第九十話 港街リバシール
魔族の国、オノゴルト魔王国。
魔王様が治めるこの地は、濃密な魔力あふれる自然豊かな土地だった。北は竜すら超えられないと言われるドラゴンフォール山脈、西は凶悪な魔物が住むモフォグ大森林。南と東のほとんどは断崖絶壁となっており、その先は海竜などの大型海洋生物が住む海が広がっていた。
魔王国は大自然の城壁に囲まれた土地と言っていいだろう。
そんな大自然に囲まれた魔王国に住む魔族たち。
魔族とは多種族に比べ、圧倒的な力を持つ種族だ。人族と同じような容姿を持つ高位魔族ともなると、ほとんどの毒を無効化し、上級悪魔すら使役するほどの力を持つ。その卓越した力と魔法により、街は大きく発展し、それぞれを結ぶ街道や上下水道などの基盤も整っていた。
多種族の追随を許さない力と技術を持つ魔族だが、そんな彼らには驚くべき欠点があった。いや、欠点というのは正しくない。彼らはそれを欠点だと思っていないからだ。むしろ特異性と言うべきだろうか。
それは何か。
実は、魔族は遺伝子レベルで味がわからない味覚が退化した種族だったのである。
簡単に言えば『味オンチ』だ。味覚障害とも言う。
魔族の源は魔力だ。
魔王国にあふれる魔力を糧として吸収する魔族だが、それだけでは足りず生きていけない。そこで魔族たちは足りない魔力の補助として食事をとる。
例え、味がわからなくても。
味がわからない魔族にとって、食事とは魔力補給という作業にすぎなかった。そのせいで料理への関心は薄く、見た目ばかり追求することになった。
侯爵家の一人娘ティリアお嬢様は離乳食期中の二歳半だった。
三歳まで離乳食期が続く魔族にとってこの時期は大切な時期だ。
離乳食期中、魔族の子は食事から魔力を効率よく吸収できるよう学ぶ。効率よく吸収できないまま大人になると『悪食』になってしまう。悪食になった魔族は足りない魔力を補うため、どんなものでも貪るようになり、最悪、同族食いという凶行に走るのだ。
そんなある日、侯爵家に悲劇が起こる。
美しい料理が並ぶ侯爵家の朝食。
そんな中、離乳食を食べていたお嬢様が母の飲むスープをじっと見ていた。その視線に気がついた奥様は、ほんの一口、お嬢様に自分のスープを飲ませたのだ。
その結果、お嬢様がこれまでにないほど号泣された。
大号泣である。
お嬢様がこんなにも泣かれたのは初めてのこと。
侯爵御夫妻も使用人も大慌てだった。
原因を探るため、僕もお嬢様と同じスープを一口飲む。
その途端、僕は意識を失い倒れてしまったのだ。
目が覚めるとそこは暗闇の中だった。
そこで出会ったのが邪神こと白の賢者様。
白の賢者様曰く、どうやら僕は死にかけたらしい。
そこで侯爵家に生まれたお嬢様は魔族の中でも珍しく鋭敏な味覚を持っていることを知る。
同時に、お嬢様が飲まれたスープに猛毒を持つ食材が含まれていることがわかった。毒は想像を絶する味と強烈な痛みとなってお嬢様を襲ったのだ。
まさか、暗殺!? と思いきやそうではなかった。
実は、魔族の料理に使われるほとんどの食材に毒が含まれていたのだ。
お嬢様の離乳食期が終わるまで、あと半年。
だが毒のある食材は鋭敏な味覚を持つお嬢様は食べられない。
それは離乳食期だけの問題ではないのだ。
なんとしてでも毒のない食材を探さなければならない。
悪食にならぬよう離乳食期を無事に過ごしてもらうだけでなく、これからもお嬢様が美味しい食事ができるように。
白の賢者様から転生者であることを知らされた僕は、前世の知識と技能を託された。そして一つのお願いを託されたのだ。
「魔族の国に『料理文化』を広めて欲しい」と。
しかも美味しいことが前提らしい。
生き返った僕は、お嬢様以外にも味がわかる魔族の存在を知った。
それがお嬢様専属執事のアルクこと僕であり、白の賢者様の巫女ヒミカさんだ。ほかにも味覚を取り戻しつつあるお嬢様専属侍女のイーラさんや魔族認定された見た目がキノコそっくりなシュリーカー族がいる。
食材探しのお手伝いに来てくれた『超絶美少女大妖精』ヨヨさんをはじめ、王都で知り合った仲間と共に毒のない食材を探す旅が――
「――毒のない食材を探す旅が、今! ここに始まるのだった! (第一部完)っと」
ザッパーーーン。
「きゃっ! 冷たっ!」
「……さっきから何してるんですか、ヨヨさん」
「ん? ちょっとね」
手に持っていたペンとメモ葉紙をしまいながら、顔についた波しぶきをハンカチで吹くヨヨさんは照れたように笑っている。羽についた水滴は細かく羽を動かすことで払っていた。
何か書いていたようだが、その内容はわからない。
