【電子書籍配信記念SS2】インクと雨傘
電子書籍の配信記念SSの第二弾です。
今回は、電子書籍の先行配信記念SSです。
お話の時間軸は、二人が正式にお付き合いしてから。
第三弾は通常配信版の配信日(8月7日)に更新予定です。
『ヴァージル・マクラウド様
霧のような小雨が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。
先日の晴れ間、お付き合いいただいた古書街で――』
手紙を綴り始めてすぐ、文字が委縮しているのに気付いた。
グウェン・ウェルズリーは手を止めて、縮めていた手指を開く。
初めて手紙を送った時から彼専用になった羽根ペンは、何度も先を削っていくうちに持ち手が短くなってしまっていた――いいかげん、限界だろう。
普段の筆跡でと願われていたけれど、あまりに小さければ読みにくいし、何より寛容な彼には似合わないと思える。
……似合わない。委縮なんてして欲しくない。
そんなことを強く思ってしまってから、グウェンはひとり静かな事務所で、ほんの小さく、息を吐くように苦笑した。
努めて冷静でいようと、ずっとそうやって生きてきた。それなのに、彼のこととなると自分の感情に振り回されている――それが嫌ではなく自然だと感じる自分自身に。
ヴァージル宛ての手紙を綴るとき、真っ白な便せんに記す最初の一文字に少し緊張する。
それから白と黒の向こうに、彼と彼が気付かせてくれた色を見る。そうしてグウェンは自分が見た世界を切り取って、想いと混ぜ合わせて素直に文章にして、なるべく読みやすいようにしたためる。
字体、字間。インクと紙の色、それに手触り。彼のくれる手紙がグウェンにとって緑の庭なら、仕事で大量の書類に目を通す彼にとっても、自分の手紙がほんの少しでも優しいものになるように。
仕事ではなく、自分の用に書く手紙にこんなにも思い入れを持つようになるなんて、代筆事務所を開業したときには想像してもみなかった。
グウェンは恋人の――これは対外的に表明できる関係と節度の線引きの問題であって、まだ呼び名には慣れていない――ヴァージルの名を書いた便せんを丁寧に折り畳んで反古にすると、オリーブグリーンの目を細めて羽根ペンを見つめた。
これを加工して金属のペン先を付けることもできるだろうが、筆跡も書き味も変わってしまうだろう。
「……営業終了まで、あと十分」
時計を確認すれば、普段の帰宅時間より少しだけ早い。手紙を書いていたのも、片付けも必要な事務処理も終えて、あとは戸締りだけだったからだ。
窓の外には雨雲が厚く垂れこめ、ぽつぽつとガラスを叩き始めた雨はまだしばらくは降らせ足りなそうだ。
……不意の来客も、もうないだろう。
扉にかけたウェルズリー代筆所の看板を裏返すと、グウェンは文具店に立ち寄ることにした。
*
多少不便でも古いものにも美を見出すこの国では、金属製のペンや万年筆が普及した今でも、羽根ペンは未だに人気があった。
特に代筆屋にとっては、大事な商売道具のひとつ。相手に手間をかけることが――正確には、送り手が受け取り手に手間をかけているということが――大事な仕事というものはあるのだ。
行きつけの、グウェンの数少ない外出先である老舗文具店には、最新の万年筆から金属のペン先に軸のものに、各種の羽根ペンを扱っていた。
「いらっしゃい」
上品な老齢の店主は、細いフレームの眼鏡をくいと上げてグウェンを迎えた。
店頭の柔らかい布の上に横たわる金属軸のペンを眺める。
今度は長く使えるものがいいのかもしれない、と彼の顔を思い出してちらりと思って、それから貰った言葉に思い直して再度、馴染んだ羽根ペンを選んだ。
ヴァージルに手紙の筆跡を褒めてもらったことがあるものだから、やはり何となく変え難い。どんなものだって彼は褒めるのではないかとも思うのだけれど。愛想の乏しいグウェンと違って、ヴァージルはとても優しくて柔らかい。
