第百二十話 香りは歌う
ヘレナさんとラケシスさんから秘伝だというモルスソースをおみやげにもらった僕は引きつった顔のまま、リアルルさんのハーブ園に帰ってきた。
ごく短い滞在だったが、エルフの国はなかなか刺激的だった。主に味覚的な意味が強かったが、毒のない食材も手に入れることができたし、充実した日々を過ごすことができた。
特にトマト、タマネギ、キャベツが手に入ったのは大きい。これらの食材は使い道が多く重宝する。トマトは庭師のウルナさんも育てているが、まだ収穫には至っていない。自分が何を育てているか、一度彼女に食べてもらうのもいいだろう。トマトの味を気に入ってくれれば、今以上にやる気になってくれるはずだ。まあ彼女の場合、お嬢様がトマトを気に入ってくれればそれだけで十分だろうけど。
「じゃあ私はイルミンちゃんを迎える準備をするから一旦お別れね」
「アルクん。私もリアの手伝いをするから夕方までこっちにいるわ」
「わらわも手伝っていくさね」
リアルルさんがイルミンをしばらく預かることになったが、そのための準備を行う必要がある。ヨヨさんとニーナさん、それにディーナさんはその手伝いをするようだ。言い出した僕も手伝うつもりだったが、リアルルさんは侯爵様への報告を優先するよう言ってくれた。
「では先に戻っております」
皆に一言伝えてから僕とサキはお屋敷へと続く木の中に入る。くぐり抜けた先はあっという間にお屋敷の庭。すっかりハーブ園とつなぐ門となった樹齢百年を超える樫の木も最近は妙に艶がある。葉は生き生きとした緑で、例年よりも活力に溢れているようだ。これも樹木の精霊リアルルさんの恩恵だと以前、ヨヨさんが言っていた。
侯爵家の庭を見るのも数日ぶりだ。美しく整えられた庭を見るとようやく帰ってきたという思いがこみ上げてくる。考えてみればニーナさんの故郷グリバルトの集落は周りを巨大な木に囲まれていたせいか、若干、閉塞感があった。青い空が視界いっぱいに広がる景色もひさしぶりだ。
今日もいい天気だ。
「さてと……まずはサキを皆に紹介しないと」
「だ、大丈夫かしら」
「そんなに緊張しなくても――」
話の途中、お屋敷へと続く小道からパタパタと走る足音が聞こえてくる。
「アルクーん!」
続いて聞こえてきたのはお嬢様の弾むような声だった。
足音は次第に近くなり、小道が続く木々の間からチェックのスカートと白のブラウス姿のお嬢様が姿を現した。声をかけると、お嬢様は僕へと顔を向ける。そして夜明けの太陽のようにまばゆく、明るい笑顔になられる。するとお嬢様は走る速度を上げ、笑顔のまま僕へと飛び込んでこられた。
僕はお嬢様を両手で受け止めると、くるり回りながら勢いを弱める。宙を回転するお嬢様は実に楽しそうだ。そのまま数回転したあと、お嬢様をゆっくり地面へとおろす。地面に足をつけたお嬢様は両手を広げたまま、満面の笑顔で僕を見上げておられた。きらきら光る赤い瞳はまるで宝石のようだ。
「おかえりなのー!」
「ただいま戻りました。ご不自由はございませんでしたか?」
「大丈夫なの!」
「お嬢様がお元気そうでなによりです」
飛び込んできたお嬢様の後ろからは侯爵家に居候している精霊たちがついてきていた。精霊たちは僕とお嬢様の周りに集まって口々に話す。
「お兄ちゃん。おかえりなさい」
「「「おかえりー」」」
「ただいま。クレベリたちも元気そうだね」
小さな精霊たちが声をそろえて出迎えてくれる。相変わらずクレベリたちは僕を兄関連の呼び名で呼ぶのだが、いくら注意してもやめようとしない。最近はもうあきらめている。
それにしても――。
「それにしてもお嬢様。なぜ僕が戻ってきたのがわかったのですか」
「風の精霊さんが教えてくれたの!」
「風の精霊が?」
すると花の香りとともに僕のほほを暖かい風がゆっくりとなでていった。その風の中に透き通った小さな少女の姿を見た気がしたが、少女は笑みを残し、すぐに消えてしまった。