風が強いわけではないが、港の船着き場には風にあおられた波が何度も何度も打ち寄せている。時折、風と波のリズムの気まぐれによって生まれた波しぶきが青い空へと跳ねていた。
「ヨヨさん。こんな波の近くにいるとさらわれますよ」
「うん。気をつけるわ。久々の海なんで潮風が気持ちいい」
「海、見たことあるんですね」
「商売で回ってるときにね。アルクんは?」
「この世界の海を見るのは初めてです」
前世で何度も見た海だが、こちらの海は前世で住んでいた海よりも全体的に透き通るように碧く、そして美しかった。
「アルクんは王都と侯爵領のお屋敷からほとんど出たことなかったんだっけ?」
「ええ。おかげで今は見るもの全てが珍しいものばかりですよ」
ダッパーーーン。
波が少し高くなってきたようだ。
「さてそろそろ行きましょうか」
「食材あるといいわね」
そう言いながらヨヨさんは僕の頭の上に寝転がる。
今日の僕は執事服ではなく普段着だ。いつもより少し身軽な格好の僕は、新しい食材を求めて歩き始めた。
ここは侯爵領にある『リバシール』という人口二千人ほどの港街。
侯爵領の最南端にあり魔王国でも数少ない海の玄関だ。街は住民が住む住宅地区とお店が立ち並ぶ商業地区、それに港地区に分かれている。港地区は他国や魔王国の南領にあるほかの港から行き来する物資で賑わっており、侯爵領における物流の要といえるだろう。
また、四方を大自然の城壁に囲まれる魔王国にとって、他国や他種族との交流の場である……はずだった。残念なことに、今この場には他種族の姿はほとんどない。辛うじて昔から交流のあるエルフが数人と魔族の商人が仕入れた他国の荷物ばかりだった。
街は『ダーゴン湾』沿い、東側に位置している。ダーゴン湾はV字を上下ひっくり返したように南側に広がっていた。はるか遠くに見える対岸、ダーゴン湾の西側には魔王国や侯爵領の西の城壁と呼ばれる『モフォグ大森林』が霞んで見えた。
湾の北端から豊富な水を海に注ぎ込むのは『レインウォーター川』だ。ドラゴンフォール山脈を源流とするこの川は、数々の支流をまとめる侯爵領随一の長さと大きさを誇る川でもある。またリバシールの北、侯爵様が住まう『城壁の街ウスイ』を東西に分断するよう流れていることでも有名だった。
河口付近はちょっとしたマングローブが広がっており、緑色の林が河口のアクセントになっている。
王都から馬車で移動した場合、通常一週間はかかる距離だ。しかし、セイバス執事長による『執事ゲート』のおかげで王都からリバシールの街まではものの数分しか経っていない。
このリバシールを治めているのは、代官として侯爵様に派遣されたセルム=マーレ子爵。侯爵様のお父上の頃から仕えている忠臣の一人だ。若返る前のアルティコ伯爵より年上で、見た目は人族換算八十代の御仁だが、その眼光は鋭い。
細かいことにこだわらない豪胆な性格だが、このリバシールの街をうまく治めていた。いかにも海の男といった風貌をしており、髪は焼けたような明るい茶色、深いシワを刻んだ肌は侯爵以上に濃い褐色の肌をしている。
最近では後継者となる一人息子のライオット氏に執務の多くを任せているそうだが、そのライオット氏は急な仕事があって外に出ているそうだ。人族換算四十代で容姿も性格もそっくりだと、父である代官が自慢気に話していた。
そんなセルム子爵は、全てを息子に引き継いだあと単身で船に乗り込みリヴァイアサンを捕まえると豪語している。当然、息子からは年寄りが無茶するなと止められているそうだが聞く耳を持たないようだ。
まさに年寄りの冷や水である。むしろリヴァイアサン相手では、冷たい水のほうが安全なのは間違いない。
侯爵様御一家とひさしぶりに会うのか、「おお。お嬢も大きくなりましたな」と笑いながら、杖を片手にお嬢様の頭を優しく撫でている。お嬢様はくすぐったそうに照れておられた。
照れるお嬢様は特に可愛い。
もはや可愛いという言葉だけでは物足りないほどだ。
お嬢様の可愛さについて、『可愛い』の上位言語もしくは可愛さの単位を定めることは魔王様の義務だと思う。これは必然であり、当然だ。もちろんお嬢様の可愛さは測れるものではないが、多くの者に理解してもらうには目安が必要だろう。単位はお嬢様のお名前『ティリア』以外ない。素晴らしい。単位からも可愛さがあふれている。
クネクネしているイーラさんとうなずき合い、お嬢様の可愛らしさを確認し合った。
代官の屋敷に滞在中、毒のある食材が食べられないお嬢様の食事をどうするのか心配だったが、これは早々に解決している。普段なら他家の料理人に口出しするのは憚られるのだが、レイゴスト料理長の弟子がここの料理長を務めていたおかげで話が早かった。弟子の成長を見るためとレシピの伝授ということであっさりとレイゴストさんが作る許可が出たのだ。