ついでのつもりで、他に仕事道具の不足を思い出しつつ棚を眺めていると、ガラス製のインク壺が目に留まった。
幾つかの種類の黒、ブルーブラック、グレー、セピア。そのほかに鮮やかな赤や青、紫もある。
「……インクも色が増えてきましたね」
工業や化学の発展による合成染料の登場は、街中の色を変えてしまった。毎年のように新色が出て、ポスターや広告などの印刷物、包み紙や、街を歩く人のドレスを彩る。もっともグウェンがそれに気付いたのは、ヴァージルと出かけるようになってからだけれど。
手紙のインクはまだまだ圧倒的に黒への支持者が多いけれど、今後は色インクで書く、なんてこともあるだろうか。
若い子ならもしかしたら、赤で恋文でも――いや、型破りすぎる。
ただ、黒でなくとも。
「色の中で、誰にでも見えやすい……コントラストがはっきりするインクはどれでしょうか」
「色インクなら、そこに並んでるのはちょっと詰まりやすいよ。珍しくて質の良いインクならほらそこの、大通りのマクラウド商会の日用品店――」
思わぬところで出たヴァージルの家名に、弾かれたようにグウェンが顔を上げてしまえば、店主に不思議そうに見られる。
「……行ったことあるかい? なかなかの品揃えだとか」
「いいえ、まだありません」
グウェンは動揺を悟られないように答える。
そこにヴァージルが経営する店があることは聞いて知っていた。彼の仕事というだけでなく、商品自体にとても興味はあるけれど入ったことはない。
むしろ、なるべく近づかないように距離を取って、店の前の道も通らないようにしていたくらいだ。
まだ商会の貴族の息子としてのヴァージルではなく、顧客の一人で、一人の男性としての彼に接していたかった。自分のためにも、彼に誤解されて傷付けないためにも。
……それに、もしもマクラウド家の使用人に、彼の従業員に、“ふさわしくない”女がうろついていると思われたら。それもティナ嬢に続き二度目で、彼女より年上の、結婚歴まである未亡人が。
ティナ・サール嬢の一件は、二重の意味でグウェンを慎重にさせていた。
それから彼の態度もまた、ティナに接していた頃より節度を重視していることを理解していた。
「ありがとうございました」
結局いつもの黒インクを加えて買って店を出れば、寄り道をしようと思い立つ。
食品を買い込むついでにお茶と……、確か近くのベーカリーでもベリーのタルトが売られる頃だ。今度彼が家に来るまでには日持ちするはず。
「……雨が、強くなければ」
雨の日は、お互いに遠慮してしまうから。
残念な気分で女物の小ぶりな傘から滴る雫を眺めれば、映った緑に思い立ち、グウェンはその足を少し遠くに伸ばした。
『傘を、新調してみました』
帰宅してからすぐ書いた手紙にさりげなく付け加えて、ポストに投函しに、再び強くなった雨の中へ舞い戻る。
***
日曜の雨の日、馬車が走り去る前に歩み寄る。
雨除けの外套を着たヴァージルに広げた傘をさしかけると、空いた手がグウェンの手の少し上を、柔らかく支えた。
「……おはようございます、ヴェルズリーさん」
「おはよう、ございます」
そのまま傘が互いの間で揺れながら、足は近くの公園へ向いた。以前にも来たことがあるから、きちんと整備された煉瓦道のある場所で、滑りにくいと事前に分かっている。
そう、杖も靴も、滑りやすくなる。どうか何の憂いもなく歩けるといいのに、と思う。
「……お互い予定もありますし。日程の再調整よりは大きな傘があったら、と。それに、これから眩しい日差しの日もあるだろうと思いまして」
普段よりゆっくりとした歩調で、一歩足を踏み入れる。足で僅かに擦って確かめた煉瓦とモルタルの段差とヴァージルの足元を、杖の石突きを見比べる。
ヴァージルは、長めの杖を手放せない。いつも片手がふさがっているから、傘を差しにくい。傘を杖代わりにする紳士はいるけれど、兼ねることはできない。
