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「———ったく、世話焼かせやがって」
「ご、ごめんなさい」
蓮華は護に手を引かれて歩いていた。
護と蓮華は頭一個分以上身長が違う。当然足の長さも違う。となれば歩くペースだって違う。けれど蓮華にとって慣れたペースなのは、護が合わせてくれているに他ならない。
蓮華によって迷惑をかけられて怒っているだろうに、こういう優しいところが護にはある。そういうところが蓮華は堪らなく好きなのだ。
「あ、あのっ」
「ん?」
「さっきはありがとうございました」
「はいはい、どういたしまして」
「護さん」
「なに?」
くるりと護が振り返った。真っ黒い護の目が、こちらに向けられる。自分とはまったく違う真っ黒い瞳だ。吸い込まれそうなほどの闇。
途端に思い出す、さっきの護の言葉。
『こいつが俺の嫁さん』
首筋まで真っ赤になるのを蓮華は自覚する。
はっきりそう護に言われたのは、結婚して数えるくらいしかない。もっともこの結婚は期間限定だったし、周りにこの事実を話すことも極力なかった。離婚前提の結婚だった。だからお互い夫婦であるようなセリフを口にすることはほとんどなかった。
だから護にとっては、何気ない一言だったのかもしれない。だけど彼に想いを寄せる彼女にとっては特別な言葉だった。
蓮華は熱を持った己の頬を両手で覆いながら、溢れる温かな気持ちを口に乗せる。
「嬉しかったです」
「なにが?」
———『嫁さん』だと、いってくれて。認めてくれていて。
とはさすがに恥ずかしく、護にいうのが出来なかった。出来たのは照れ隠し故の真っ赤な笑顔。
「えへへ」
「変なやつだなあ」
困ったように、それでも笑ってくれた護の、彼と繋いだ手に蓮華は力を込めた。
「———あれ? 護せんせー?」
「え?」
「あー、やっぱりぃ! せんせー!!」
この通りを出れば、いつも待ち合わせに使っているコインパーキングまですぐ、というところだった。向かいのコンビニから手を振っている女性がいた。彼女は道路を渡り、こちらにやってきた。
高い身長に、すらりと伸びた体躯が目を引く。身体のラインが目立つ服をきているせいで、それがよくわかった。年頃は蓮華と同じくらいだろうか。間違いなく美人といわれる顔つきは、今は少し紅く染まっていた。
ずくんと、蓮華の心臓が嫌な音を立てた。彼女は、蓮華にとって見覚えのある女性だった。数日前に護の腕をとって歩いていた女性。
知らぬうちにあのとき感じた胸の詰まりが再度生じる。彼女は敵だと一瞬でも思ってしまえば、さすがに自らの醜さを痛感せざるを得なかった。今きっと、内面同様ひどい顔つきをしているだろう。
「お、おお? なんだ、美空かー」
「『なんだ』とはなんですかぁ!」
「悪い悪い。てか何やってんだ、こんな時間に」
「ちょっとここのコンビニー」
ふいに美空と呼ばれた女性が、蓮華に視線を寄越してきた。彼女の瞳に宿している感情は好奇心。そして蓮華が護と手を繋いでいることを見て、嫉妬の炎が燃え上がるのが分かった。
「こっちの人はー?」
「ああ、こいつ?」
「うっわ———、すっごい美人さんじゃないですかぁ!」
美空に覗き込まれ、蓮華は思わず一歩引き下がった。
それはあからさまにこちらを値踏みしている目だった。細められる彼女の目はいい気持ちはしないし、正直怖い。何より、若さ故なのか、彼女自身のものなのか、恐ろしいほどの意志の強さが怖かった。
「まさか恋人ですかぁ?」
「まあ恋人じゃねえなあ」
「やっぱり! 違うんじゃないかなーと思ったんですよっ」
美空がふっと笑った。勝ち誇ったような笑みだった。
「だってせんせーには美人すぎてもったいない!」
「否定はできねえなあ」
「せんせー地味過ぎるもんねっ」
「それも否定できねえな。でもこいつ、俺の嫁さんだ」
「えっ?」
途端に美空の目が見開かれた。
「せんせー、結婚、してたの……?」
「してる」
「え、だって……」
美空の驚いたままの視線が、護の手に持っていかれる。その左手の、薬指に本来あるべきものを捕らえようとしたのだろう。それは既婚者の証。夫婦となったものの半分以上が指に収めているであろうもの。
彼女が探したもの、それは———……
「だって、指輪は……」
「あー…、指輪はしてないんだけどな」
「う、そだぁ」
「俺の嫁さん見ると、だいたいそういう反応されるんだよな。ま、蓮華は俺よりよっぽど若くて美人だからなあ」
美空が護に想いを寄せているということを、どうやら本人はまったく気がついていないようだ。しおれるように美空は俯きがちになったが、握られている拳は震えている。それくらい彼女は本気なんだろうな、と蓮華は思う。
可哀想だ、と思うことはなかった。自分もそう大して変わらない存在なのだと蓮華は自覚しているからだ。護を想う気持ちが本物であることも、けれど彼からはそういった対象で思われていないことも、蓮華と美空は本当によく似ている。
確かに一緒にいた月日がある分、護から受ける家族愛は美空よりはあるだろうが、それはそれで辛いものだ。
「じゃ、俺らそろそろいくわ。美空も気をつけて帰れよ」
「………はぁい。おやすみなさーい…」
「おやすみー」
護によって繋がった手が引かれた。
すっかり傍観者となっていた蓮華は、美空に挨拶すべきかどうか迷うが、結局何も言うことができずお辞儀をするだけにとどまった。
下げた顔を上げた瞬間、美空と目が合う。はっきりとは分からなかったが、何か強い意志が込められたような視線に、蓮華の心は情けなくもひどくざわついた。
そして唐突に、以前見かけた護と腕を組んで歩いている美空の姿をはっきりと思い出す。あの昼間の出来事に関することは、しっかりと蓋をして心の奥底に沈めたはずなのに、この鮮明さ。どろりと溢れた嫉妬心が、蓮華の心を腐らせる。




