第九十三話 侯爵様と城壁の街ウスイ
ウスイの街に向かう途中、ワイバーンの群れに遭遇した侯爵様たち。
魔王国では干し肉となるワイバーンだが、実際に生きている姿を目にすることは初めてだった。
以前、セイバスさんからもらった図鑑で調べたところ、亜竜に分類されるワイバーンは全長五メートル前後。魔王国ではウスイの街の北にある『ドラゴンフォール山脈』などの山岳地帯に住んでいる。ドラゴンに似ているが、炎の息吹などを吐くことはできない。だが、空を自由に飛び回り、鋭い足の爪を持つ凶暴な魔物であることに変わりはない。特にその尾に持つ毒針には要注意だ。
侯爵様御夫妻のような高位魔族にもなればワイバーンの毒も無効化できるだろうが、僕の場合、致死性の猛毒となるのは間違いない。自分で言うのもなんだが、間違いなくお釣りが出るくらい即死できる自信がある。
ワイバーンの群れは六匹。
すでにこちらを視界に捉えているようで、馬車から少し離れた場所に立つ侯爵と奥様のはるか頭上を、円を描くように飛んでいる。隙を伺っているのか、まだ襲いかかってくる気配はない。
「ふむ。まだ若い個体だな。それにしてもなぜこんな街道にワイバーンが? 山で何かあったのか」
侯爵様が肉屋か狩人のような軽い口調で奥様に声をかける。
何やらすごく楽しそうだ。
「どうかしら~。たまには迷ったワイバーンが来ても不思議じゃないわ~」
エリス奥様まで狩人の奥さんのような言葉を侯爵様に返している。
そんな奥様もワイバーンを見上げながら楽しそうに笑っている。
「まあ、いいか。じゃあ、さっさとやろう。エリスは二頭ばかり落としてくれ。ほかは私がやる」
「わかったわ~、あなた~」
侯爵という高い地位に就く貴族なのだが、なぜお二人はそんなにやる気に満ちあふれているのだろうか。いや、殺る気に満ちあふれているのだろうか。
セイバスさんの顔を見上げると、眉間を指で押さえていた。
セイバスさんにはセイバスさんの思いがあるようだ。
戦いの火蓋は侯爵様によって切って落とされた。
侯爵様が右の手のひらを空に突き上げる。
ワイバーンが飛んでいた空域に、突如、視界を塞ぐ濃い霧が大量に出現する。いきなり視界を塞がれたワイバーンは恐慌をきたしたのか、「ギャァギャァ」と騒ぎ始めた。だが一向に霧の中から出てくる気配がない。霧の中から翼を動かして風を切る音が聞こえてくるだけだ。中の様子は見えないが、恐らく空中で停止しているのだろう。
次に、奥様が空にある霧に向かって息を吹きかけた。その息は冷気の粒となって太陽の光に反射しながら霧の中に吸い込まれた。その刹那、「ギッ」という短い悲鳴のような鳴き声がふたつ、霧の中から聞こえてくる。
中では何が起こっているのだろうか。
その声と同時に侯爵様が突き上げていた手のひらを固く握った。その途端、騒がしかったワイバーンの声がピタリと止む。声も翼が風を切る音もなく、霧以外何もなかったかのような静寂が訪れる。
「んん?」
「あ、あら?」
突然、静かになった空に向かってお二人揃って声を上げた。
お二人の声には少し焦りの色が混ざっている。特に奥様の口調はいつもよりも早口であった。いつもなら、「あら~」くらいの長さのはずだ。
そんなお二人の様子に、違和感を覚えた僕はふと目を上に向ける。そこにあったのは太陽に反射する何かだった。その何かは、ゆっくりと地面に向かって落ちてくる。しかもそれは地面に近づくにつれ、大きく速くなっていくではないか。
目を凝らして良く見ると、それは巨大な氷柱だとわかった。尖った部分を下にして、わずかにドリルのように回転する氷柱が太陽の光を反射しながら空から降ってきたのだ。
幸いなことに落下が予想される場所には誰もいない。
侯爵ご夫妻や僕たちとも離れている。
辺りに大きな音が鳴り響く。
上空から降ってきた二つの巨大な氷柱が、街道から離れた地面に突き刺さったのだ。それは地面が揺れるほどの衝撃だった。その衝撃で砂煙が舞い上がる。
しばらくして砂煙も落ち着き、改めて降ってきた氷柱を見た。
よく見ると氷柱の中にワイバーンが飛んでる姿勢のまま氷漬けになっている。五メートルはあるワイバーンを氷漬けにする氷柱はまるで巨大な棺桶のようだ。
侯爵様は落ちてきた氷柱と奥様を交互に見比べていた。大きく目を見開いていることから、やはり驚いておられるだろう。我に返った侯爵様は、慌てて奥様に駆け寄り、優しく声をかけられている。セイバスさんもいつの間にかお二人の側に控え、周りに注意を払っている。
馬車の近くにいるレイゴストさんとドワーフのギルムさんは、驚いてはいたが実に落ち着いたものだった。ただギルムさんは独り言のように、「魔族の魔法、とんでもねぇな」とつぶやいていた。
馬車を覗くとお嬢様とヨヨさんは、この騒ぎにも目を覚ますことなく気持ちよさそうに寝たままだった。その顔はまさに天使である。
僕はレイゴストさんとギルムさんにお嬢様を任せ、侯爵様のもとへと向かう。見た感じ侯爵と奥様に怪我はないようだ。
「ほかのワイバーンはどうなったのかしら~?」
聞こえてきた奥様の声に僕は慌てて空を見上げた。
落ちてきたのは氷漬けになっている二匹だけだ。
この二匹を除けば、空に残っているのは四匹。