だから雨が沢山降る日は馬車での外出になって、そして……彼が家からすぐ馬車を出すとなれば、どうしたって子爵家の馬車をグウェンのために用意して、一日付き合わせるということになる訳で。
「手紙の、傘の単語と引用された詩……会いたかったと受け取ってもいい、でしょうか」
あれは、馬車もない昔に書かれた詩。激しい雨の日、約束した恋人の訪れを、期待と諦念と共に家で待つ女性の、有名な詩の引用だった。
はにかみながらも踏み込んでくるヴァージルに、グウェンは喉を鳴らして言葉を続けた。
「その、雨が酷くなる前に帰らなければならないのは、少し寂しく思っています」
やっと先日気持ちを伝えあって、夜まで過ごせるようになったところだった。彼の家の御者も、まさか煩わせたくない。
でも、それと気持ちは別だ。ただ普段より言葉が急いてしまったのは、雨音にもかかわらず傘の中で言葉が反響したからかもしれない。
「あの、その……小雨の日は、室内で過ごすことが多かったですけれど。外出も私がいたらしやすいでしょうし――雨に濡れる植物も、瑞々しくて素敵ですから」
「……ありがとうございます」
ヴァージルは礼をするように目を一度伏せると、顔を上げ、
「でも、我が家に遠慮はしないでください。今度は雨でも行けるように……あの詩が出てくる、夕方からの軽いオペレッタも――というよりこの前の手紙にあった引用が気になりまして、お付き合いいただけたらと。
それから、今後夜の外出の機会もあるかと思うので……私からも近々きちんと、家族に話をするつもりです」
「……はい」
グウェンは頷く。
「劇もご一緒させてください」
灰色の雲から絶え間なく落ち続ける透明な雨は、濡れたレンガや樹々の色を映しながら、傘を叩く。
青みがかった黒の上をインクのように滑り落ち、再び透明に戻ってドレスの色を僅かに濃くした。
普段外出で取っている距離よりももう十分近い。
グウェンは早くなる鼓動を感じて、いつしか彼にばかり向けていた目を逸らそうと視線を辺りに移す。
優しくて明るい色に自然と目が惹かれた。
「あ、薔薇……」
煉瓦道の先に金属製のアーチがあって、淡いクリーム色をした大ぶりのつる薔薇が絡んで咲いている。雨雲で薄暗く青みがかった空気の中、雨露に濡れて馴染む濃い緑の葉と花のコントラスト。
きっと、彼にも見えやすいだろう。
側に寄ればほのかな甘い香り。
「綺麗ですね。雨に匂い立って、雫を乗せた花弁が艶やか……に……」
新調された単眼鏡を持てるようにと、傘をゆっくりとヴァージルから離そうとしたグウェンだったけれど。
雨だから周囲に人影はなくて、傘は傾いて、二人はその影になって。
肩にそうっと腕が回されて目が合えば、見開いてしまう。思ったよりその顔は近くて……だからちゃんと目線が合って、まるでここに二人だけだと錯覚しそうになって――、知らずしらずのうちに、深い青の瞳が目の前にあって。
「あのっ……肩が、濡れますから、」
声に我に返れば、彼も自身の声によって、弾かれたように手と体が引かれたのが分かった。
ヴァージルが赤い顔を逸らして、それでグウェンは顎を引いて、浅くなっていた息を吸った。
「お嫌でなければ、その、今だけでいいので……もう少し近くに、と」
慌てたような声に、グウェンは無言で頷いて、傘の下、肩をほんの少しだけ近付ける。
誰に見られても節度を越えていない距離まで。
「……見えている景色をお話しようと思っていたのに、今はうまく……できる気がしません」
それだけ何とか言えば、雨の日はまだたくさんありますから、と返ってくる。
顔を上げればヴァージルは照れたように微笑んでいて、でも思わせぶりなところはなくて。
それでグウェンは安心して、微笑を返した。
そうして傘から零れる雫はレンガ道の上に、どこか軽やかに今日の軌跡を残していく。