大事な話があるという侯爵様御夫妻と代官を残し、お嬢様を部屋にお連れする。恐らくお嬢様の鋭敏な味覚や魔族の味オンチについて話し合いがなされるのだろう。
先にお部屋に戻ったお嬢様は、部屋の窓からきらきら光る海を見ながらご自身の目を輝かせていた。この部屋の窓からは海が一望できる。窓越しとはいえ、お嬢様にとっては初めて見る海だ。
「きゃあ! とりさんなの。いっぱいいるのー!」
お嬢様は、空高く飛ぶ白い海鳥を目で追いかけては楽しそうに歓声をあげておられた。特に海鳥が海中へ飛び込んでいく姿を見るたびにその歓声は一際大きくなった。そんなお嬢様の隣でイーラさんやラミさんたちメイドらが一緒になって笑っている。
本当なら近くで海をお見せしたいのだが、侯爵様夫妻が同行されないと外にお連れすることはできない。ご両親の同伴なく外出できるのは六歳と決まっているからだ。
侯爵様と代官の話し合いが終われば、子煩悩な侯爵様と奥様が海に連れていってくださるだろう。それまで今しばらく我慢していただくしかない。
そんなお嬢様を残していくのは心苦しいのだが、食材を探すための許可をいただいた。侯爵様と代官にも許可をいただいた僕とヨヨさんは、リバシールの街中へと足を進めた。
船着き場を歩きながら、ザッパーンと打ち寄せる波の音を背に僕は思わずため息をついた。
港までの道すがら毒のない食材がないか探しつつやって来たのだが、予想通りというべきか思っていた以上にひどいというべきか、頭を抱えたくなる状態にいまさらながら思い悩むことになった。
まず、この街には魚をとる漁師らしい者がいなかった。
漁師とは、ざっくり言えば魚介類をとって生活する者たちのこと。
広義に解釈すれば海に住むリヴァイアサンを狙う者たちも漁師と言える。
だが、リヴァイアサンは魔物だ。
全長一キロメートル以上にもなるこの巨大な魔物を漁業の対象として見るのはそうとう違和感があった。むしろ違和感しかない。
それに、どちらかというと漁ではなく討伐に近いのだ。
その証拠にリヴァイアサンを狩るための船は大型弩砲が何十機も備わった軍船だし、その船に乗る魔族らは大剣や三つ又の矛を手にしている。ほかにも魔法が得意そうなローブ姿の連中もおり、それらが一堂に集まる姿は軍のちょっとした部隊である。討伐隊と言ってもいいだろう。
その連中の多くは体にウロコを持つ魔種族マーマン族や水棲系魔族だ。マーマン族は半魚人というべきか、魚半人というべきか悩む容姿をしている。だが、漁場? 狩り場? を考えれば水中でも機敏な動きを見せるマーマン族など水棲系魔族が多いのは当然だろう。
リバシールの港には乗客を乗降させたり、貨物を荷役したりする埠頭以外にも、リヴァイアサンを水揚げする専用の場所がある。そのすぐそばにはリヴァイアサンを加工するための加工場があり、加工したものを天日干しする場所が併設されていた。
ちょうどこの時期は干しリヴァイアサンを作る時期らしく、今も切り分けられたリヴァイアサンの切り身が所狭しと並べられていた。
また、干されている物の中には、三十センチほどの丸干しもある。あれはリヴァイアサンの稚魚だろう。その形は決して海蛇などではなく細長い魚、例えばサンマやサヨリのように見えた。
干し場の脇には目の細かい大きな漁網が干してあった。
そんなわけで僕が思ってる『普通の魚』をとる漁師はいない。
結局、この街でいう漁業とはリヴァイアサン狩りなのだ。
言い方を変えればリヴァイアサンをとる漁師しかいない。
当然、普通の魚は水揚げされない。
魚屋なんてものはなく、ましてや魚市場なんてない。その全てがリヴァイアサン屋であり、リヴァイアサン市場なのだ。ちなみにリヴァイアサン屋や市場では内臓や血、骨、脂、内臓などが売られている。
特にリヴァイアサンの血はポーションの材料になるそうだ。
干されているリヴァイアサンの稚魚を見ながら、ふとヨヨさんと出会った頃を思い出す。
あれは二人で王都にある干し魚を扱う店に行ったときだ。
その日、魔族の間で食されている干し魚の正体が魔物であるリヴァイアサンだったことに驚き、干しリヴァイアサンをなぜ干し魚と呼ぶのか疑問にすら思わなかった。あのとき買った干し魚らはすでにスープに使われており、恐る恐る口にした覚えがある。
だが、実際に干されている状態を目の当たりにすると確かに魚に見えるのだ。セイバスさんにもらった図鑑には海蛇に近いと書かれていたが、稚魚は海蛇に見えない。その姿は少しばかり派手なヒレが多い細長い魚だった。