「ティリア様はいい精霊使いになりますわ。アルク兄様」とラベンダーの精霊ラビーが誇らしげに言った。
「そうですか。仲がいいのはいいことですね」
「みんなと仲良しなのー!」
お嬢様はクレベリたちと一緒に、「「「ねー」」」と互いにうなずき合った。
そんなお嬢様たちの様子をサキは、「かわいい」と当たり前のことをつぶやきながらうっとりしていた。
「ところでお嬢様。悪魔のサキを紹介いたします」
「あくまさんって、ネコニャンのおじちゃんと同じ?」
「ええ。同じですよ」
「ネコニャンのおじちゃんって誰?」サキが首をかしげる。
「あー、ベルゼブブの野郎ですね」
「ベルゼブブ……え? ベルゼブブ様!? あのハエの王、暴食の王のこと!?」
「ソレです」
「そのかたを野郎呼ばわり! そしてソレ扱い!」
「アレ、生意気なことにお嬢様に自分で作ったネコニャンのぬいぐるみをプレゼントしているんですよ。何度封印しようと思ったことか」
「な、なんで魔族のお嬢さんが私でもお会いしたことのないベルゼブブ様にお会いしているのよ!」
「ベルゼブブごときがお嬢様に拝謁できる栄誉に預かるなどおこがましい話ですが、これも友達だと言い張って僕につきまとっているから仕方ありません」
「友達ぃ!?」
「ストーカーに近い便利な友達です」
「……ベルゼブブ様。何しているの? 友達は選びなさいよ」
「選ぶ友達がいたらいいですね」
「ひっ。やめてあげて!」
こうしたやりとりのあと、サキをお嬢様に紹介した。
お嬢様はサキに対しても美しいお辞儀を見せ、彼女を魅了する。ご挨拶の姿勢を見るたびに洗練されていくお嬢様。なんてすばらしいのだろうか。
お嬢様の可愛らしさにサキも、「きゃあ、きゃあ♪」と大はしゃぎだ。念のため、お嬢様を傷つけるようなことがあれば僕もベルゼブブも絶対に許さないと伝えておく。「こんなかわいい女の子にそんなことするわけないでしょ!」と彼女はいうが、悪魔の言葉を鵜呑みにするほど僕は甘くない。信用するにはまだ時間が足りない。
だが、かわいいという事実は否定しない。見る目があると褒めておこう。
「ティリアお嬢様ぁ。うれしいのはわかりますが全力で走るのはおやめください」
少し遅れてやってきたのはイーラさんだ。
遅れてきたのは僕とお嬢様がゆっくり話せるよう気を遣ってくれたに違いない。そうでなければ彼女がお嬢様から離れることなどありえない。それに精霊たちがいたからこそ、安心して離れたのだろう。
そのイーラさんはスカートの裾を踏まないよう軽く手でつまみながら小走りでお嬢様のそばに駆け寄る。
「おかえりなさい。アルクくん」
「ただいま戻りました。イーラさん」
イーラさんは笑顔で僕を迎えてくれた。
だがその笑顔は目の前のサキを見るまでの短い間だった。
イーラさんは鋭い目でサキを見た。そして足の先から頭までじっくりと視線を這わせる。
「で? その子が私のアルクくんをたぶらかそうとした例の悪魔ね」
「ひぃ」
イーラさんに見つめられたサキが二歩ほど後ろに下がった。
僕も思わず下がりそうになったことは秘密だ。
「たぶらかされていませんから。あと『私の』じゃありません」
「あら? そうだったっけ?」
「そうですよ。ほら。サキもちゃんと挨拶して」
名前を呼ばれたサキはビクッと身体を震わせる。
「もしかして私、怖がられているのかしら」
「緊張しているだけだと思いますよ」
「てっきりアルクくんが変なことを言ったのかと思ったわ」
「……やだなぁ。そんなことあるわけないじゃないですか」
「そうよね」
イーラさんはにっこりと優しく微笑みながら、首をゆっくりとかしげる。その深い青色の瞳の目を開いたままで。すると彼女の暗青色の前髪が目にかかった。髪の毛の奥からのぞく瞳はじっと僕とサキを見ている。
イーラさん、瞬き。瞬きしましょう。ねっ?
