【電子書籍配信記念SS1】紳士の社交場
電子書籍の配信記念SSの第一弾です。
今回のお話の時間軸は、Web版(電子版第一話)の終盤。ヴァージルが事務所を訪れなかった時期のお話です。
第二弾は先行配信版の配信日(7月24日)、第三弾は通常配信版の配信日(8月7日)に更新予定です。
王都が夕暮れに染まる頃、大通りに面したコーヒーハウスや酒場の賑わいが大きくなる。ひと仕事を終えた男性たちが食事をし、酒を酌み交わし、議論を闘わせているのだ。
場所と常連によっては高度な政治、経済、文学。時に階層を超えてあらゆる議論が展開される場所でもある。
欠点があるとしたらおおむね騒がしいところだ。
あちらこちらに人と声が入り乱れるその場は、しばしば聴覚に頼るヴァージル・マクラウドには、やや厳しい。
彼が乗る辻馬車は喧騒と大通りを抜けて、小奇麗な建物が並ぶ小道をしばし行き、ある一軒家の前で止まった。路面のガス灯に照らされた入り口は、ショーウィンドウもないけれど、ちょうど洒落た店のような雰囲気があった。
身分ある紳士がゆっくりと会話を楽しむに集う場所――会員制の社交場だった。
ひと月ぶりに見た古い扉は、良くも悪くも変わっていない。
……自分も、動揺していない。
ヴァージルは決心するように軽く息を吐いてから、ノッカーを手にした。
「……ああ、マクラウド」
落ち着いた内装の居間に入ると、議論しやすいように並べられたソファの上から一人、見知った顔が手を挙げる。いや、正確には、手の挙げ方と雰囲気、声で判断しているのだが。
「久しぶり。他の……会員は?」
「食堂で持ち込んだものを広げてさ、せっかくの美味しい食事を差し置いて議論中だよ。俺はここでその追いやられた可哀そうな料理を助けてるってわけ。実に勿体ない」
彼のすぐ側のテーブルには、紅茶と幾つものパイが並んでいる。
「せっかくの新作ミートパイ、食べなきゃもったいないぞ」
「いただくよ。……それで今日皆が、パイより夢中になってるのは?」
「パイと同時発売の万年筆とペン先、それに誰かが持って来た古い金属ペンの装飾……それに、新色のインク」
多くのクラブは概ね男性だけで構成されていたが、更に興味関心で別れており――つまり、同好の士が集うサークルだ。いや、多くは煙草と酒が付いてくるものだから、「煙草嫌い」クラブなんてものもあったけれど。
ヴァージルが顔を出すうちのひとつ、ここは「文具愛好家クラブ」だ。
「インクか」
「……お前もそれか。まあ、商売上敏感だろうからなあ」
「まあね」
そう、参加の動機は、文具へのただならぬ愛情というよりも、仕事に生かすため、領地で援助している学校のためという比重が大きい。
合成染料の開発の影響は、あらゆるところに及び始めている。今まで一部の色に限られていた衣服は勿論、印刷物や手紙の色に選択肢が増えるということは、誰かに取って見えやすい色と世界が増えるということなのだ。
「先に見てくるよ。……食事もちゃんと後でとる」
本心でも心なしか声が控えめになったのは、扉の奥から聞こえてくる熱気の中に、彼がいないか気になったからだ。
ヴァージルはコートと帽子をハンガーにゆっくり預けると、食堂の方へ向かいかけて、丁度出てきた男性に肩を叩かれた。
「あー、めちゃくちゃ良かった。炭酸水でも貰おうかな――ああ、ヴァージル!」
「……フィリップ」
入れ違うように戻ってきた長身金髪の男性が、人好きのする笑顔を浮かべる。
「心配してたんだぞ。手紙をくれても良かったのに」
「仕事が忙しくて」
嘘ではない。忙しいのをいいことに、しばらく朝から晩まで没頭していた。気を紛らわらせるためでもあり、言い訳にもなると思って寄らないでいた。
それに、今まで時折頼んでいた代筆屋には、滅多に行かなくなっていた――ウェルズリー代筆所に通い始めてから。
そして、今はまだ彼女の顔を見る勇気がない。
「ちょっと話そう」
そのまま、こっち、と扉の脇に誘うようにされるのに従う。彼は短い私立の寄宿学校時代からの気の置けない旧友の一人であり、そして――、