空を見上げると侯爵様が作り上げた霧はすでに消え、青空が広がっていた。そしてそこにいたはずのワイバーンの姿は一匹たりともいない。影も形も見当たらないのだ。空を探してみたが逃げた形跡すら見つからなかった。セイバスさんも近くにワイバーンの気配はないという。
視線を元に戻し、地面に刺さった氷柱を見る。すると氷柱の近くにある物が落ちていることに気がついた。それはワイバーンと思われる尻尾の部分。きっと氷柱と一緒に落ちてきたのだろう。
近づいて確認してみると、それは無残なものだった。
ワイバーンの尾は鋭い牙で噛みちぎられたかのように所々が抉られ、血だらけだった。中の骨が一部見えているほど傷は深い。それはまるでピラニアの沼に落ちた哀れな動物の末路のようだ。
噛みちぎられた尻尾や氷柱は侯爵様と奥様の魔法に間違いない。
侯爵様ともなるとこれほど強力な魔法を使いこなせるのだろうか。
初めてお二人の戦いを見た僕には判断がつかない。
だが、侯爵様と奥様の様子がおかしい。
侯爵様や奥様だけでなくセイバスさんも先ほどの魔法の威力について疑問を持っているようだ。侯爵様も奥様も何が起きたのかおわかりでない様子である。
「首だけを落とすつもりだったのだが……」
「ワイバーンの翼を凍らせるつもりでしたのに~」
侯爵様が使った魔法は、ミストファング家に代々伝わる魔法だそうだ。それは霧を発生させ、同時に鋭い牙を持った霧に住む魔物を召喚するという魔法。伸ばした手の先すら見えない深い霧の中、見えぬ敵に咬み殺されるという恐怖はただならぬものがあるだろう。この魔法はミストファング家の名前にも由来しているという。
奥様が使った魔法は、氷によって相手の動きを阻害するものだそうだ。
だが、『つもりだった』とおっしゃるお二人が出した結果は生易しいものではない。
侯爵様が言う『首だけを落とすつもり』は、ワイバーン四頭を消滅させ、所々咬み切られた跡がある無残な尻尾をひとつ残しただけ。
奥様の『翼を凍らせるつもり』は、動きを阻害するどころか、ワイバーンの全身を閉じ込める巨大な氷柱となって地面に突き刺さり、生命活動そのものを阻害してしまった。それも永遠にだ。
明らかにお二人の魔法の威力が上がっている。
それも本人が意図しないうちに。
そして僕はこの状況に覚えがあった。
「侯爵様、奥様。僕の予想にすぎませんが、恐らくこれも毒のない食材の影響かと」
僕はお嬢様の魔法や自分自身の魔力の向上を例に、今回の件をご説明する。お嬢様が初めての魔法でいきなり召喚魔法を成功させたり、執事魔法の強化をしようとした僕が、コップ一杯の水を出そうとしてずぶ濡れになったり、自分の魔法で腕を切断しそうになったりしているのだ。
それに今までの僕では使えなかったであろう『結界魔法』も使えるようになっていた。
これはお嬢様や僕の魔力が上がっていることを示している。
そして今回、侯爵様と奥様が使った魔法の威力。
これほど急激に魔力が上がるのは、毒のない食事を続けていたからとしか思えなかった。きっとこれはセイバスさんやほかの使用人たちも同じだろう。
「魔法の威力から考えても、確かに私の魔力は上がっているようだ。だが毒のない食材は毒がないだけで、魔力の占有量は花蜜以外、今までの食材とそれほど変わりなかったはずだ」
確かにおっしゃるとおりだ。
見つけた食材の中で、魔力の含有量が特に多かったのはヨヨさんから提供されている花蜜だけ。ウシドンの肉や先日食べた魚も、ワイバーンの干し肉や毒を持っている食材に比べれば、含まれている魔力は多いものの微々たるものだった。
「ふむ。そうなると食材に含まれる毒自体が魔力の吸収を阻害しているのかもしれませんな」と、セイバスさんがあごに手をやりながら答える。
「セイバスの言うこともわかるが、それだけで魔法の威力がここまで変わるものなのか」
「あくまで予想にすぎませんが……ロシュロス魔王様の手記の件、覚えていらっしゃいますでしょうか」
「ああ。いまだに王室管理局の連中が許可を出していないけどな」
そう言って苦笑する侯爵様。
ロシュロス魔王とは、今から千数百年前に人族の国に攻め込んだ魔王様だ。
「そのロシュロス魔王様が食べておられた食事の中に、先日、レイゴストとアルクくんが作った『魚』を使った料理があったことを思い出しました。思い出してみると魔王様はよく『魚』を食べていたように思います」
「えっ! 本当ですか」
思わず大きな声で聞き返す。
侯爵様と奥様も興味津々のようだ。
「はい。毒の有無や魚の種類まではわかりませんが、良く似た生き物だったはずです。魔王様自らとってきた『魚』を魔王専属の料理長が料理してました。料理長本人に聞いたことがあるので間違いないでしょう。当時、魔王様が何を食べていたのか私も料理長も全く興味ありませんでしたからね。おかげで今の今まで全く思い出せませんでした」
そう言ってセイバスさんが苦笑する。
魔族は食事や食材に興味がない。それはセイバスさんといえど例外ではない。覚えていなくてもそれは仕方なかった。
魔王様がとってきたという魚の形や種類、それに毒の有無など普通の魔族は気にしないのだ。
だが、魚をよく食べていたという言葉が気になる。
「ロシュロス様は魔王の中の魔王と呼ばれるほど、力、魔法ともに絶大なお力を持つ方でした」
「それは、魚……毒のない食材を食べていたからだと言うのか」
侯爵様の問いにセイバスさんは軽くうなずく。
