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喫茶店『宿り木』の閉店時間は22時40分。23時までの20分は片付けとホールの掃除に当てられている。
閉店と同時に奥の従業員休憩室から姿を出した蓮華は、まず店先ののぼりと外に出入り口におかれたマットを回収した。それからテーブルとカウンターテーブルの椅子を引き出し、モップで床を隅々まで磨き上げる。それが終わったら店内に飾られている観賞植物に水をやり、テーブルを拭き上げる。
残すはあとカウンターテーブルというところで、『宿り木』の自慢の置き時計がちょうど午後23時を指した。11回響く音は、作られてから刻んだ時間の重さを感じる気がする。ずっしりと重く、それでいてどこか軽やかにも聞こえる。不思議なこの音が、蓮華は好きだ。
鳴り終わってまもなく、奥のキッチンからマスターの杉村が顔を出した。
「お、もうこんな時間かあ。蓮華ちゃん、上がって上がって」
「わかりました。じゃあカウンターだけ拭いてから上がります」
「ありがとう、助かるよ」
慣れた手つきでカウンターテーブルを磨き上げた蓮華は、使った布巾を勝手口裏に置いてある専用の洗濯機に入れた。そのまま勝手口を閉め、黒いエプロンを外しながら従業員用の休憩所に向かう。与えられたロッカーにエプロンをしまった。
パタンと扉を閉めた途端、唐突に閉店間際のことを思い出した。
『君、名前は?』
『なんでよ、いいじゃーん』
『じゃあさ番号教えてよ、携帯の』
『仕事終わったらどっか食べにいこうよー』
男のべたつくような声。寄越してきた視線も、そう変わらないものだった。あのとき感じた嫌悪感を思い出して、蓮華は思わず身体が竦んだ。
ああやって男性に声をかけられることは、蓮華にとって初めてではなかった。どうもクォーターという特殊ともいえるこの外見は、人受けがいいらしい。学校を含め、護が一緒ではないときにたまにあることなのだが、だからといってあそこまであけすけな視線を送られたことはなかった。あんな風にいきなり手を取られることもなかった。
知らずのうちに蓮華は、あの男に掴まれた手首を擦る。
怖かった。気持ちが悪かった。触らないでって、大声で叫びそうだった。
「…………」
蓮華は大きく息を吐く。こんなこと、もう忘れよう。次なんてことはないだろうし。えらく沈んでいた気持ちを無理矢理浮上させる。
しまったエプロンの代わりに取り出していた上着を羽織り、バッグを手に蓮華は部屋を出た。
「マスター、それじゃあお先に失礼します」
キッチンの流し台で洗い物をしている杉村を見つけ、蓮華は彼に声をかけた。
「お疲れさま。時間も時間だから気をつけてね」
「心配いただきありがとうございます」
「あ、でも護くんが迎えにきているから大丈夫、かな」
茶目っ気のある笑みで杉村に言われ、蓮華は頬が熱くなる。そのことでさらに「若いっていいねー」と言われた。首筋まで紅くなっているんじゃないかと思いつつ、それでも蓮華は頷いた。
店前で見送ってくれる杉村に、蓮華は手を振って後にした。
腕時計を見ればまもなく23時10分。いつもより5分ほど遅い。待ってくれているであろう護を思えばとても歩いていられず、蓮華はバッグを抱え小走りになる。
護を見つけて、彼の傍に走っていくことが好きだった。「お疲れー」と必ず声をかけてくれる優しさが好きだった。
早く護の許に行きたい。堪らずに緩む頬を上気させながら、蓮華は走っていた。
護との約束の場所までもうすぐ、といったところで脇道から人影が飛び出してきた。護かと一瞬思ったが、背の高さからいって別人だとすぐに気がついた。
蓮華はぎくりと足を止める。その男の顔に覚えがあったからだ。足を止めた蓮華に、男が手を上げて寄ってくる。男は、閉店間際にやってきて絡んできたあの男だった。
無意識に内から男に対する嫌悪感が溢れ、背中にひやりと汗が流れた。
「今上がりでしょ? さっき君が店から出てくるの見えてさ。ねえ、どっか食べにいかない?」
「…………、ご遠慮します」
「なんでー? いいじゃん、いこうよ」