一通り商業地区を見終わった僕たちは船着き場の隅で船を見ている。
頬に当たる潮風が冷たくて心地よい。
一軒しかない食材店と気まぐれで入った雑貨屋で扱っている食材は、王都よりも種類が少なく目ぼしいものは何もなかった。しいて言えば塩の値段が安かったくらいだろう。
港街なのに山の幸のほうが多いくらいだ。毒キノコとか毒キノコとか毒キノコとか。
「目新しいものなかったわね」
「普通の魚すら売ってませんでしたし」
「食べないのかしら?」
ヨヨさんが首をかしげる。
だがそんな彼女も魚を食べることはない。
「食材という意識がないんでしょうねぇ」
船着き場では屈強な男たちが威勢のいい声を出しながら荷物を運んでいた。積み荷は魔王国の南にある港街から運ばれてきたものがほとんどのようだ。それらを船から降ろす者や、逆に船に荷を積む者もいる。ここで働いているのは魔族ばかりだ。
先ほども一隻の大型船が船着き場に停まり、魔種族のひとつである巨人族の男が荷物を降ろしていた。その動きは体の大きさに似合わず繊細かつ丁寧だ。その巨人が降ろす荷物の多くはほかの船と同じ、南にある港街からの物だったが、少なからず魔族が使う言葉以外の文字で書かれた積み荷もあった。エルフ語……それにドワーフ語の積み荷もある。
「次はどうする?」
「せっかく海に来たんですから釣りでもやってみますか」
「釣り? ああ、前言ってた魚をとる方法ね。それはいいけど道具あるの?」
「ちょっと使えそうなものを買ってきましょう」
とりあえず雑貨屋まで戻り、丈夫そうな糸と縫い針を購入する。餌は『執事ボックス』に入っているパンで試してみるつもりだ。
「釣り針は、と」
縫い針を『執事食器棚』で一旦溶かし、釣り針の形に加工する。
大きさは小指の先くらいのサイズ。チヌ針五号ってとこか。一応、返しも付けておいた。
ついでに落ちている石をオモリとして加工しておく。ウキはなし。
糸に釣り針とオモリをつけ、餌のパンをつければ完成だ。
竿にできそうな木材がないので手釣りで我慢しよう。フラム子爵に聞いた竹のある場所に行ったら釣り竿になりそうな竹を探すつもりだ。
船着き場に戻り、近くにいた荷降ろしの監督らしい男に話しかけ、小型船が停泊している桟橋の先端に行ってもいいか確認する。ここはあくまで彼らの仕事場だ。邪魔するのは本意ではない。
「おう! 行ってもかまわんがドボーンと落ちるなよ。あの辺りからギューンと深くなっているからな」
ドボーン? ギューン?
ガッハッハと豪快に笑う現場監督から許可は得た。
白い歯が褐色の肌によく似合う豪快な男だ。
そして、なぜか背中をバンバンと叩かれた。
桟橋は三メートルほどの幅があり思ったよりもしっかりした作りになっていた。先端まで行って海を覗くと、男の言っていたとおり、かなり深いことがわかった。特に小型船が停泊している桟橋の先端から急激に深くなっている。大型船の入港やリヴァイアサンを水揚げするくらいだからかなりの深さが必要なのだろう。
さっそくパンに少しだけ水を吸わせ、手で練って固める。針を隠すようにパンを付け、足元に落とす。
ついでに糸に魔力を流し、強度を上げておく。もう少し丈夫な糸があるといいのだが、今はこれで我慢するしかないだろう。
「アルクん、そんなので魚が釣れるの?」
「魚が釣れなくても、まずはいることがわかれば――ん?」
引き込むような感触が三回ほど伝わってきたあと、一気に引き込まれた。感触からしてアワセが必要ないほどガッチリ、針にかかったようだ。
「きたっ! しかも重いっ」
糸を力任せに引く。
魔力で強化しているのでたぶん切れないはずだ。
糸を手に巻き付けるようにしていくのだが、相手もそれに抵抗するかのように海底に向かって走る。糸が手に食い込むが逃がすわけにはいかない。その姿を見ないことには食材になるかどうか判断がつかないのだ。
数分の格闘の末、相手はかなり弱ってきたようだ。今のうちに糸をどんどんたぐり寄せておく。しばらくすると海中にキラリと光る魚影が見えた。僕は一気に糸を巻き取ると、勢いよく海から引っ張り上げる。獲物は宙を浮き、太陽の光を浴びながら桟橋の上に落下した。
慌てて釣り上げた獲物を確認する。
うん? あれ? 魚……には間違いない。
この海にもちゃんと魚が住んでいた。
だけど――。
「……」
「わぁー、綺麗な魚ね。アルクん? ……魚だよね」
黙ったまま魚を凝視する僕にヨヨさんが訝しげな顔を向ける。
「……魚ですよ。ただこれはちょっと」
「なにその不満げな顔は。まさか毒があるの?」
「いえ、毒はないはずです。それどころか――」