「確信はありません。ですが魔王の中の魔王と呼ばれたロシュロス様の強さが、毒のない食事にあったと考えても不思議ではありません。事実、先ほどの旦那様方や初めての魔法で召喚魔法を成功させたお嬢様。それに使用人のアルクくんも魔力が上がっているのです」
確かに僕たちの魔力は上がっている。
それも毒のない食事に切り替えてからだ。
仮説が正しいとした場合、セイバスさんが言うように、ロシュロス魔王様が毒のない食事を普段から食べておられたのなら、魔王の中の魔王と言われた強さも納得がいく。
その魔王様の手記に書かれているだろう食材の場所。それは、毒のない食材の在り処、原産地や生産地の可能性が高いのではないだろうか。
許可が出ることが待ち遠しい。
それにしてもセイバスさんは手記の持ち主と知り合いだと言っていた。それはロシュロス魔王と知り合いだった、ということだ。
そのロシュロス魔王は毒で大泣きされたお嬢様と同じような反応をしたとセイバスさんは言った。さすがに泣きはしなかっただろうが、お嬢様と同じように毒の入った料理に対し、なんらかの拒否反応を示したのだろう。そしてそれを見ていたことになる。
「セイバスさんはロシュロス魔王様とお知り合いだったんですよね」
それを聞いたセイバスさんが侯爵様を見る。
もしかして聞いてはまずい内容なのだろうか。
侯爵様の目はお前の判断に任せると言っているようだ。
しばらくしてからセイバスさんは口を開いた。
「……アルクくんの言うとおり、私は魔王様に近しい位置にいました。侯爵家に仕える前は魔王様の部下だったのです。アルクくんが倒れたあの日、手記の話をしたあと、旦那様方には全て話してあります。このことを知っているのは、現侯爵様のひいお祖父様をはじめとするミストファング侯爵家御当主方とレイゴストのような古参の使用人だけです」
やっぱりそうだ。
当時のセイバスさんがどんな御役目だったのかはわからないが、セイバスさんは魔王様の部下だった。ただ侯爵様方の口ぶりからすると、セイバスさんがロシュロス魔王の部下だと知ったのは僕が倒れた日のようで、つい最近のようだ。
セイバスさんがロシュロス魔王様の部下であったということは、もしかすると魔王様の側近にいたというフォメット族とも面識があるかもしれない。いつかはそのフォメット族についても聞いてみたい。そのときは僕がフォメット族であることを明かすことになるだろう。
「セイバスが元魔王直属の配下だったと聞かされたときは驚いたな。しかもミストファング侯爵家当主が三百歳を超えてから明かされるセイバスの過去とか、いったいセイバスを雇ったひい爺さんは何を考えていたのやら」
侯爵様の曽祖父といえば、大神官様に『ミストファングのいたずら坊主』と言われていた方だ。今から三代前、先々々代の侯爵家当主だ。侯爵様が三百歳を超えるまではあと三十年以上あるはずだが、お嬢様のことがあったため、セイバスさんは少し早めに打ち明けたという。
まさかとは思うが、いたずらのために秘密にしていたってことはないよね?
「旦那様の曽祖父は、王家や魔王様との繋がりを持つ私を利用することなく、侯爵家を盛り上げろと一族に厳命されておりました」
「ああ、それは聞いたけどな」
侯爵様は苦いものを噛み砕いたような顔をする。
いたずらに引っかかった被害者のような顔にも見えるが気のせいだろう。
「もし知っていたとしても、お坊ちゃんって呼ばれていたセイバスを家のためとはいえ利用するなんてことできないわよね~」と奥様が笑う。
「……この歳にもなって、お坊ちゃんはやめてくれ、エリス」
「昔の料理長みたいに、ヘル坊って呼んだほうがいいかしら」
「そっちもやめてくれ」
「旦那様は私などいなくても立派に御役目を果たしておられます。それはもう『断罪の霧侯爵』と呼ばれるほどに」
侯爵様は照れたように顔をそらす。
そんな侯爵様を愛おしそうに見ながら、頬をつつく奥様。
仲睦まじいことで、なによりです。
僕は声を潜めながらセイバスさんに聞く。
「そういえば、その『断罪の霧侯爵』って二つ名の由来ってなんですか?」
あえてニーナさんやミノスさんの名前は出さないでおく。
セイバスさんは、「ふむ」とうなずいたあと名前の由来を語り始めた。
それはヘルムト侯爵様がまだ通商貿易局の局長になる前の話だった。
魔王国の貴族と他種族の間で密輸を行っていた連中がいた。当時、副局長だった侯爵様は証拠を掴むと単身アジトに乗りこみ、これを制圧。その場にいた魔族連中を一人残らず全員捕縛することに成功。またこの密輸に関わっていたとされる、当時の通商貿易局局員並びに商人たちも根こそぎ逮捕。更にその商人たちと違法な取引をして暴利を貪っていた貴族連中も魔王様への背信とみなし、捕まえたそうだ。その家の中にはミストファング侯爵家と親しい家があったそうだが、一切の妥協を許さず裁いたという。もちろんそれらの家は取り潰しとなっている。
これにより当時、局長だった侯爵様の父親は、魔王様が慰留するなか通商貿易局の局員が手を貸していたことの責任を取って辞任。
侯爵の座も今のヘルムト侯爵に譲り、引退。
事件解決後、この件に関わっていた連中を一網打尽にし、全てを処断したヘルムト侯爵様の働きに対し、魔王さまはヘルムト侯爵を局長に任命。また自らの責任を取った前局長である先代侯爵様の潔さと忠誠心に対し、褒美を出したという。
