです。……俺の前世の故郷では、過密な過密なダイヤを守るために、何万人もの保線マンが毎晩線路に這いつくばって、一本の狂いもなく鉄路を守り抜いていました。俺は、俺の列車に乗るすべての命を、一秒の狂いもなく生きて家族の元へ帰すと誓った。だから――点検の手を抜くことは、絶対に許されない」


 静寂が駅を支配した。

 バロックは持っていたジョッキを地面に置くと、自らの両頬をぶ厚い手のひらでバチンと力いっぱい叩いた。


「……弟子ども! 何をつっ立ってやがる!」

 バロックが雷のような大声を張り上げた。


「酒樽を片付けろ! ハンマーとスパナ、トルクレンチを持ってこい! 総裁一人に泥を被らせて、何がドワーフの誇りだ! 今夜は全車両、全線路のボルトを一本残らず叩き直すぞ!!」

「「「おおおおおおおっ!!」」」


 五十人のドワーフたちが一斉に工房へと駆け出し、工具と測定器を手に線路へと戻ってきた。

 夜のアルカディア駅に、無数のカキン、カキンという誇り高き点検ハンマーの音が、美しい調べのように響き渡り始めた。


「ハルト様……」

 そっと近づいてきたアステリアが、温かい湯気の立つスープの椀と、清潔な白い布を差し出した。

 そして、ハルトの額についた黒い油汚れを、愛おしそうに優しく拭い取った。


「私、あなたに巡り会えて本当によかった。この命すべてをかけて、あなたとこの鉄路を支え続けます」

「ありがとうございます、アステリア様。美味いスープですね」


 ハルトが微笑み、温かいスープを飲み干すと、体中に力が満ちていくのを感じた。

 見渡せば、線路の上で夜を徹して点検作業に励むドワーフたちと、彼らに温かい食事を配るアルカディアの村人たちの姿があった。

 誰もが自分の仕事に誇りを持ち、明日への希望に目を輝かせている。


 泥にまみれた線路の先、夜明けの東の空には、新しい時代の輝かしい星が一つ、燦然と輝いていた。

 明日は、新設された『アルカディア中央駅』の完成式典。

 世界初の本格的な旅客鉄道網が、いよいよ大陸の歴史を塗り替えようとしていた。



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