「あの恥知らずならあれからずっと来てないよ。と言うより来られない。追い出してやった」
女好きなのは分かってたけどな、とフィリップは肩を竦める。
――彼は、あの日に移動遊園地にいた友人たちの一人でもあった。
「……議題に上げたのか」
ヴァージルは眉を寄せる。困惑と、申し訳なさとに。
会員制のクラブの入会条件は色々あるが、この「文具愛好家クラブ」は他の多くのクラブと同じく、少なくとも会員からの推薦と、他の会員たちの承認が必要だった。それから逆も――強制脱退にも、全会員の三分の二以上の賛成が。
「当たり前だろ。友人の女に手を出そうとするなら、作法ってものがある」
「彼女は私のものじゃない」
「ああ悪い、言葉の綾だ。そんなことは分かってるよ」
「……言葉遊びじゃなくて」
――最初からティナ・サールと自分との間には何もなかった。
こちらが勝手に勘違いして、喜んでくれるならとプレゼントをして。
紳士としてエスコートした以上のことは、何も。
「うん、何だ……詳しい事情はともかく、紳士なら手順を踏まえるなり、正々堂々とお前とやり合うべきだったってこと。……最後は決闘したんだって?」
「……そんな勇ましいものじゃないけどね。取り合いでもなかった」
ただの子供じみた喧嘩で、馬鹿げた行動だった。
皮肉なことに彼女が欲しかったのでもなかった。本当に欲しかったのは、何故あんなことをしたのかという、二人からの説明と謝罪だった。
喧嘩の結果はといえば、これも大した釈明もされなかった。
だからまるで負け惜しみのように聞こえるだろう祝福を置いて、自分から立ち去った、というだけだった。
しかし何より嫌気が差したのは、自分の間抜けさと未熟さだった。
それなのに、自分には必要なことだったと、虚しさだけが残らなかったのは、代筆を続けてくれた彼女が――グウェン・ウェルズリー嬢が声を掛けてくれたからだ。
「まあ、気にするな。あいつもこの辺りで痛い目を見ておいて良かったんだよ」
確かに、時折噂になるように、老貴族の議員の若い恋人にでも手を出していたら、洒落にならないだろう。ヴァージルには別世界の話のようだったが。
「とにかく、しばらくすれば皆忘れてるだろう。あいつと顔を会わせる予定は?」
「ここでないなら、会わないんじゃないかな……仕事上の付き合いもないから」
「ならマシか。お前の弟なんかは、夜会で見かけたら嫌味の一つや二つ、言いそうだけど」
起きたことを過去にするように淡々と話すヴァージルに、フィリップは複雑そうに笑う。
「早めに切れて良かったって思うしかないな」
「……見えたら、もうちょっと違ったかな」
ティナに罵倒された内容は、誰にも話していない。
ただ……ティナとは関係なく。もし目が見えていたら、もっと早く気付いてうまく立ち回れたのではないか。
ぽつりと漏らすそんな本音に、励ますように首を振られる。
「いいや、変わらないね。俺たちもまさかって驚いたくらいだ」
「そうか……そうだな。仕事も落ち着きそうだし、また手紙でどこかに誘うよ」
……そうだ。また友人にも、各所にも手紙を出すことになるなら――その時には代筆所への相談と、何か美味しい手土産でも持って行こう。あまり動かさない表情の裡にある、彼女の優しさに感謝を込めて。
そう思えば自然に口元が綻ぶヴァージルの顔を、フィリップが珍しく、まじまじと見てくる。
「……何か?」
「お前まさか初めて……あー、いや。……うん。吹っ切れたなら良かった」
「ありがとうフィリップ」
ヴァージルは友人に礼を言うと、姿勢を正して盛り上がる食堂に足を踏み入れる。
「こんばんは――今日は新作が豊富だとか」
「これこれ、この機構だよマクラウド君。発想が斬新なんだ。インクを貯める場所がだね……」
「拝見します」
向けられる顔にいつも通り挨拶しお茶を取り、新しいペン先にはふと、それを持つ彼女の手を思い浮かべる。
それから得意げに見せられた、さっそく分解されている万年筆に苦笑し、忘れ。
そうして、日常を取り戻した。
少なくとも、今のところは。
この後、グウェンとのあれこれで情緒が乱されました。