若くして局長へと昇進することになった侯爵様は、当時、二百歳にも満たない年齢だった。容姿だけでなく異例の早さでの出世した侯爵様は若い魔族、特に女性からの人気が高かったという。
そんな侯爵様は現在二百六十五歳。六十年以上に渡って局長を務めている。
その後、貿易で不当な利益を得ようとする商人らを駆逐したり、魔王国に損害を与えたりした者に厳しい処罰を科したことから、『断罪の霧侯爵』と呼ばれるようになった。密輸事件の際、ミストファング侯爵家と親しい家ですら断罪したことが大きかったようだ
そんな侯爵様だが一般の国民、特に商人からの信用と人気も高い。
事情によって情状酌量したり、法を変更したりするなどの柔軟性を見せているためだ。清濁併せ呑み、鞭だけはなく飴も与えることを忘れないのは、さすが貴族といったところだろう。また、公正公平で安定した商売ができるよう尽力されていることも評価に繋がっているという。
中には勘違いした悪徳商人がご丁寧に賄賂を持参したこともあった。そういった日は空いてる牢屋が満員御礼となったらしい。侯爵様によれば、賄賂を持ってくるような連中は口が軽いので、同じように贈収賄に加担した連中を平気で売るのだそうだ。悪徳商人最後の商売といったところだろう。
責任をとって引退された先代侯爵様の話も聞いた。
僕はまだお会いしたことはないのだが、先代侯爵様とその奥様は孫であるお嬢様の成長を楽しみに侯爵領の田舎で悠々自適な生活をしているらしい。比較的、若くして爵位を息子であるヘルムト侯爵に譲ったため、今も元気にしておられるそうだ。
ニーナさんら『妖精の祝祭』の仲間には賄賂を渡したり、受け取ったりしないよう伝えることを心に刻む。渡すのももらうのも罪になるからだ。以前、ヨヨさんが花蜜を使用人に配っていたのは、賄賂ではなく食品サンプルなのでギリギリセーフだと思う。セーフですよね?
「さて、私のことはともかく、まずは魔王様の手記が少しでも早く閲覧許可が出ることを祈りましょう。そろそろウスイの街に向かいましょうか。お坊……旦那様、奥様、仲良くされる続きはお屋敷に着いてからごゆっくりどうぞ」
普段と同じように真面目な口調のセイバスさんだが、その口角はいつもより少し上がっている。
……セイバスさん、今、お坊ちゃんって言いかけたな。
あれは絶対にわざとだ。
「セ~イ~バ~ス~?」
侯爵様がバッと振り返る。
だがセイバスさんは、しれっとした顔でその場からスタスタと離れていった。いつもより若干、早足である。それを追いかける侯爵様。セイバスさんは早足なのに、走っている侯爵様は追いつけていない。初めて見る二人の主従を超えたやり取りに唖然としつつ、僕は楽しそうに笑う奥様と一緒に馬車へと戻るのだった。
意図せず冷凍保存となったワイバーンは、後日、品質確認のため通商貿易局に引き渡された。
その後、龍族との取引にワイバーンの冷凍生肉が追加された。偶然とはいえ奥様の氷魔法によって食材の輸送に冷凍、冷蔵の概念が生まれたのだ。この輸送技術は、リバシールから魚を運搬するときなどにも大活躍することだろう。
『執事ボックス』を使える僕には関係のない話だけど。
ミストファング侯爵領は、ヘルムト=ミストファング侯爵が治める地だ。
王都の北西にあり、魔王国でも最西端に位置している。北はドラゴンフォール山脈、西にはモフォグ大森林、南はリバシールの街があるダーゴン湾が広がっている。
モフォグ大森林は侯爵領よりも広く、何人たりとも寄せ付けない魔王国と人族の国との緩衝地帯となっている。年中、霧が発生しているため視界も悪く、森には凶悪な魔物も多い。
ウスイの街の中心にはレインウォーター川が流れており、街を西地区と東地区に分断している。
街全体を囲う第一城壁は西側と北側が特に厚く、高い。これは、この街が山脈と森を超えた先にある人族の国からの防衛を目的に建造されたためだ。ただ、この街がほかの種族に攻めこまれたことは一度もない。当時、敵国であった人族らがドラゴンフォール山脈やモフォグ大森林を越えることができなかったからだ。
魔族が考えるより人族が弱かった結果だが、魔族が張り切りすぎたとも言えるだろう。
上から街を見れば、防壁が横長の楕円を描き、その中心を川が流れている『Φ』のような形状だとわかる。西地区の北と西、東地区の東と南に街道へと続く城門がある。
街を流れるレインウォーター川は、水が流れている部分だけでも三十メートルほどの幅があり、川幅で見れば六十メートルにもなるだろう。澄んだ水が流れているが、川の水深は深く、リバシールの街との交通路にも使われている。街の南側、下流付近には今も何隻もの船が係留されており、中型の貨物船の姿も見える。
川に架かる橋は四本。街の南北にある防壁橋のほか、中心部に二本の橋が架かっている。
ワイバーンとの戦闘を終えた侯爵様御一行は、『執事ゲート』をくぐり抜け、ウスイの街にある侯爵様のお屋敷に到着した。
正確に言えば、お屋敷内の庭だ。
侯爵様の屋敷は東地区の川沿いにあるのだが、その外観は屋敷というよりも城や砦に近い。街中よりやや高い場所に建てられたこのお屋敷は、西側の街が侵略者(建築当時は、人族を想定)によって占拠された場合、第二の城壁となり、守りの要所となる。