「こ、怖いんだけど」サキは消えそうな声で僕に耳打ちをする。
「だ、だ、大丈夫だから」
「そんな震えた声では説得力ないです!」
僕の背中越しにイーラさんを見ながら、サキは小刻みに震えていた。
「……(もう! 二人でいちゃいちゃと)」
「え? イーラさん。今、何かおっしゃいました?」
「なんでもないわよぅ? ずいぶんと仲がいいのね。アルクくんあとでお説教」
「え! なんで!?」
「それとサキさんでしたね。そんなに怖がるなんて私、悲しいわ。そうだわ。少しお屋敷でお話ししましょう。ねっ?」
「え? い、いえ。け、結構です」
「あら。別に取って食えるけど取って食ったりしないわよ? 今は」
「今、不穏な一言を聞いた気がしたわ! しかも今、限定!?」
「気のせいよ。さっ、お屋敷に行きましょうか」
笑みを浮かべているがイーラさんの青い目から感情という名の光がゆっくりと消えていく。その迫力は言葉では言い表せない。『目は口ほどにものをいう』とはまさにこのこと。いや、触らぬ神に祟りなしだったかもしれない。触ってはだめなものが世の中にはある。今のイーラさんなら目だけで悪魔を従えることができるのではないだろうか。
「は、はい……行きます」
「アルクくん。少しの間、お嬢様をお願いしますね」
「わ、わかりました」
精気を吸い取られたかのように力なく返事をしたサキ。どっちがサキュバスだかわかりゃしない。その後、サキはイーラさんにがっちりと腕を組まれ、お屋敷へと連れていかれた。あの腕の組み方だと簡単には逃げられないだろう。
「イーラはかっこいいの!」
「そ、そうですね」
お嬢様はかっこよくならないでください。
お願いします。
「おかえり。アルクくん」
連れ去られたサキを見送っていると声をかけられた。
この声は執事長のセイバスさんだ。声のしたほうを見ると、後ろ手のままお嬢様が通ってきた小道をゆっくりと歩いてこられる姿が目に入った。
「ただいま帰りました」
「ご苦労様。何か収穫はありましたか?」
「はい。とびきりの食材をいくつか見つけることができました」
「それは僥倖。ティリアお嬢様、お食事がまた楽しみになりますね」
「アルクくんはすごいのー!」
柔和な笑顔をお嬢様に向けながらセイバスさんは何度もうなずいておられた。目を細めるその姿は孫を見る祖父にしかみえない。
「ところでアルクくん。あちらでは身体の調子はどうでしたか。……魔力の枯渇は起きませんでしたか?」
その言葉に少し驚く。
思わずセイバスさんの目を見た。
「ご存知だったんですね」
「ええ。私も若いころは苦労しました」
なんとセイバスさんはご存じだった。
魔王国以外の場所は魔力が薄く、魔力の枯渇に起こりやすいことを。だが出かける前には何もおっしゃられなかった。
不思議に思っているとその疑問に答えてくれる。
「これも修行の一環です」
そうおっしゃった執事長は真剣な顔だ。
魔王国は濃い魔力があふれる土地だ。当然、大陸が違うエルフの森とは土地に存在する魔力量が違う。これは魔王国のある大陸でも同じことだ。場所によっては魔力が極端に少ない場所もある。
「この大陸の場合、モフォグ大森林を境にした西側。特に人族の国では土地に存在する魔力量がかなり低いのです。どこでも魔王国と同じだと思ったら大間違いですよ。周りの環境を把握しておくことが必要です。それに何でも魔力に頼るのはよくありません。執事たるものいざというときに魔法が使えなくてどうしますか」
「はい! 気をつけます」
「よろしい」返事を聞いたセイバスさんは優しく微笑む。
「特に魔族に対し、よくない感情を持つ人族の国に行く場合は気をつけなさい。極力、魔力を抑え、目立つ行為は慎むように」
「わかりました。留意いたします」
どうやら魔力が極端に少なくなるのはモフォグ大森林が境となるようだ。特に人族の国はかなり魔力が少ないとのこと。
また『ドラゴンフォール山脈』にある龍族の国のことを尋ねてみた。すると、龍族の国は魔王国ほどではないがそれなりに魔力の多い土地だと教えてくださった。
もし万が一、魔力が枯渇しそうなときは魔石を使った回復方法を使う手もある。大量の魔石を砕く、またはソウルイーターで魔石の魔力を吸収し自分のものとする、という二つの方法だ。
そしてもうひとつ――。
「そういえばエルフの国で気がついたことですが――」
セイバスさんにもうひとつの魔力回復方法を説明する。
その方法とは普通に食事をすることだ。できれば魔力の多い食材を使った料理が効果的だった。限度はあるがたくさん食べることでも魔力の回復は可能である。