その魚は釣り上げられても必死の抵抗をしていた。ビチビチと跳ねるその姿は、自ら活きの良さを誇示している。体長はおよそ三十センチ、その色は桜の花のように鮮やかで、ヒレの欠損もなくまさに完璧な姿をした――
「――鯛ですね。しかも立派な真鯛です」
「美味しいの?」
「とても美味しいですよ。味は淡白ですが、生でも、煮ても、焼いても美味しい魚です。熟成させるともっと美味しくなりますね。寒い時期のほうが美味しいですが、今の時期でも十分でしょう。更に、お嬢様の離乳食にも適した白身魚。天然物は高級魚と言われてましたね」
「すごいじゃない! いい食材が手に入ったわね!」
とりあえず血抜きをするため、目の後ろにある急所を打って気絶させる。エラからナイフを差し込んだあと一気に延髄を断ち切り、尾の付け根部分にも刃を滑ら、血抜きする。〆(しめ)ることによって、より魚の旨みが残るのだ。まあ、〆(しめ)ておかないと『執事ボックス』に入らないという理由もある。
「それにしては浮かない顔ね」
「いえ、マダイは基本的に肉食なんですよ。エビとか貝とか小魚とか食べるんです」
「餌なんだっけ?」
「パンですね」
「本当にタイなの」
「タイだと思いたい、ですね」
「う、うん」
その後、同じようにパンを釣り針につけ、糸を垂らした。巻いた糸を買ってきたので深いところまで試せそうだ。何度か糸を垂らす深さを変え、棚を探る。オモリを重くし、ちょい投げも試してみた。
そうやって釣りを楽しんだ結果。
マダイ、スズキ、リヴァイアサン、ヒラメ、カレイ、リヴァイアサン、カツオ、サバ、リヴァイアサン、アジ、アナゴ、リヴァイアサンが釣れた。
リヴァイアサン以外の馴染み深い魚については、それぞれ複数釣り上げており、針を入れるたびに食いつく『入れ食い』状態のおかげで大漁だった。
底が見えないほどかなり深くなっているとはいえ、港の桟橋で釣れる魚としては種類もサイズも違和感を覚える。
釣り堀か! と釣れた魚たちに説教したのも仕方ないと思う。
そして餌はパンだ。
しかし食性が肉食のはずなのになぜパンで釣れるのか。
もしかしてフナなの? コイなの? パンがブームなの? と悩んでしまった。
とりあえず普通の魚は全て〆(しめ)てから『執事ボックス』に保存しておく。
釣り上げた四匹のリヴァイアサンの大きさは二十センチから一メートルとまちまちだったが、タイなど普通の魚と同じ場所で生存していることがわかった。
仲良しか! と海にツッコミを入れたのは若気の至りだ。見た目は十歳なので許して欲しい。
釣り上げたリヴァイアサンの姿は小さい順にサヨリ、サンマ、カマス、太いヤガラに似ていた。太いヤガラはオニカマスほどの太さがある。これだけ見れば確かに魚と言ってもいいかもしれない。
もしかしたらリヴァイアサンは出世魚的な何かなのだろうか。それとも進化系の魔物なのだろうか。そのうちタチウオやリュウグウノツカイみたいになるのだろうか。
「おう! 坊主。面白いことやってるな。うおっ! リヴァイアサンか。こんなので捕まえられるのか」
僕が持っている手釣りの仕掛けを興味深げに見ながら先ほどの現場監督の男が話しかけてきた。
「え? 釣りですよ」
「釣りっていうのか。ほー、鉤爪に餌を付けてデローンと糸を垂らす、と。面白いやり方だな」
どうやら釣りを知らないらしい。
そういえばこの辺りで釣りをしている魔族の姿はない。
マーマン族は……道具必要ないか。
そういえば干し場に網があったな。
「リヴァイアサンの稚魚は網でとるんでしたっけ」
「おう! よく知ってるな坊主。船でガバーっと網を仕掛けてから、マーマン族たちがダァーって追い込むんだ。坊主はリヴァイアサン漁でもするのか? ドーンと大きくなったらバァーンと働き口紹介してやるぞ」
やはり魔族の認識ではリヴァイアサンも漁扱いのようだ。
誠に遺憾である。
それにしても監督という地位にいる方はどこの世界でも擬音が好きらしい。
僕の背中を叩きながら、働き口を紹介してくれるあたりは悪い魔族ではないのだろう。ここに来たのもたぶん心配して見に来てくれたに違いない。
「もう働いているんで大丈夫です。ありがとうございます」
「……おう。坊主。小さいのにえらいな。くっ」
目をこすりながら、「潮風が目に染みるぜ」と言いながら顔を背けてる。どうやら勝手に誤解して、勝手に想像して、勝手に結論に至ったようだ。
「親父もこれくらいのリヴァイアサンで満足してりゃいいんだが。なんでまた引退してから一人でリヴァイアサンに挑もうとするのやら」
ため息をつきながら男は苦笑いをした。