またお屋敷の庭は広く、敷地全体を城壁が囲っている。これは籠城戦になった場合、住人を避難させるためでもあった。街を囲う第一城壁と砦のようなお屋敷を囲う第二城壁。これこそが城壁の街と言われる所以でもある。
『執事ゲート』をくぐった馬車が到着したのも、そんな第二城壁の内側、庭の一部に用意された『ゲート』発着専用の停留所だ。
王都と違い、侯爵家に仕える者に限り、ゲートなどの移動魔法を使う場合は直接、停留所に移動してもよいと許可が出されていた。もちろんお屋敷内に直接飛ぶことは結界が張られているため不可能だ。また王都と同じく不審者の侵入を探知する結界も用意されている。
「さすがに侯爵様のお屋敷ともなるとすごいわね」
場所の窓から顔を出したヨヨさんもお屋敷の大きさに感嘆の声を上げた。
停留所についた馬車は、お屋敷の玄関まで続いている木々に挟まれた道をゆっくりと進む。それはまるで緑の葉のトンネルを通っているようだ。
屋敷の庭は広く、美しい花や緑の葉あふれる木々が自然に近い形で植えられていた。季節によって植え替えられる花を奥様やお嬢様はとても楽しみにしておられる。
この庭を管理するのは一人の庭師。
庭の片隅に建てられた小屋に住んでいる。
残念ながら今の時間、その姿はない。
お屋敷の玄関前には侯爵様が到着したことを受け、使用人たちが整列していた。侯爵様がお留守の間、ウスイの屋敷を守る使用人たちだ。玄関前に馬車が着くと御者役のセイバスさんよりも早く、二メートルを超える大柄な男が馬車の扉を開ける。
「着いたのー!」
開いた扉から元気よく飛び出したのは、お嬢様だ。
ワイバーン襲撃のときは、ぐっすりお休みだったお嬢様だが、今はすっかり目を覚まされていた。
両手を斜めに上げ、万歳をするように綺麗な『Y』の字で着地のポーズを決めている。なぜかお嬢様の頭の上に立つヨヨさんも同じポーズだ。そのまま三百メートル走れそうな勢いだった。
そのあとを我が娘を微笑ましく見つめる侯爵様と奥様が続く。
侯爵様は奥様の手を取ることを忘れない。
「「「おかえりなさいませ、侯爵様、奥様、お嬢様」」」
使用人たちから一斉に声がかけられた。
どの使用人たちも笑顔だ。特に着地のポーズを取ったままのお嬢様を見る使用人の目はとても優しい。数人、優しさ以上の視線を送る者もいるが、イーラさんやラミさんで慣れているので誰も気にしない。ただ若い使用人ほどお嬢様の頭の上で同じポーズをとるヨヨさんが気になっているようで、その視線がお嬢様の笑顔とヨヨさんの笑顔を行き来している。
「お嬢様! 元気でございましたかな」
「元気なのー! たいちょー」
馬車の扉を開けた男がお嬢様に声をかけると、お嬢様は元気良く返事をする。「たいちょー」と呼ばれた男は、右手を額に持っていき、真面目な顔で敬礼のポーズをとった。お嬢様もそれを真似して敬礼をする。男の敬礼は勇ましく、お嬢様の敬礼は実に可愛らしい。……ヨヨさんは真似しなくてもいいです。
「サイロスさん。お嬢様に変なポーズをさせないでください」
御者席から下りた僕は思わずため息をついた。
まあ、敬礼するお嬢様が可愛いからあまり強く言わないけど。
お嬢様に、「たいちょー」と呼ばれ、僕がサイロスと呼んだこの男性魔族は、侯爵様に仕える騎士の中でも、騎士隊長の任に就いている方だ。
年齢は人族換算で四十代後半。身長は二メートルを超え、服の上からでもその鍛えあげられた筋肉がはっきりと見て取れる。日に焼けた腕の太さは、お嬢様の胴回りと同じくらいだろうか。言っておくが、お嬢様が太いわけではない。短めの茶髪を後ろに流し、ヒゲを生やしている。屈強な騎士にふさわしい顔をしているが、なにより目立つのはその左目にある眼帯だろう。
彼は巨人族の中でも最も勇猛だと言われるサイクロプス族出身。サイクロプスとは単眼の巨人族だ。ラミさんのように人族と同じような姿に変身できるのだが、もともと単眼ゆえに眼帯が欠かせない。それゆえ眼帯をしているのは、ほとんどがサイクロプス族と言われている。自分の種族を隠せない種族とも言えるだろう。
ちなみにサイクロプス族が変身したときに眼帯をするのは、決まって左目だ。ということは彼らの単眼は右目ということになる。
サイロスさんは普段、魔道具によって身長を純魔族並に縮めているのだが、本来の身長は四メートル以上ある。隊長という役職上、会議などにも出席する必要があるため、身長を調整できる魔道具が与えられていた。ただ、大きさの変化に慣れないためか、よく屋敷のあちこちに頭をぶつけたり、つまずいたりしている。目が一つしかないため、距離感がつかめてないだけかもしれない。
僕が幼いころ、何度も踏まれそうになったことを今でもはっきりと覚えている。
「サイロスさんだと!? お! アルクか! んん? アルク……か?」
「アルクんは、アルクんなのー!」
王都で死にかけてから僕の雰囲気が変化したことにサイロスさんも戸惑っているようだ。セイバスさん曰く、「魂の色が変わり、別人が混ざり合ったような感じ」だそうだ。
お嬢様が可愛くフォローしてくれたが、サイロスさんは食い入るように僕を見る。そういえば記憶を取り戻す前は、サイロスさんのことを名前ではなく隊長って呼んでたな。
「サイロス隊長。侯爵様からの手紙にもあったでしょ」
