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心臓を掴まれるっていうのは、きっとこういうことをいうんだろうな。
足はしっかり凍り付いているのに、どうやら思考はまだ活きていたらしい。往来のある道路の真ん中で立ち竦んでしまった蓮華は、そんなことを思った。午後の授業が急遽なくなり、しかも今日はバイトもない日だからと、まっすぐ家に帰ることを決めた約1時間前の自分が心底恨めしいと唇を噛んで。
目の前には本屋から出てきた護がいた。こちらには気がついていないようだった。
時計を見ればまだ13時過ぎ。塾の出勤時間にはまだ少し余裕がある。きっと本屋に行くために早めに出たのだろうとは察しがついた。
現に彼の左手には買った本が入っているであろう袋。そこまでは分かった。理解もできた。
「………」
でも、と蓮華は目の前が暗くなるのを感じる。日が陰ったわけではない、心に湧いた煤が、勝手に視界まで覆ってしまったようだった。
護は一人ではなかった。彼の右腕を抱えて隣を歩いている女性が一緒だった。
背が高く、明るそうな美人。というのが、蓮華が護の隣を歩く女性の第一印象だった。たぶんそう自分と年齢も変わらないだろう。すらりとした女性ならではシルエットが美しく、ショートパンツから伸びた足が眩しかった。
けれどなにより一番印象深かったのが、彼女が護を見る表情。少し頬を上気させて、彼女は満面の笑みだった。どうしてそんな表情なのかだなんて、察しできないほど蓮華は子供でもなかった。
思わず蓮華は胸を押さえる。あまりの衝撃に心臓が痛い。呼吸が上手く出来なくて、何度も胸元を撫でたけれど一向によくならない。それどころかよけいに胸が苦しくなった。
ねえ、その女の人は誰?
どうして一緒にいるの?
どうして腕を組んで歩いているの?
好きな人ですか? 恋人なんですか?
———……どうして、どうしてどうして………
もう一度、蓮華はちらりと前を見る。夢うつつであってほしいと望んだけれど、やはりそう世の中は甘くないらしい。どれだけ願っても願っても、前を歩いている護も、その腕をとって歩いている彼女も消え去ってはくれなかった。
分かっていたはずだった。いつかこんな日がくるかもしれないと、ずっと怯えていたではないか。いずれ自分ではない誰かが、護の妻になることもあるだろうとも覚悟していたではないか。
自分と護を結ぶものがどれだけ儚いものかだなんて、とっくに知っていたことだった。たしかに護との間には夫婦としての絆はあるが、それは夫婦本来の愛情からきて結んだものではない。そもそも護の同情からの一時的な絆で、一生を約束したものでもない。所詮はかりそめの縁なのだ、自分と護の絆なぞ。
どの道さほど遠くない未来で壊れるはずだった。少しその時期が早かっただけということ。そう思うしかなかった。
虚しい現実に、いっそ笑いがこみ上げる。目頭がこんなにも熱いのに、心のどこかでこれらを受け入れがたいのか溢れるものは何もない。泣けたら楽になれるのだろうか。恐ろしいくらいの喪失感に、ただ声もなく笑った。
そうして今更ながら、今更だからか、護に寄せる想いの大きさを自覚させられた。
俯きがちの視界の片隅で、駐車場に止めている愛車に乗り込む護の姿があった。
隣にいる彼女が何かいっている。多分乗せて欲しいとでもいっているのではなかろうか。さっき見た彼女の顔から護に好意を寄せているのはよく分かっていた。好いた相手と出来るだけ一緒にいたいと想う気持ちは誰にだってあろう。もはや想像するだけで苦い思いが溢れてくる。
果たして彼女を乗せるのか乗せないのか、一体どうするのだろうかと盗み見てしまう己にうんざりしつつ、それでも蓮華は彼らを視界から追い出すことも出来なかった。
護を乗せた車が出る。
結局護は彼女を乗せなかった。代わりに何か護は彼女にいったようだが、もちろん聞き取れなかった。
彼女が護が乗る車に手を振っている。とても幸せそうな笑顔で、それこそ慕ってやまない恋人といわんばかりの眩しい笑顔で手を振っている。羨ましいくらいに輝いている彼女に、蓮華は胸が焼かれ焦げ付くのを感じていた。
護の乗った車が見えなくなり、手を振っていた彼女も気がすんだのか、手を下ろしやがて蓮華の先を歩き出した。自信が満ちあふれているような後ろ姿を、蓮華はただ呆然と見つめていた。
彼女は、護が結婚していることを知っているのだろうか。知っていて、あそこまで強い好意を寄せているのだろうか。あれだけの美人だ、護だって想いを寄せられて悪い気はしないだろう。
しばらく、動けそうもなかった。
◇◇◇ ◆◆◆ ◇◇◇
それから家に帰ってきた蓮華は、家事に精を出した。家中を掃除して、庭の雑草をすべて抜いた。おかげで汗をかいたので、シャワーを浴びた。
蓮華は濡れた髪を拭きながら、時計を見る。時刻はまだ17時。
そういえば少し、冷蔵庫の中身が寂しくなっていたっけ。
髪の毛が乾いたら買い物に行こう、と蓮華は決める。とても一人、家でゆっくり過ごしていたくなかった。今なお脳裏にこびり付いている昼間の出来事のせいで、悶々と嫌なことばかり考えてしまいそうだった。
護の隣で、彼の手を取って歩く彼女。思い出すだけで思わず唇を噛む。どうしようもない苦しさと苛立ちに似た思いを抱く。やきもちを妬いているんだと、自覚せざるを得なかった。
なんて浅ましいんだろうと思った。この結婚をしたとき、いずれ別れることが前提だった。だからいつかこんな日がくるなんてことははじめからしったこと。なのに今更になってどうして、と己が情けなくて仕方がなかった。
護の隣で、幸せそうに笑う彼女が羨ましかった。感情を表に出せるその素直さが、羨ましかった。自分と違い、一切護に負担をかけていない故に出来る行動と表情が羨ましかった。妬ましかった。
……護の隣はまだ自分の居場所はずなのに。
「………」
蓮華は髪を拭く手を強める。
やっぱり一人でいたら、いらないことまで考えてしまう。早く髪を乾かして買い物に行こう。そうしたらきっと、気が紛れる。こんな思いを抱くことなどなくなる。なくなってほしい。忘れたい。
髪を拭き終え、早々に着替えた蓮華は買い物に出た。
10月に入ってまもなくだからなのか、まだ夕日が残っていた。といってもあと1時間はもちそうにない熟れ具合。空に蕩けるような緩い残影を残している様は本当に綺麗だと思う。たとえまもなく消えるものだったとしても、それはそれで儚く価値のあるものだと人は思うのだろう。
自分もこの夕日のように、護に覚えていてもらえる存在になれたらいいと思う。いつ何時でも思っていてくれなくていい、たまにふと思い出してくれる程度でいい。それだけで幸せだと思える。
護の傍にいられる時間はもう少ない。なのに昼間のことをこれからも気にして、暗い感情でばかりにいるのはもったいないというものだ。
腹の底で今なお蠢く思いに、蓮華はきつく蓋をした。




