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FLORIOGRAPHY Ⅱ  作者: ジグマ
アネモネ◆恋の苦しみ
12/18

[2]

 あの昼間の出来事で何か変わったことがあったか、と聞かれても、蓮華の返事は『ない』の一言に尽きる。もちろん心にしこりのようなものは出来たことは認めるが、表面上はいつもと変わらないように努めた。


 平日は専門学校に通い、空いた時間に家事をこなし、決まった曜日のアルバイトに精を出す。その帰りは必ず護が車で迎えにきてくれている。もちろん塾講師がある日でもだ。

 そんなだから毎回迎えにきてもらうのは申し訳なくて何度も断りをいれるのだが、そのたびに却下され「ならバイトやめるか?」といわれてしまう。一応仏頂面をつくって抵抗してみるものの、「そんな面したって無駄だ」と軽く額を小突かれて終わってしまう。


 そんな泣きたくなるほど幸せな日々は、けれど間違いなく静々と終わりに向かっている。時間の流れは止まることはなく、未来は必ずやってくる。

 あと半年もせず終わってしまうこの日常、だからこそ終わるそのときまで大事にしようと思った。嫌な想いはみな、無理矢理でも噛み砕いてしまおうと思った。そうしてあの昼間の出来事も、無理矢理蓋をして見なかったことにした。ふいに感じる、胃が引き攣るような痛みも気のせいだと無視した。


 そうまでしても、蓮華は少ないこの時間を大切にしたかった。




 ◇◇◇     ◆◆◆     ◇◇◇




「いらっしゃいませ」


 やってきた客は20代に前半ほどの、若い男一人だった。茶髪、というには明る過ぎる髪はずいぶんと痛んでいる。だらしなく着崩した服装は若者らしいといえばそうかもしれないが、蓮華にとってあまりいい印象ではなかった。

 正直、関わりあいたくない人だ。男は即、そう蓮華の中で位置づけられたが、いかんせん彼は客だ。接客が自分の仕事で、男が好ましくないからと逃げるわけもいかない。あくまでも従業員として接しなくてはならないのだ。


 時計を見れば閉店まであと20分。時間的に空いている今は、カウンターかテーブルを問うてから案内した。男が席に着いたのを見計らって氷の入った冷水を出し、注文を聞く。

 男が頼んだのは紅茶と軽食だった。店のマスターである杉村は今奥で電話中のため、蓮華自らカウンターと対面式のキッチンに入る。紅茶よりも時間のかかる軽食から作り始めた。


「お待たせしました」


 蓮華はできたての注文品を盆に乗せ、カウンターに座る男の前に並べる。どうぞごゆっくり、と下げた頭を上げれば男と目が合った。まるで、値踏みするかのような視線だった。

 やがて男がにんまりと笑った。途端ぞくりと身体に悪寒が走り、ぶるりと身体が震える。その笑顔の裏に、何か隠されているような気がしたからだろう。それも、きっとよくないものだと直感する。


「君、可愛いねえ」

「……そんなことありません」

「またまたあ、謙遜なんかしちゃってー。ますます俺好みだなあ」

「……本当に謙遜だなんて、とんでもないです…」


 あからさまに困惑気味の返事と表情を返す蓮華だったが、男は気にすることもない。むしろ「そういう困ったような顔もいいね」とすら言い切った。どうも嫌な言い方をする人のようだ。


「君、名前は?」


 へらりと問われた内容に、さすがの蓮華もつい眉根を寄せる。

 はっきりいって不快だった。ウェイトレスとして接客はするつもりではいるが、プライベートの質問に答える気はない。蓮華は少し声のトーンを落として答えた。


「……申し訳ありませんが、そういったことはお答え致しかねます」

「なんでよ、いいじゃん〜」

「……申し訳ありません」

「じゃあさ番号教えてよ、携帯の」

「あの、ですから……」

「仕事終わったらどっか食べにいこうよー」

「………」


 まったく会話が噛み合なくて、蓮華は話す気力すら失いかける。なかば絶句しかけていたら、あろうことか男に手を取られた。反射的に男から腕を引こうと思ったが、想像以上に強い力で握られていた。

 嫌な汗が背中を走る。男はなおも「ねえねえ」と呼びかけてくるが、とても返答する余裕などない。溢れる嫌悪感に、身体の芯が冷える。

 この危機をどう乗り越えるべきか。真っ青になっていた蓮華の耳に助け舟。


「蓮華ちゃん、ちょっとこっち来れますか?」


 声とともに杉村が奥から顔を出した。どうやら電話が終わったようだった。岩のように固まっていた身体の呪縛が解け、蓮華はそのまま己の手も取り返す。

 ほっとしたのもつかの間、男がさらににたにたと笑いかけてきた。


「可愛い名前だね、蓮華ちゃん?」

「………」


 どうぞ、ごゆっくり。一礼して蓮華は男から離れる。「またあとでね〜、蓮華ちゃん」という背中に投げ付けられた言葉は聞かなかったことにした。蓮華は足早に、奥から出てきた杉村のもとに向かった。


「お待たせしました。それでマスター、ご用は…?」

「閉店までのあと10分、奥で休憩していてください」

「え…?」


 蓮華は首を傾げる。この時間に休憩をとることなど今までなかったからだ。だいたいつい2時間も前に、15分休憩をもらっている。どうして、と聞く直前に杉村の表情が曇った。


「僕が裏で電話していたばっかりに。あの男性客にちょっかい出されていたでしょう? すみません、嫌な思いさせてしまって……」


 ああ、そうか。彼はそれを気にしてくれてこんなことをいったのか。

 蓮華は苦笑して首を振った。本来ならば杉村が謝る必要などないことだ。きっとこれが彼の性質なのだろう、少しでも己のテリトリーに入っているものは庇護する。本当に杉村は、自分にはもったいないくらいの過ぎた雇い主だ。


「ちょうど裏から戻ってきたときに見たんで急いで呼んだんですけど、間に合っていませんでしたよね」

「そんなことないです、十分に助けていただきました。大丈夫です」

「とにかく、何かあっては遅いので、閉店までは奥にいてくださいね」

「でも……」

「それに護くんにも常々よろしく、と頼まれてもいます。何かあったら本当に申し訳が立ちません」

「え……?」


 初耳だった。護がこの喫茶店を知っていることは知っていたけれど、この店に来たことは知らなかった。実際蓮華が働き始めてから店に来たことはないし、迎えにきてくれるといっても店の近くのコインパーキングで待ち合わせだ。なのにいつ杉村と話していたのだろうか。

 とはいえ基本的に護が外出するとき、蓮華は何も聞かない。仕事の打ち合わせに行くといって出て行く護を、蓮華はただ見送るだけ。どこに行っているのか気にしてもいなかったが、もしかしたらこの店を使っていたのだろうか。それで、ここで働かせてもらっている自分の心配をしてくれていたのだろうか。だとしたら———。

 思わず俯いて紅くなってしまった蓮華に、杉村は柔らかく笑いかける。


「なんたって昔から大事に通ってくださっている方のお嫁さんですからね。しっかりお預かりしないと怒られちゃいます」


 結局杉村に適うこともなく、紅くなったままの蓮華は閉店まで奥に引っ込むことになった。

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