「なるほど。それは盲点でした。わずかとはいえ魔王国以外では食事するという行為は重要ですね。この年になってアルクから教わることになるとは」
そうおっしゃるセイバスさんは楽しげな笑顔を見せた。
侯爵家の食事はお嬢様のこともあって徐々に変わってきている。とはいえ、まだまだ魔族に染みついた食事への認識の低さと価値観は底に近い。セイバスさんのように長命で博識の魔族であっても食事が絡むと、盲点とおっしゃるくらいだ。
セイバスさんは感心したように、「これからも精進しなさい」と優しくおっしゃった。
そこへイーラさんが戻ってくる。
それはもう満面の笑顔だ。僕を見つめる笑顔が怖い。
サキが連れて行かれてまだ数十分程度。
だが、イーラさんの隣にサキの姿はない。
――アア……マモレナカッタ。
「サキちゃんは今、メイド服に着替えてもらっています」
にこやかにイーラさんがいう。
僕の言葉が聞こえたわけじゃないはずだ。
それにサキさんからサキちゃんになっていることからそれなりに打ち解けたのだろう。
連れて行く前、サキに対し少々機嫌が悪いように見えたのは彼女の服装が原因に違いない。さすがにレザーのタイトワンピースは目に余るものがあったのだろう。身体のラインがはっきりとわかるサキの服は目に余るどころかいろいろ足りない部分もあったが、侯爵家にふさわしい服とはいえなかった。
「なぜメイド服なんです?」
「あら? 彼女の本質を見るためにもメイド研修は最適よ」
「その間、彼女の魔力はどうする予定なんですか」
「しばらくは大丈夫だと思うわよ。服を脱がすときも元気いっぱいだったから」
どうやら無理矢理脱がしたようだ。
話によるとメイド数人がかりで脱がさねばならないほど、元気いっぱいだったという。元気いっぱい暴れたということなのだろう。
そういえばタイトワンピースは上へ脱がすのだろうか、下へ脱がすのだろうか。
「何を想像しているのかしら?」
「な、何も想像していませんよ」
イーラさんから冷ややかな目を向けられたがなんとかごまかせたようだ。
「悪魔にいうのも変だけど、悪い子じゃなさそうね。あとは本能を制御できるようになればいい使い魔になれるでしょう」
会ったばかりなのにすでにサキの悪魔なりを把握しつつあるようだ。
とりあえずサキはイーラさんに任せよう。
エルフたちに許されているとはいえ、サキは罪を犯している。同じことを魔王国で行えば確実に処罰されるだろう。あとは彼女の態度次第だ。
研修期間は一ヶ月。
いざというときは僕が魔力をわけることになった。
「アルクくん。そろそろ侯爵様に報告しに行きましょうか」
「は、はい。わかりました。それではお嬢様、またあとでゆっくりとお話ししましょう」
「はいなの! エルフさんのお話、楽しみにしてるの!」
僕はお嬢様をイーラさんに任せ、侯爵様の元へ急いだ。
「ゴ、ゴブさぁぁん!」
「ア……アルクん。さ、三度目ッス。 そのパターンはもう飽きた……ッス」
死にかけているくせに生意気だ。
三度目の正直という言葉を知らないのか。
残念ながら三度目でも生きていたので、この言葉も当てにならない。一度目、二度目はともかく、本来なら三度目で確実にお別れのはずだ。
すでに侯爵様にはエルフの国で起きたことを報告し終えた。
毒のない食材を見つけたことやイルミンの成長についてだ。
エルフとの交易はリアルルさん協力のもと、ハーブ園につながる中間空間を魔族とエルフの交易地点として利用できるようになった。しかも『妖精の祝祭』専用だ。『妖精の祝祭』専用ということは出資者である侯爵様専用ということでもある。これによりどこよりも早くエルフの国の商品を店頭に並べることが可能となった。航路とは比べ物にならないほどの早さだ。
ただ交易地点に行く場合、侯爵家の庭にある移動用の樫の木を使う必要がある。そのため『妖精の祝祭』で樫の木を使わせてもらう許可と従業員が侯爵家の庭に入る許可が必要となる。その許可をいただけないか打診すると、侯爵様から二つ返事で許可が出た。ただし、『妖精の祝祭』の関係者で使えるのは防犯上、僕とヨヨさん、それにニーナさんの三人だけとなった。もともとこの三人には使用許可が出ているのでちょうどいいだろう。
イルミンに関してはお嬢様と顔合わせする許可も出た。
というわけで恒例のゴブ体実験……もとい秘薬試食試飲会に戻る。
『世界樹の朝露』が『妖精の奇跡』と違うのは個体ではなく液体であるということ。ゴブさんはコップに一口分入ったそれを一気にあおった。そして、「ぎゅえっ」という声とともに、顔を真っ赤にして倒れたのだ。しかも体中から汗が噴き出しながら。厚手の布で拭いてあげたが、汗はあとからあとからあふれてきて止まらない。ようやく汗がひいたころには、ゴブさんの身体は冷たくなっていた。