そうハスキーな声で話しかけてきたのは、同じく侯爵様に仕える騎士の一人で、副隊長でもあるプレスコットさん。通称、プレスさんだ。
人族換算で二十代半ばくらい。侯爵領で数少ない女性騎士でもある。スレンダーで、背も高く、百七十センチほどのスレンダーだ。同じことを二度言ったのは察して欲しい。
白い肌と肩まで伸びた少し癖のある金髪が美しく、騎士であっても女性らしさを忘れない、そんな雰囲気を持っている。正義感あふれる紫色の瞳もまた美しい。その白い素肌を隠すように、首には黒い布を巻いていた。いつも鎧下(鎧の下に着る服)で行動するサイロスさんと違い、仕事中は常に黒の胸当てを着け、腰からは刀身の赤い片手剣をぶら下げている。
城壁の街にふさわしい壁ですね、などと口が裂けても言うんじゃないとほかの騎士が噂していた。
「アルクくん、聞いているよ。何があってもキミは侯爵家に仕える同志だ。前世のことなど何も気にすることはない」
そんな彼女に頭を撫でられる。プレスさんからすれば僕も子供なのだろうが、そろそろ恥ずかしい。ほかの使用人たちから向けられる生暖かい目が妙にくすぐったい。手紙のことは知らなかったが、どうやらウスイで留守を預かる使用人たちにも心配をかけたようだ。
「それはそうと……ティリアお嬢様! お身体は大丈夫でしたか? 味とやらのことはわかりませんが、お嬢様を泣かせるような存在など私の剣にかけて滅ぼしてみせます。斬りますか? 今すぐ斬ってきますか?」
「大丈夫なのー。アルクんがいるのー」
突然、イーラ化したプレスコットさんだが、これもいつものことだった。毒をどう斬るつもりなのかは不明だが、並んでいた使用人連中に交ざり、お嬢様に優しさ以上の視線を送るうちの一人でもあった。
「アルクくん、キミという者がついていながらお嬢様を泣かせるとはどういうことですか。毒のひとつやふたつくらいで音を上げてどうするの」
さっきまでの心配してくれていた雰囲気はすっかり消えている。肩を掴まれながら、がくがくと頭を揺すられる。『なでなで』から『がくがく』である。
昔から、プレスさんはお嬢様のことになると性格が変わるのだ。イーラさんやラミさんをはじめ、ほかにも数名、こういう使用人たちがいる。お嬢様への忠誠心もわかるが、今は冷静になってもらいたい。毒に音を上げた僕だが、頭を振ったところで音は出ない。
アルクんやイーラみたいな使用人が多いのね、とヨヨさんが呆れているが僕を一緒にしないで欲しいものだ。
「皆さん、旦那様方はお疲れです。メイドはお茶の用意を。ほかの者は自分の仕事に戻りなさい。それとヨヨ殿とドワーフのギルム殿を紹介しておきます。お二人とも大切なお客様ですので失礼のないように」
セイバスの一言に助けられたようだ。
僕から手を離したプレスさんをはじめ、ほかの使用人たちが姿勢を正す。特にサイロスさんとプレスさんの緊張がハンパではない。たまにセイバスさんが兵舎や騎士宿舎に足を運んでいるのを見たことがあるが、いつも何をしているのだろう。
紹介されたヨヨさんたちは、使用人たちと挨拶を交わしている。
初めて見る妖精とドワーフに使用人たちも興味津々の様子だったが、ヨヨさんのことは事前に知らされていたのだろう。
どこぞの巫女専属メイドのように妖精の姿を見て気絶するような騒ぎもなく、挨拶は無事に終わる。熱烈な視線をヨヨさんに送っていた数名の使用人に対し、イーラさんが、「いいものありまっせ」的な勧誘をしていたのが気になるが、あえて見なかったことにする。今日からイーラさんの布教活動が始まるのは確実だ。強引な勧誘で友人を減らさないよう頑張って欲しい。
ドワーフのギルムさんは侯爵様とサイロス隊長と熱心に話していたが、どうやら武器や防具の話ではないようだ。ギルムさんが取り出した瓶の中身について盛り上がっており、間違いなく酒の話のようだ。
ヨヨさんとギルムさんの部屋を屋敷に用意する予定だったが、ヨヨさんは妖精界と行き来できるため必要ないと丁重に断り、ギルムさんも酒を造るのに適した場所探しや街の雰囲気を知りたいということで、酒造所が完成するまで街の宿屋に泊まることになった。宿代についてはあとで請求してもらうよう伝えておく。
日々の食事は、リバシールの街でも苦労していたそうで、魔族の料理についてはわかっているという。いくつか毒のない食材を渡してくれれば大丈夫だそうだ。宿屋には侯爵家から紹介状が出されたので、調理場くらいは貸してもらえるだろう。
ただ酒造所建築については、優先順位が低い。お嬢様の食事とはほぼ関係ないし、リフォームをするだけの『妖精の祝祭』の問屋兼店舗と違い、一からの建造になる。しばらくはギルムさんに我慢してもらうことになるだろう。
宿屋まで案内されるギルムさんを見送り、僕はイーラさんと共にお嬢様のお部屋に荷物を運ぶ。お嬢様の服や小物類の整理をイーラさんに任せたあと、庭に出る。そして王都から持ってきたアフロ……じゃなかったコキアを引っ張りだした。
「これ、どうしようかなぁ」
このコキアはマンドラゴラのドラゴが『鉢間移動?』の能力を使ったせいで、一本だけ大きく成長してしまったものだ。将来的には食材であるトンブリの収穫を期待しているのだが、勝手に庭に植えると庭師さんに怒られそうだ。念のため相談してから植えることにして、一先ず庭の片隅に置いておく。