つい最近、どこかで似たような話を聞いた覚えが……。
「失礼ですが、あなたのお名前は?」
「おう! ライオットだ。ライオット=マーレ。坊主、俺を知らないってことは旅行者か何かだな……って、一人でか。くっ」
やっぱり。
監督だと思っていた男はこの街を治める代官の息子さんに違いない。
そしてまた自分で結論を出していた。
「申し遅れました。僕はミストファング侯爵様の元で働いているアルクと申します。今は、ティリアお嬢様の執事をしております」
「おう? おう! ミストファングの旦那のとこで働いてんのか。執事ということはセイバス殿の教え子だな。ずいぶんとしっかりしてると思ったが納得だ。そりゃあ――」
「こらー! ライオット! さぼってるんじゃないっ!」
自己紹介をしているとき、遠くのほうから大きな声が聞こえてきた。僕とライオットさんが目をやると、そこには馬車から身を乗り出して怒鳴る代官の姿があった。停まる前に馬車から飛び出した代官は、杖を振り回しながらこちらに駆け足で近づいてくる。
代官が飛び出したあと、停車した馬車から降りてこられたのは、苦笑する侯爵様御夫妻と海を間近に見て笑顔でいっぱいのティリアお嬢様だ。三人は仲良く手を繋いでおられる。その後ろをセイバスさんとイーラさんが続く。
「元気な方ねぇ」とヨヨさんが笑う。
「……杖いらなさそうですね」
「おう! あれは杖じゃなく鈍器だな」
ずかずかとライオットさんの元へ駆け寄った代官は、「侯爵様に挨拶せんか」とライオットさんを侯爵様の元へと押しやった。そのとき僕と僕が持っている釣りの仕掛けを見て代官が立ち止まる。
「確かアルク殿でしたか。うちの愚息が失礼をしませんでしたかな」
「とんでもございません。釣りの話をしていただけです」
「釣り、ですか?」
不思議そうな目をする代官に、釣りのことを説明した。僕の話を代官は興味深そうに聞いている。そこへ挨拶を終えたライオットさんが侯爵様と一緒に近づいてくる。
奥様とお嬢様は少し離れた場所で海を覗き込みながら楽しげに笑っておられる。イーラさんがそばに控えているので落ちる心配はなさそうだ。
「アルクよ。食材は見つかったか?」
「はい、侯爵様。お嬢様に喜んでいただけるものが見つかりました!」
「ほほう。そうか」
満足気な顔で侯爵様が笑った。
「おう! 親父。侯爵様をそのままにして何話し込んでんだ」
「これは侯爵様。失礼いたしました」
「いや、かまわない。何を夢中になっておられたのかな?」
「それが、この釣りというのが実に面白そうでしてな」
「釣り?」
その日の夕食。
テーブルの上には、バターキノコソースで食べるスズキのパイ包み、ヒラメと野菜のコンソメ煮、マダイのムニエルホワイトソース仕立てなど、釣りたての新鮮な魚をふんだんに使った料理が並べられていた。
パイの香ばしい香りやホワイトソースの香りが実に幸せな気分にさせてくれる。白身魚の美しさは上品なだけでなく、その旨みは心を豊かにさせてくれるに違いない。
味がわかる魔族が今のところお嬢様だけだとしてもだ。
これらの料理はレイゴストさんとこの屋敷の料理長の合作だ。レシピは僕が提供したものだが、レイゴストたちの腕前にかかれば初めて作る料理もこのとおりである。コショウなどの香辛料が見つかっていないので完璧ではないが十分だろう。
お嬢様の離乳食用に用意した料理は侯爵様たちと全く同じものだが少しだけ塩とバターを少なめにしてある。その料理をお嬢様は、目を海のようにキラキラさせながらスプーンとフォークを使って食べておられた。
幸せそうな顔で、「美味しいのー!」と褒めてくださるお嬢様に、海の魚全部を捧げることを誓う。
勢いのあまり、お嬢様の口の周りにソースやパイのかけらがついているが、僕たち使用人は『魅力のかけら』と呼んでいる。それはお嬢様が食事を楽しんでいる証拠でもあるのだ。
すぐに奥様がきれいに拭きとっていたけど。
残念ながらヨヨさんは魚を食べることができないので、パンケーキを魚の形、具体的にはタイの形にして焼いてみた。エルフのニーナさんに頼んでおいた小豆が届いたら、たい焼きを作ってあげようとおもう。ニーナさんにはエルフの国でとれる食材をほかにも頼んでいる。ウスイの街に届くようにしてもらったので楽しみだ。
ちなみにこのタイ形パンケーキとスズキのパイ包みのパイは、レイゴストさんの手――手は使えないが――によるものだ。その完成度は高く、色以外は細部に至る本物そっくりだった。歯が一本一本再現されるほどリアルだったため、迫力は申し分ない。
ただお嬢様が怖がってしまいそうだったので、申し訳ないと思いつつ、少しだけ可愛く作り直してもらった。おかげで『スズキッ!!』から『すずきぃ』に見た目が変わっている。