ここでゴブさんの名を叫んだわけだが、彼はすでに意識を取り戻していた。飽きたと言い放つほど元気のようだ。
「口の中が痛いッス」
「ちっ。元気そうだね。本当よかった」
「最初の舌打ちがすべてを台無しにしているッス」
そんなゴブさんの体を起こし、カカーが作ってきたというカカオマスをなめさせる。
カカオの精霊カカーにカカオマスの加工方法を教えてやったが、たった一度説明しただけで完璧な仕上がりのものを作ってきた。これもカカオの特性をよく知るカカオの精霊だからだろう。このカカオマスに砂糖やミルクを入れてひと手間かければチョコレートの完成である。
さあゴブさん。
お嬢様よりも先に食べられる栄誉に打ち震えるがよい。
「ぐえっぷ」
つぶれたゴブリンみたいな……もとよりゴブリンだが変なうめき声を出したゴブさん。その身体は小刻みに震えている。この震えはお嬢様よりも先に食べさせていただいたという栄誉によるものに違いない。
いっておくが、このカカオマス。砂糖やミルクを入れる前の状態のため、ほぼカカオ百パーセントだ。ざっくりいうと、正直苦くて食べられたものではない。
「ヒーヒッヒッ。それが苦みという味ですよ」
「その笑い、今回もやるッスか?」
ニタリと笑みを浮かべながらゴブさんに苦みという味を教える。
カカオマスを口にしたゴブさんはしぶい顔で僕に目を向けた。
「これは美味しくないッス!」
「この苦みが好きっていう場合もあるんだよ」
「アルクくんも食べてみればいいッス」
「苦いものは食べたくないなぁ」
「自分が食べたくないものをズッ友に食べさせる悪魔がいるッス!」
「やだなぁ。味を知ってもらうためじゃないか。ハッハッハ」
「そのいかにも正論ぶった理由付けをするあたり、実に悪魔っぽいッス」
その後、問答無用でヘレナさんからもらったモルスソースをなめさせたが予想通り辛かったようだ。ゴブさんは、「み、水」と連呼していた。もちろん素直に水を渡す。土中にいる細長いアレでボケようと思ったが、本当に辛そうだったのでやめておいた。
「たくさん汗をかいたようだし、お風呂で試したほうがよかったかもしれませんね」
「先にいうッス。おいら兵舎に戻ってお風呂に入ってくるッス」
「うむ。ゴブリアーノ。おまえの忠義に心から感謝しよう」
「はっ。それでは失礼するッス!」
こうして『世界樹の朝露』によって『苦味』、『辛み』を理解できるようになることがわかった。ゴブさんの献身に感謝だ。ただ『辛み』は『刺激』であり『痛み』だ。本来、味覚とは別のものである。しかし、『世界樹の朝露』のおかげで味覚として理解できるようになっていた。これなら微妙な辛さによる味の変化も楽しめるだろう。
侯爵様御夫妻と選ばれた使用人が飲む『世界樹の朝露』を用意したあと、僕は執務室を出た。
余談だがヨヨさん提供の『妖精の奇跡』は順調に侯爵家使用人へと配られている。おかげで『甘味』を理解できる使用人が増えているのだ。そのせいかヨヨさんにお願いする砂糖と花蜜の量が日増しに増えていた。ヨヨさんがうれしそうでなによりだが、甘いものの食べ過ぎで使用人の平均体重が増えないか心配だ。
さてお嬢様の待つ庭まで戻ってきた。
イーラさんは僕と交代で席をはずしている。
サキの研修準備をするためだ。
その間、お嬢様のおそばにいるのはこの僕の役目だ。
木陰にテーブルを用意しながらおやつの準備をする。お嬢様に待っていただく間、エルフの国についてお話しした。
天まで伸びているような大きな木や世界樹のこと、そして森の中にある街並みなどの話をするたび、お嬢様は目を輝かせておられた。
するとそこへシュリーが遊びにやってきた。定期的に遊びにくるシュリーカー族のシュリーはお嬢様を姉様と慕っている。いつもはキノコの姿だが街にくるシュリーは高位魔族と同じ姿で、お嬢様によく似ている。本当の姉妹といっても通じるだろう。いつも祖父のジュロウさんと一緒に来るのだが、そのジュロウさんは街の薬師と会合があるといってすでにいない。
テーブルの準備も終わり、席についた二人にお茶を出す。そしてエルフの国で作った、とっておきのフロランタンとメレンゲクッキーをお茶請けとしてテーブルの上に乗せた。初めてみるお菓子にエルフの国の話より目を輝かせるお嬢様とシュリー。二人はお菓子を手に取ると、どこかのエルフのように両手で持ってカリカリと食べ始めた。
どうやらフロランタンに使ったアーモンドの香ばしさを気に入ってくれたようだ。二人に咲いた笑顔の花がそれを物語っている。少し固いかと心配したが問題なかったようだ。