次にお嬢様が育てていた鉢植えも馬車から出し、庭の隅に並べる。
これもあとからお嬢様が並び替えることだろう。並べる順番にお嬢様のこだわりがあるからだ。お嬢様の楽しみを僕がとってはならない。
ドリアードのリリアルさんによって花が咲いたまま枯れる様子のない月見草の鉢だけはお嬢様のお部屋の窓際に置くことにしよう。
「よし。これで終わりかな」
イーラさんに残りの作業を確認したあと、自分の部屋に入り、荷物を下ろす。ウスイにあるこのお屋敷にも使用人専用の部屋が用意されており、自分の私物を置くことができる。ただ、私物自体ほとんどないため、僕の引っ越し作業はすぐに終わってしまった。
お嬢様はひさしぶりに会う使用人たちとお話しておられるし、ヨヨさんもお嬢様と一緒に行動している。サイロスさんとプレスさんもすでに自分の仕事に戻っていて屋敷にはいない。
そこで僕は今後、この侯爵領で行うべきことを整理することにした。
「こんなもんかなぁ」
・侯爵領で毒のない食材を探す。まずはこの街から
・シュリーカー族の先遣隊を迎えに行く
(家は自分たちで用意するそうだ。あとはシイタケ探索隊が来る)
・ミノスさん、ソーサさんの家や牧場などを用意
・隊商『妖精の祝祭』で使う問屋兼店舗の準備
・ギルムさんの酒造所を用意
「ほかには、イーラさんの実家を訪問して羊を確保、ラミさんのご実家ではウコッケと卵の取引を隊商として依頼、と。あとはフラム子爵から教えてもらった竹林の調査か。そうそう、せっかくだから竹で竿も作りたい。セイバスさんに紹介してもらったブタモンを飼ってる方に会いに行く必要もあるな。あと、リアルルさんからハーブ園に招待もされていた。……うーん」
最も優先すべきは毒のない食材を探すことだ。
それなりに集まってきたとはいえ、欲しい食材はまだまだある。もちろん以前まとめた『欲しい食材一覧』の中には、すでに手に入れたものもある。
欲しかった食材一覧の中では、果物とキノコは巫女のヒミカさんとシュリーカー族のおかげで手に入れることができた。牛肉やバターなどはミノタウロス族のミノスさんから、かぼちゃは河童族のソーサさんから、豆類はエルフのニーナさんから、卵はラミア族のラミさんから、羊肉はイーラさんから手に入る。魚類はリバシール周辺の海で、イモ類はドワーフのギルムさんから手に入れることができている。
しかし、まだ十分だとは言えない。
「圧倒的に足りないのは野菜類と調味料だなぁ」
もともと存在していない可能性はあるが、トマトやタマネギ、キャベツなどは見つかっていない。
ようは万能野菜として利用価値の高い食材が少ないのだ。その反面、トンブリとか雪菜とか少々馴染みの薄い食材は意外と見つかっている。
調味料は、エルフのニーナさんから一部手に入れたものもあるが、いずれもお嬢様の離乳食には使いにくい……というか使えない。そもそもトウガラシとかワサビとかニンニクなどの刺激物しかないためだ。いずれも離乳食には向かない食材だ。
前世でも馴染みの深い味噌は、この世界に存在していないと白の賢者様から聞いている。ならば自分で作るしかない。その知識はもらっているし、材料は揃っている。できれば味噌だけでなく醤油も挑戦したいところだ。
しかし、問題がある。
それは出来上がるまで時間がかかりすぎることだ。
『時魔法』が使えるようになれば時間的な問題は解決できるはずだが、今のままでは難しい。というのもベルゼブブからもらった『時魔法』の呪文書を参考に試しているが、いまだに一度も成功したことがない。自分の能力不足もあるだろうが、かなり高度な魔法のようだ。
あれから料理をご馳走することを条件にベルゼブブに助言を求めているが、こればかりは努力次第だという。先日も彼からもらった青い水晶の魔道具で通信していたが同じことを言われた。
『アルクくん。何度も言うけど努力を続けることだよ』
『そうは言いますが、執事である僕じゃ努力だけで魔法使いみたいに魔法を使いこなすのは難しいかもしれませんよ?』
『はああぁ? ……君は何を言っているんだい? 自分で魔法を作り出せるくせに』
盛大なベルゼブブのため息はともかく、どうやら執事であっても使えないということではないらしい。やはり練習を続けるのが一番のようだ。
あと調味料として欠かせないのが香辛料やハーブだ。
どんな種類があるかわからないが、ドリアードのリリアルさんが育てているようなので、今度お招きいただいたときにでも取引できないか話をする予定。
レイゴスト料理長のおかげで『出汁』については問題なく用意できるが、フォンやコンソメに似た洋風出汁ばかりだ。和風の出汁もあったほうが料理の幅が広がるため、カツオブシや海藻類を早めに用意したい。海藻は見つけてないが、カツオはリバシールで釣っているのでカツオブシを作ることはできる。こちらも味噌や醤油と同じく、作る手順は白の賢者様からもらった知識の中にある。
コンブなどの海藻は今度、リバシールに寄ったときに探してみよう。
「やらなきゃいけないことが多いなぁ」
考えれば考えるほど体が複数欲しくなる。
「アルクくん、侯爵様がお呼びよー」
そう言って部屋の外から声をかけてくれたのはイーラさんだ。
彼女に返事を返してから、侯爵様のいる執務室へと向かう。
「アルクでございます。お呼びでしょうか」
