第15章
王都に帰還してから三日後。
俺は、王立魔法学院の広大な練習場にいた。
もちろん、俺が魔法の練習をするわけじゃない。
宮廷魔法使いの昇格試験が近いエリシアの「護衛」と称する、ただのお付き合いだ。
「くっ……! なんでなのよ!」
ドガァンッ! と派手な爆発音と共に、エリシアが放った炎の塊が、的から大きく逸れて壁に着弾した。
焦げ臭い匂いが、乾いた風に乗って漂ってくる。
「また失敗……。最近、全然集中できない……」
地面にへたり込み、燃えるような真紅の髪を悔しそうにかきむしるエリシア。
その姿は、いつも自信満々な彼女からは想像もできないほど、弱々しく見えた。
俺は、練習場の隅から声をかける。
「まあ、そういう日もあるって。少し休んだらどうだ?」
「あなたに何が分かるのよ!」
彼女は、潤んだ瞳で俺を睨みつけた。
その必死な様子に、俺は何も言えなくなる。
彼女はしばらくうつむいていたが、やがて、ぽつり、と蚊の鳴くような声で呟いた。
「……あなたのせいよ」
「え?」
「最近、ずっと……あなたのことばかり考えちゃって、魔法の制御がめちゃくちゃなのよ! どうしてくれるのよ、この朴念仁!」
顔を真っ赤にして、涙目でそう訴える彼女。
その破壊力は、さっき彼女が放ったどの魔法よりも強烈で、俺の心臓を的確に撃ち抜いた。
◇
結局その日の練習は打ち切りになり、俺たちは人気のない地下の個人練習室に場所を移していた。
ひんやりとした石の壁に、魔導ランプの光が揺れている。
「やっぱりダメ……。魔力の流れが、全然安定しない……」
エリシアは、壁に手をついて項垂れていた。
その華奢な背中が、やけに小さく見える。
俺は、気の利いた言葉もかけられず、ただ黙って彼女の隣に立っていた。
しばらく続いた沈黙を破ったのは、エリシアだった。
彼女は意を決したように顔を上げ、真剣な瞳で俺を見つめた。
「……ねえ」
「ん?」
「お願いがあるの。……私に、あなたのあの能力を使ってくれないかしら?」
その言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。
空気が、凍る。
「……な、にを、言って……」
「本気よ」
彼女の瞳は、冗談を言っているようには見えなかった。
「あの力の恐ろしさは、ルナから聞いたろ!? あれは、人の心を捻じ曲げる、呪われた力なんだぞ!」
「分かってるわ。でも、それでもいいの」
エリシアは、俺の前に一歩踏み出し、懇願するように続けた。
「私、どうしてもこの試験に合格したいの。もし……もし、あなたの能力を使えば、私の乱れた魔力を完璧に制御して、最高の魔法が使えるかもしれない。ほんの少しの間だけでいい。力を貸してほしいの」
その声は、震えていた。
プライドの高い彼女が、すべてをかなぐり捨てて俺に頭を下げている。
その事実が、俺の心を締め付けた。
「ダメだ。そんなことしたら、それはもうエリシアの力じゃない。それに、俺は……君の意思を、奪いたくない」
俺がそう言って拒絶すると、エリシアは悲しそうに瞳を揺らした。
そして、次の瞬間、彼女は俺の胸に、その柔らかい身体を預けるように、もたれかかってきた。
「……私ね、あなたのためなら、何でもしたいって思うの」
耳元で、甘く、吐息混じりに囁かれる。
花のようないい匂いが、俺の理性をぐらぐらと揺さぶった。
「あなたに助けられたあの日から、ずっとそう。だから、あなたの能力で操られたとしても、私、本望なのよ」
彼女が、ぐっと顔を上げる。
その拍子に、彼女が着ていた魔法学院の制服の、一番上のボタンがぷちり、と音を立てて弾け飛んだ。
「あっ……」
白いブラウスの襟元がはだけ、そこから現れたのは、繊細な赤いレースに縁取られた、豊満な胸の谷間だった。
汗でしっとりと濡れた白い肌が、魔導ランプの光を浴びて、艶めかしく輝いている。
「……っ!」
俺の視線は、その一点に釘付けになる。
エリシアの、献身的な言葉。潤んだ瞳。
そして、目の前に広がる、あまりにも扇情的な光景。
ダメだ、と頭では分かっているのに、身体の奥底から、どす黒い欲望が鎌首をもたげる。
――ズキンッ!
脳髄を灼く、あの忌まわしい衝撃。
世界の色が、一瞬だけ反転する。
目の前のエリシアの瞳から、勝ち気な光がすうっと消え失せた。
代わりに宿るのは、すべてを委ねるような、とろりとした恍惚の光。
彼女は、ゆっくりと俺の前で膝まずいた。
その仕草は、まるで騎士が主に忠誠を誓うかのように、神聖ですらあった。
「――蒼真様の望みを叶えるため、私の体も、心も、すべてを捧げます」
その声は、蕩けるように甘く、俺の鼓膜を震わせる。
彼女は、うっとりとした表情で、自らのブラウスの二番目のボタンに、ゆっくりと指をかけた。
ヤバい。まただ。俺は、また……!
「違うッ! 俺はそんなこと望んでない!」
俺は、罪悪感でぐちゃぐちゃになった頭で、必死に叫んだ。
「ダメです! 服を着て! 普通にしてくださいッ!」
俺の悲痛な叫びに、エリシアの身体が、ぴくりと震える。
彼女の瞳から、妖しい光が消え、いつもの勝気な光が戻ってきた。
「……あれ? 私……」
彼女は、自分が膝まずき、胸元をはだけていることに気づき、ハッと息を呑んだ。
だが、彼女は恐怖に震えたり、俺を詰ったりすることはなかった。
それどころか、頬をほんのりと朱に染め、どこか夢見るような、ぼんやりとした表情で俺を見上げている。
「……なんだか、今……すごく強力な魔法が、完璧に使えるような……そんな気がしたわ……」
その言葉に、俺は背筋が凍る思いだった。
彼女自らが、その身を差し出し、能力の使用を求めてくる。
支配する側と、される側の境界線が、ぐにゃりと歪んで溶けていくような、底知れない恐怖。
俺たちの関係は、もう引き返せないところまで来てしまったのかもしれない。