「たっだいまー」
「あっ! ヨヨちゃんたちなの!」
「あれ?」
おやつの時間が終わるころ、ヨヨさんたちがお屋敷に戻ってきた。そこにはヨヨさん、ニーナさん、ディーナさんだけでなく、なんとリアルルさんとイルミンの姿もあった。イルミンはリアルルさんとディーナさんの間に並び、二人と手をつないではしゃいでいる。そのはしゃぎかたを見ていると、エルフの森にいるときよりも元気がよさそうだ。
リアルルさんによるとイルミンの引っ越しは数日後の予定だという。今日はイルミンがお嬢様に会いたいということでつれてきたそうだ。
きょろきょろと庭を観察していたイルミンだが、その視線が一点に注がれる。その視線の先にはイスに座ったお嬢様。そんなお嬢様もくりくりっとした大きな目でイルミンを見る。しばらくしてイルミンはリアルルさんたちとつないでいた手を振りほどいた。そして勢いよくお嬢様に駆け寄るとすぐ隣でぴたりと止まる。
「んー♪」
イルミンはうれしそうな声を上げ、お嬢様に抱きついた。
最初は驚いたようなお嬢様だったが、すぐに笑顔を浮かべ、イルミンの頭をなで始める。その二人の姿にイスから飛び降りたのはシュリーだ。シュリーはイルミンの反対側に立つと同じようにお嬢様に抱きつく。もしかして、やきもちだろうか。お嬢様はそんなシュリーの頭も優しくなでるのだった。
「あー、二人ともずるーい」
この声はセイヨウノコギリソウの精霊ヤーローだ。どこからともなく飛んできた彼女はそのままお嬢様の頭に優しく抱きついた。続いてクレベリ、リリィ、ラビーなどが競ってお嬢様に身を寄せる。残念ながらアノリュウゼツランの精霊リュウゼツとカカーはお嬢様に近づこうとしたところを僕が捕まえた。
「カカっ!? 兄貴! なんでおいらたちはダメなんだよ」
「アルクの兄貴。なぜじゃぁ。後生じゃぁ」
「なぜもなにもお嬢様の周りを見てみなさい」
見るとお嬢様の周りはすでにシュリーとイルミンを含む精霊たちでいっぱいだ。お嬢様は、「くすぐったいのー」と笑っておられるが、身動きがとれない状態である。しかもいつの間にか二羽のウサギンがお嬢様の膝の上に座っていた。このウサギンたちは侯爵家の庭に住みついた子たちだ。
「相変わらずティリアちゃんは精霊とウサギンにもてるわね」
「リアルルさんはダメですよ」
「……さすがにそこまで子供じゃないわよ」
「まあ仲良くできそうでなによりさね」
ディーナさんはお嬢様とイルミンを見て苦笑気味に笑った。
僕はカカーとリュウゼツから手を放すと、ヤーローをはじめとする精霊たちを一人ずつ優しく引きはがしていく。精霊たちもお嬢様の迷惑になると思ったのか素直にはがされていった。ウサギンもお嬢様から素直に降りている。まあ足元でごそごそするくらいはいいだろう。
イルミンとシュリーは……別にいいか。
「イルミンちゃんはティリアとシュリーの妹なの!」
「……シュリーにも妹ができたの」
「ん!」
いつの間に話がついたのだろうか。
どうやら三姉妹ということで決まったようだ。いや、ヒミカさんが長女なので四姉妹というべきか。
年齢的には間違いなくイルミンさん(僕より年上)が長女だが、本人は気にしていないようだ。というよりもわかっていないだろう。
「イルミンちゃんはおうじゅの精霊さんなのです」
「ん♪」そうなのです、と答えるイルミン。
僕の知らないところでどんどん姉妹の会話が進んでいく。
「おうじゅって何?」自ら王樹と口にしながら、それが何かを聞くお嬢様。
「んー?」
見る限り、お嬢様は普通にイルミンと会話ができている。
しかし、お嬢様の「王樹って何?」という質問に王樹の精霊であるイルミンはなぜか首をひねっていた。本人もよくわかっていないらしい。
「お嬢様。王樹とは世界樹の中でも特別な木のことですよ」と説明する。
「んー……ん!」
たぶんそう、とイルミンが言った。
「なぜティリアちゃんはイルミンの言葉がわかるのかしら」
ヨヨさんの疑問に僕は毅然として答える。
「お嬢様だからです」
「不思議よねー。ディーナさん」
ヨヨさんはちらりとこちらを見たあと、僕の言葉を無視してディーナさんに話しかけていた。
ぐぬぬ。なんて失礼な妖精だろうか。
「精霊と親和性が高いのはわらわから見てもわかるが、確かに不思議さね」
「お嬢様だからです」
「あっ。執事さん。私もお茶飲みたいなー」とニーナさん。
「……かしこまりました」
「アルクん。エルフの森でもいったけど、執事と呼ばれて納得するの、やめなさいよね」とヨヨさんがため息をつく。
そうだったっけ?