「ティリア、とぉさまが釣ったスズキはどうだい?」
「すっごく美味しいのー!」ニパッと笑うお嬢様。
「お嬢、じじいが釣ったヒラメはどうじゃ?」
「とっても美味しいの!」さらにニコニコッと笑うお嬢様。
「何を二人で張り合ってるのかしら~」
侯爵様と代官の様子を見て奥様が呆れたように笑っている。
実を言うと、夕食に並べられた魚料理には侯爵様たちが釣った魚が使われている。侯爵様も代官も自ら釣り上げた魚を幸せそうに食べるお嬢様を見てデレデレだった。
「でも、このタイが一番好きなのー!!」
「恐れいります、ティリアお嬢様」
「「ぐぬぬ」」
お嬢様が一番だと言ったタイを釣り上げたのは、セイバスさんだ。僕が釣ったものよりも大きく五十センチはあったと思う。ちょうど美味しいサイズだろう。
恭しくお嬢様にお辞儀をするセイバスさんは、ぐぬぬ言ってる二人に見られないよう、にっこりとした笑みをお嬢様に送っていた。
その微笑みは完全に孫を見る顔だ。年齢的には曾孫か玄孫以上だが。
――時は桟橋にいた頃まで遡る。
桟橋で釣りの説明をしたあと、いつの間にか釣り大会が始まった。
参加したのは僕を除く、男性魔族の四人。
その釣り大会でセイバスさんが『執事ボックス』から取り出したのが細く美しい丈夫な糸だった。この糸は昔、アラクネ族と知り合ったときにもらったという『アラクネの糸』だそうだ。アラクネの糸は魔道具や服などに使われている高級品である。皆の仕掛けを作る際、「これを使ってください」とその糸をごっそりとわけてもらった。
そういえば王都の厨房で料理長が言っていた。
セイバスさんが図鑑を作るときに、糊として『アラクネの粘着液』を使ったという話だ。この糸もそのときにもらったのだろう。
そんなセイバスさんは海に糸を垂らしながら、「不思議と心が落ち着きますな」とつぶやいている。それに同意したのが代官だ。「まったくですなぁ」と二人していかにも老齢した雰囲気を漂わせていた。
その頃、侯爵様とライオットさんはあちこちに糸を垂らしては移動しまくっていた。
大会終了後、釣った魚の数が一番多かったのはセイバスさんだった。続いて、代官、侯爵様、ライオットさんである。同じ道具、同じ餌を使っていたが不思議なものである。本人の名誉のため名前は伏せるが、一匹も連れなかった、いわゆるボウズの方がいた。まあ、順位を見れば一目了然だ。
「……次こそ釣れますよ」
「……おう」
海の男は背中で泣いていた。
彼を照らす沈む夕日が美しかった。
――そして今に至る。
「しかし、お嬢の幸せそうな顔を見ていると『味』というものに興味がわきますな」
「全くだ。娘と同じ気持ちを共有できんのは寂しいものだよ」
「私たちも味がわかるようになれるといいのだけどね~」
「おう! 親父。そのために妖精のヨヨさんとアルクたちが頑張ってるんだろ。とりあえずこの街でも毒のない食材を中心に食べるよう言えばいいじゃねぇか」
確かに毒のない食材を食べ続けることによって、味覚が戻る場合もある。ただしそれは運の要素が強いし、若いほど可能性が高い。それに老化による味覚の低下は避けられないのだ。
「簡単ではない。アルク殿に聞けば、店に売ってる食材のほとんどに毒があるそうではないか。現状、毒のない食材だけでは街に住む者たちの食材が足りんわ!」
「うーむ。なあ、アルク。いい方法はないのかね」
どうしたものかと侯爵様に目をやると軽くうなずいておられた。
「やはりすぐには無理かと存じます。地道に毒のない食材を見つけ、育て、増やしていくしかございません。すでにお聞きになっておられると思いますが、侯爵様の領内では食材を増やすための準備が進められております。また、このリバシールの海には今日お出しした魚のように毒のない食材が豊富にとれます。これを利用しない手はございません」
「そうなるとリヴァイアサンではなく、これらの魚をとるための部隊が必要じゃな」
「親父でも釣れるんだから部隊なんていらないだろ」
「ふっ、確か一匹も釣れなかったやつがおったの」
「おう! 言いやがったな!」
「なんじゃ! よーし、表に出ろ」
元気だなー、代官たち。
侯爵様も笑っているので問題ないか。
話が進まないので勝手に続ける。
「確かに部隊は必要ないですが、リヴァイアサンの稚魚と同じように漁網を使って魚をとる漁師は必要です。釣り竿で釣ってもいいですけど」
「なるほど。マーマン族はリヴァイアサンに掛かりっきりじゃろうから、ほかの者に手伝ってもらうとするか。ところで釣り竿ってなんじゃ?」