「うむ。入ってくれ」
侯爵様の執務室に入ると、そこには侯爵様以外に待っている者がいた。
「アルクくん、ひさしぶりッス!」
そう声をかけてきたのは、通称ゴブさん。
彼はゴブリン族の男性魔族で気さくな性格で僕やお嬢様とも仲がいい。僕が小さい頃、遊んでもらった覚えがある。年齢はたぶん僕より上だろうが、純魔族と違って見ただけではわからない。
そんな彼の見た目で一番の特徴は、その大きな鼻だろう。突き出すような鼻は、肌の色と同様、緑がかった黒だ。大きく開かれた茶色の瞳や口元に見える太い牙だけを見ると迫力があるが、愛嬌のある笑顔がそれを打ち消している。背は僕と同じくらいなのだが少々猫背気味だ。
ゴブさんの本名は、ゴブリアーノ=ゴブゴブ。とても立派な名前を持っている。「~ッス」が口癖だ。もちろんゴブさんも侯爵家に仕えており、彼の役職は一部隊を率いる兵士隊長である。
「元気そうだね、ゴブさん」
「アルクくん、聞いたッスよ。前世の記憶のこと。前世がイモムシだったら食べた葉っぱの数も覚えてるッスかね」
彼にとっては、僕が前世の記憶を持っていても大したことではないらしい。今も変な質問をして場をなごませている。
僕の前世が人族であったことなど気にもしていないようだ。
「イモムシも食べた葉っぱの数は覚えてないと思うよ」
「そうッスかねぇ。何枚食べたら蝶になるのとか、イモムシの糸で何か作れないか聞きたかったッス」
ゴブリン族は、手先も器用で働き者だ。
種族としてはグレイたちコボルト族同様、基本的には下位魔族に分類される。下位魔族と言えば魔族でも弱い部類だ。
そんな下位魔族に分類されるゴブリン族だが、中には魔法を使いこなすゴブリンが生まれることがある。それがゴブリン・シャーマンと呼ばれる者だ。魔法が使えるゴブリンがなぜ突然現れるのかはわかっていないが、ゴブリン・シャーマンは中位魔族として扱われるようになる。
また普通のゴブリンよりも知能が高く、圧倒的に力が強い、同族のゴブリンを統率、指揮するリーダー的存在がいる。
それがゴブリン・キングだ。
もともとゴブリン自体、持ってる魔力が少ないため、ゴブリン・キングも中位魔族として扱われるが、上位魔族に匹敵する力と統率力を持つという。ほかにも、ゴブリン・ジェネラルやゴブリン・ナイトといった派生ゴブリンが確認されている。
さて、目の前にいるゴブさんだが、そんな彼も頭が良い。
普通のゴブリンは食べた葉っぱの枚数から成虫に至るまでの成長過程を気にすることはない。一部隊をまとめる隊長でもあるし、統率力と判断力に優れている男だ。
「……言っておくけど、僕の前世はイモムシじゃなくて人族だからね」
「そういえばそうだったッスね」
どうやら彼は……僕の前世が人族だったことを覚えてなかっただけのようだ。
ま、まあ、気にしていないのは間違いないだろう。
先ほどゴブさんのことを頭が良いと褒めたが、一旦、保留とさせていただきたい。
「さて、アルク。呼んだのはほかでもない。毒のない食材を育てるための畑や加工工場、それに移住してくる者たちのことだ。この件に関して、ゴブリアーノ。アルクに報告を」
「では報告するッス。侯爵様に命じられたミノタウロス族の村と牧場、河童族の村は明日にも完成するッス。妖精のヨヨ殿が率いる『妖精の祝祭』の問屋兼店舗ですが、こちらは内装を除いて今日中に終わる予定ッス。内装はアルクくんたちと相談してからッスね。また先ほど聞いたギルム殿が立ち上げる予定の酒造所の建物と、今後、増えるだろうドワーフ族たちの宿舎に関しては、明日、着工の予定ッス。こっちは三日で完成させる予定ッス。お酒ができたら差し入れよろしくッス。食材を育てるための畑と食材の加工工場は、アルクくんの指示に従えと侯爵様から聞いてるッス。これからその予定地に行くッス。以上ッス」
(ん? 今、なんて言った?)
「ということだ。移住を受け入れる準備は整っている。あとはアルクに任せる。また、問屋兼店舗の細かい改装や畑と加工工場については、ヨヨ殿やニーナ殿と相談の上、アルクがしっかり指揮するように。予定地はゴブリアーノに教えてある。詳しいことはゴブリアーノに聞くように。以上だ」
「は、はい、承知しました」
「じゃあ、さっそく予定地を見に行くっすよ!」
「え? 今から?」
返事をしたものの、ゴブさんの言った内容はにわかに信じがたいものだった。もしかしたら僕の聞き間違いだろうか。なにげにお酒を要求されたのは間違ってはいないようだが。
ゴブさんの報告では、ミノスさんやソーサさんの住む村が用意できたと聞こえた。しかも『妖精の祝祭』の問屋までほとんど終わっているという。それに加え、酒造所と宿舎の建築を三日で終わらせるつもりらしい。
でも、さすがに早すぎではないだろうか。
だがゴブさんは、嘘を言う魔族ではない。
領地に戻ってばかりだというのに、侯爵様はお忙しいようだ。ほかの仕事にとり
かかるという侯爵様に挨拶をして、執務室を出る。
執務室を出ると、ゴブさんは頭の上に疑問符を生やす僕の手を取り、そのまま屋敷の外へと連れ出した。
「え? ちょっと、ゴブさん?」
「さぁ、行くッス!」
「ちょっと、待って!」
「待たないッス!」
ゴブさんに強引に連れだされた僕は、このあとゴブリン族の本気を見ることになる。