確かに、思い出したように僕を執事扱いするのはいかがなものだろう。いいようにごまかされた気もするが、そんな思いとは裏腹にテーブルセットをもうひとつ用意する自分がいた。きっとこれは職業病というやつだ、多分。
「あら? サキ似合うじゃない」
テーブルセットを用意している途中、聞こえてきたニーナさんの声に振り向くとイーラさんとサキがこちらへと歩いてくるところだった。
「み、見ないでください」
顔を真っ赤にさせたサキの姿はまさにどこからどう見てもメイドだった。紺色を基調としたメイド服に大きな白のエプロンがよく似合っている。足首まで隠すロングスカートはタイトワンピースを着ていたころのサキとは違った雰囲気を出していた。頭の上の白いカチューシャも彼女の青みがかった黒髪によく似合っている。
「あれ? 尻尾は?」
サキに聞くと尻尾は隠すことができるという。それに彼女たちサキュバスはコウモリのような羽を持っているが、角はないそうだ。ちなみに羽も飛ぶとき以外、隠しているそうだ。
「へぇ。そうなんだ」
「アルクくん。じろじろ見過ぎです」
ジトッとした目でイーラさんが僕をにらむ。
だがあまりの変わりように目が離せない。服装ひとつで女性は印象が変わるから不思議なものだ。尻尾を隠している彼女はどこからどうみても悪魔には見えなかった。
(なるほど。これはいろいろな種族の男がだまされるわけだ)
するとイーラさんが僕の視線を遮るように眼前に立った。僕の鼻先と彼女の着るエプロンが今にもひっつきそうなほど近い距離である。イーラさんのエプロンから花の香りが鼻孔をくすぐる。その匂いを感じながら僕は何事かと顔を上げた。
「そういえば今日新しい料理を試すんでしょ。ここは私に任せて。料理長が待っているわよ」
思い出した。
今日はリアルルさんからもらった食材とエルフの森で見つけた食材を使って新しい料理を作る予定だった。
「あっ! そうでした!」
「それと先ほど侯爵様から皆様を夕食にご招待するよう仰せつかっております」
イーラさんが皆に向かって侯爵様からの招待を告げる。
僕は足を止めると皆に声をかけた。
「リアルルさんとイルミンちゃん、ディーナさんもぜひどうぞ! 今日は特別な料理ですよ」
「あら。ではご招待を受けようかしら」
「ん!」
「もちろん受けさせてもらうさね」
「シュリーもぜひ食べていってね。あとジュロウさんが戻ってこられたら伝えてくれるかな」
「……わかったの」
残すはヨヨさんとニーナさんだ。
その二人はイーラさんに招待を受けることを伝えている。
「ありがと。イーラさん」
「ご招待を受けるわね。イーラさん」
(ん?)
不思議なことにヨヨさんとニーナさんはイーラさんに向かってかしこまっていた。そんな二人の態度を見てイーラさんは首をかしげる。
「ヨヨちゃん? それにニーナさんまで。急にどうしたの?」
「なんでもないわ。イーラさん」
「そうよ。イーラさん」
それでも二人は妙に他人行儀だ。
二人に何かあったのだろうか。
「……アルクくん。あとでお説教です」
「なんで!?」なぜか僕に飛び火がきた。
「お姉ちゃんのカンです」
お姉ちゃんのカンでお説教されてはたまらないのですけど。
「そういえばイーラさんってすっごくお強いんです……よね」
「はい?」
そのとき、サキが恐る恐るといった様子でイーラさんに声をかけた。
あっ……そういうことか。そういえば二人にイーラさんのことを説明したんだった。だけど今、それ言ったら誰が話したか丸わかりじゃないか!
それよりもお姉ちゃんのカンが怖い。
「アルクくん。あとでお説教とは別にお話があります」
「サキの研修で忙しいだろうからまた今度にするというのは――」
「大丈夫。サキは飲み込みが早いですから。わかりましたね。アルクくん」
「アッハイ」
にっこり笑ったイーラさんの目は僕の瞳の奥をのぞき込んでいた。少しでも視線をはずそうものなら何をされるかわからない。そんな目だ。僕は彼女の言葉に逆らえず、お話とやらを覚悟した。
そして小走りで厨房へと向かいながら思う。
弟とは姉に勝てない生き物である、と。
「ふわぁぁぁ!」
「……はむはむ」
「んふー♪」
今日の夕食の献立は特別なものだ。
野菜たっぷりのサラダには三賢樹の一人アースガル老からもらったキャベツとトマトを使っている。さらにカモカモの肉のソテーには特製オレンジソースをかけたものをお出しした。これらはエルフの国で手に入れた食材である。
だが! 今宵のメインはサラダでもカモカモでもない。
「ティリア、カレーライス大好きなの!」
「……これはすごいの」
「んーー!」
そう!