「釣りをするための道具ですね。手釣りと違い、仕掛けを遠くに飛ばしたり、より大きな魚を釣り上げたりすることが可能になります。糸巻き機をつければ、より深い場所に住む魚も釣れるでしょう」
代官とセイバスさんの目が光る。
あっ、これは釣り竿とリールを作らされる流れですね。
特に代官の食いつきっぷりがすごい。
「ほう! その釣り竿はどこにある。どこに売っておるかね?」
「いえ、作らないといけません。竿の材料を見つけ次第、お作りしますけど」
「ぜひ頼む! いくらでも出すぞ。なんならこっちで竿を作る職人を用意してもいい」
代官がずずいと身を乗り出しギラギラした目を向けてくる。
えっ、なにその熱の入れよう具合は。
目が怖いんですけど。
「あっ、アルクん。これって商売になるかもよ」とヨヨさん。
「あー、なるほど。釣り人口が増えれば食材確保もできますね。ちょっと考えてみましょうか。竿が完成したあかつきにはセルム代官に贈らせてもらいます。職人さん用に設計図もお渡ししましょう。糸巻き機も考えておきますね」
「おおぉ! それは楽しみじゃ。魚をとるための漁師もまかせておけ。お嬢にはこのリバシールのじじいが釣った魚をたくさん送るからの!」
「うわぁ♪ ありがとなのー」
代官の言葉に、デザートに出したタイ形パンケーキを頬張るお嬢様も大喜びだ。
魚料理や活用法は数えきれない。
今日の料理に刺身とタイしゃぶを出そうか悩んだくらいだ。フライやサンドイッチの具材にしてもいい。魚肉ソーセージなど加工品も合わせたらかなりの種類になる。
食材を加工する人員も侯爵様が用意してくれてるはずなので定期的に魚が手に入ったら本格的に稼働させる予定だ。
最初はお嬢様の分があればいいし焦ることはない。
「では魚をとる漁師の育成を正式にリバシール代官に命じる」
「はっ。さっそく手配致します」
侯爵様からの命令もあって漁師の育成が決まった。
代官の好意によって竿を作る職人の確保もできた。
そして、なぜかお嬢様専属漁師も確保できている。
代官の仕事は……ライオットさん、頑張って!
ライオットさんも老いた父親がリヴァイアサン狩りに行かずに済むのなら安心できるだろう。
引退後の楽しみができたと、今にも鼻歌を歌い出しそうな顔でワインを飲む代官だが、何かを思い出したかのように顔を上げる。
「おお! そうだ。侯爵殿、いい酒がありますぞ」
「ほほう!」
そう言って代官がメイドに持ってこさせたのは、グラスに入った透明な酒だった。
「酒精もなかなかで、特に香りが素晴らしい一品です」
侯爵様は香りを確かめたあと、グラスに口をつける。
「おぉ~。これはいい。少し癖はあるがワインとはまた違った柔らかい香りだ」
「お気に召していただけたようで何より。この街に住むドワーフから手に入れた一品でしてな」
「我が領にドワーフがいたのか。しかし、ドワーフの酒か。彼らは本当に酒が好きだな」
そう言って侯爵様は笑いながら僕に目をやった。
侯爵様がお気に入りの命の水もドワーフ製だ。
それにしてもこの街にドワーフがねぇ。
「ところでこの酒の原料はなんだ?」
「それがドワーフの秘密らしく聞き出せませんでしたわ。なかなか頑固でしてな」
「酒はドワーフにとって大切なもののようだな。そうだ、アルクならわかるか?」
「あなた~。アルクちゃんにお酒を飲ますつもりなの~」
部屋のどこかでピシッという音がなった。
グラスを僕に差し出した侯爵様の手がピタリと止まる。
代官もライオットさんもなぜか止まる。
止まらないのはフルーツジュースをコクコクと飲んでいるお嬢様だけだ。
「エ、エリス、勘違いだ。飲ませたらどうなるかヨヨ殿から聞いてわかっている。匂いだけだ、ただ匂いを嗅いでもらうだけだから」
命の水が本物かどうか確かめたとき、僕は一度倒れている。
いつか一緒に酒を飲もうと手紙をいただいた侯爵様には申し訳ないが、僕は酒を飲むこともできなさそうだ。
この件はヨヨさんが侯爵様たちに報告してくれたようだけど、いつの間に報告していたんだろう。
「ほっほっほ。侯爵様はエリス奥様に頭が上がりませんな」
「おう。親父も死んだおふくろに頭上がらなかったな」
「「……」」
侯爵様と代官が黙ったところで侯爵様の手からグラスを受け取る。
アルティコ伯爵を治療したときにわかったことだが、麻痺毒のときと違い、アルコールを嗅ぐだけでは倒れなかった。度合いにもよるが多少の耐性はあるようだ……たぶん。
僕は手で仰ぐようにして、酒の匂いを嗅ぐ。
その香りは甘く独特の強い香りがした。
そしてその香りには覚えがあった。
香りを嗅いだあと、自然と笑みがこぼれていた。