男が手を伸ばしてきたので、とっさに蓮華は身体を引く。また触られるのはごめんだった。男の様子に警戒しつつ、蓮華はじりじりと後ずさる。
たぶんこの男は、大人しく道を通してはくれないだろう。へらへらと笑ってこちらに近づいてきていることがいい証拠だ。蓮華はそう悟る。この道が一番護が迎えにきてくれている場所に近いのだが、残念ながら突っ切ることなど出来そうになかった。
「急いでいるので、失礼します」
蓮華はくるりと男に背を向けると、脱兎のごとく走り出した。
バッグを掴む手はすでに厭な汗で湿り、逆に喉はカラカラで痛いくらいだった。ごくりと生唾を呑み込むも、その乾きは一向に治まらない。ひざに上手く力が入らないのは、恐怖で震えているせいか。
「ちょ、ちょっと待てって!」
最悪なことに、男が追いかけてきた。
自慢ではないが体力に自信はない。加えて運動は大の苦手だ。高校時代の体力検査はいつだって、最低ランクだった。
そんな蓮華がどれだけ懸命に走ろうとも結果は見えていた。男の足音がどんどん近づいてくる。
思わず振り返れば男との距離は相当近く、その上腕をこちらに伸ばしかけていた。
捕まる。考えただけで顔が恐怖に歪むのが分かった。
もう少し戻れば、往来の多い道に出る。もうちょっと、もうちょっとだ。
必死にそう言い聞かせて、蓮華はもつれそうになる足を必死に動かす。浅くなる呼吸に苦しさを感じるが、胸を押さえてなんとか堪える。もうあと5メートル。
助かったと喜びにぎゅっと目を瞑った瞬間、人にぶつかった。その反動で尻餅をつきそうになったが、思いがけず相手が抱きとめてくれたようだった。
地面に尻をつくことがなかったと喜んでいいところなのか、はたまた追いかけてくる男に確実に捕まってしまうと青くなるところなのか。
「大丈夫か?」
「きっ……」
振ってきた声は護のものだった。彼を覗き込んで、護で間違いないことを確認する。途端に不安で押し潰されそうだった胸の苦しさが、すっとどこかに吹き飛んでしまったようだ。ほっとした胸に残るは、ただの走ったことでの息苦しさだけ。
よかった。蓮華は泣きそうになりながら、乱れていた呼吸を正そうと大きく息を吸った。きっともうこれで大丈夫だ。疑うことなくそう確信する。
「ちょっとおい! その子俺が先に見つけたんだから、脇から手ぇ出さないでくれよ」
背後からかけられた言葉に、蓮華は肩を振るわせた。振り返ればあの男がいて、こちらに歩み寄ってきている。反射的に護の背後に回った。彼の腰あたりの服をぎゅっと掴む。
護はそんな蓮華と目の前の男を交互に眺め、事態を把握したようだった。
「あー、悪いな。こいつ売約済み。他あたってくれ」
「あ? なんだお前」
「何って旦那だけど?」
「はァ?」
「だから、俺らは結婚してんの。で、こいつが俺の嫁さん」
護の纏う雰囲気が、ぞっとするほど冷たくなった。……ような気がするのは間違いないだろう。
けれど目の前の男はそのことに気づかなかったらしい。ウハハハ、と男が笑った。
「なんだそりゃ、つんまんねー冗談だな!」
ハハハ、と護も合わせて笑った。
けれど蓮華一人、とても笑えそうにないと思う。護の背負ったものが、いっそうドロドロと闇を深めたからだ。一見笑っているように見える護だが、その目は一切笑っていない。
男が手を伸ばしてきた。蓮華が悲鳴をあげる間もなく、その手は護によって掴まれた。
「俺、そういう冗談嫌い」
「いっ…!」
「っつーわけで、こいつに手ぇ出さんでくれる?」
「いってーな!離せよ!!」
護によって締め上げられる手が相当痛いらしい。男の表情がひどく苦痛に歪んでいる。実際護に掴まれている手が相当圧迫されているようだ。男の掴まれている部分の手先の血色がなんだかおかしい。
それでもまだ護は笑顔で締め上げ、「返事は?」と男に問うていた。
「わーった!わーったよ! だから離せ!!」
ようやく護は手を離した、と同時に男は身を翻して逃げ出した。体格的にも勝てないと思ったのだろう、男の中でも護は大柄なほうだ。力も空手を学生のことから現在進行形でやっているだけあって、やはり強いのだろう。
逃げていく男の背を一瞥しながら、「非力だな」と護は鼻で笑っていた。