今日のメインはカレーである。
リアルルさんのハーブ園でとれた各種香辛料とハーブ。それらを前世の知識から引っ張り出した配合でカレー粉を作り出した。
これぞまさに魔王国初のカレーである。
幾重にも重なった心躍る香りのオーケストラ。煮込まれた具材たちが作り出す深みのある味わい。それらが一体となって食べる者の舌をダンスへ誘う。一口食べたら忘れられない感覚は食べる手が止まることを阻むだろう。
それこそがカレー。
味のまったくわからない魔族でも様々な香辛料とハーブの香りを楽しめる料理。もちろん味が理解できれば最高だろう。だがカレーほど味覚オンチの魔族にふさわしい料理はない。なにせ魔族は見た目と香りしかわからない。だが、カレーは中に入れる具材次第で見た目も変わる。カレーと一緒に煮込まず、カレーの上に具材を乗せてもいい。また香辛料の種類と量で味も香りも自由自在だ。ゆえにカレーは魔族向きの料理なのだ。
カレーはいずれ魔族御用達として一大ブームを起こすだろう。
いや、起こしてみせる。
すでにリアルルさんには今日使った香辛料の増産をお願いした。しかも侯爵領で育てられるよう種もわけてもらっている。
「リアルルから受け取ったあの手提げ袋の中身って香辛料の粉だったのね」
「ええ。そのとおりです」
エルフの国に出発する前にリアルルさんから受け取った手提げ袋。その中身はカレーに使う香辛料とハーブだった。リアルルさんはこれら香辛料のたぐいを種だけでなく何十種類も粉末状にして保管していた。その粉をいくつかわけてもらったのだ。足りない分は新たに加工してもらっている。
今回、カレー粉に使った主な香辛料はターメリックやクミン、コリアンダーなどだ。もちろんほかにも多くの香辛料を使っている。
そしてこのカレー粉で大発見があった。
カレー粉に含まれる魔力が今まで作った料理に比べて、かなり多いことがわかったのだ。恐らく香辛料とハーブをたくさん使った影響だろう。香辛料ひとつひとつの魔力は普通なのだが、カレー粉としてひとつにしたことで相乗効果を発揮していた。その魔力保有量は花蜜以上に豊富な食材となっている。
またカレーに欠かせないものといえばパンとご飯だ。今回はその両方を用意している。
お嬢様、シュリー、イルミンの子供三人はご飯にかけて食べるカレーライスが気に入ったようだ。三人がカレーライスを幸せそうに食べる姿を見たディーナさんは、「わらわのお米が子供たちに大人気さね」と涙ぐんでいた。見た目は幼女のおばあちゃんは水の精霊であるためか、じつに涙もろかった。
今回、カレーはピリッと辛い大人用と甘口の子供用を作った。お嬢様たち子供用には刺激の強い香辛料や辛いトウガラシなどは一切入っておらず、すり下ろしたリンゴと花蜜が入っている。またお嬢様が離乳食期ということもあり、具は細かく刻んでおいた。
三人とも小さなスプーンを握りしめ、お口いっぱいになるまでカレーをほおばっている。「カレーは飲み物」なんて言葉が前世にあったが、まさにその言葉通りの光景が目の前に広がっていた。
「ティリアちゃ~ん、シュリーちゃん、イルミンちゃ~ん。カレーは逃げないからゆっくりかんで食べなさ~い」
「はいなのー」
「……はいなの」
「んー!」
奥様の一言で落ち着いたのだろう。
三人は返事をしたあと、ゆっくりかんで食べ始めた。たまに口に運ぶ手の動きが早くなってしまうのはご愛嬌だ。
「シュリーたちの食べっぷりがいいのぅ」
ジュロウさんも孫たちの食欲を見て、実にうれしそうだ。小さな子がたくさん食べている姿を見ると、なぜか心が温まると彼はいった。侯爵様夫妻もその言葉にうなずいている。
「このカレーとやらは『辛み』という刺激があるからだろうか。野菜の甘さがひときわすばらしく感じる。それにこの幾重にも感じる香りはどうだ」
「本当ね~。とても素敵な料理だと思うわ~。それに含まれている魔力もすごく多いわね~」
「もっと辛くてもいいな」
「私はこれくらいの辛さでいいわ~」
侯爵様御夫妻からの評判も上々だ。なにより高位魔族のお二人が味について話をされているのだ。その言葉を聞いたお嬢様は僕を見てうれしそうに笑った。それは僕を褒めてくれたかのような微笑みだった。
「カレーは味のわからない魔族にぴったりな料理ではないだろうか」
「はい、侯爵様。僕もそう思います」
侯爵様もカレーの見た目と香りが魔族に合うことに気づかれた。カレーの価値を侯爵様がお認めになられたのだ。これなら魔族社会にカレーが広まるのは確実だろう。
また侯爵様御夫妻が『辛さ』について語られているのは、すでに『世界樹の朝露』を口にされたからだ。ほかにもセイバスさんら選ばれた使用人の皆も『世界樹の朝露』を試している。そのおかげでカレーに含まれるトウガラシの辛みを感じることができているのだ。
「そういえばアルク。店の名前は決まったのか?」
水代わりのワインを飲みながら侯爵様が尋ねられた。
店といえばニーナさんを店長とする『妖精の祝祭』の第一号店だ。すでに店舗は完成し、内装もすでに完成している。あとは看板をかけ、商品を並べるだけだ。
「いえ。それがまだ……」
「そろそろ決めないといけませんよ」とセイバスさんがいう。
「はい。おっしゃるとおりかと」
そう答えながら店長であるニーナさんを見ると、彼女はモルスソースをカレーにこっそり混ぜながらパンをひたして食べている最中だった。あわててパンを飲み込んだ彼女は口を拭いてから返事をする。
「妖精の八百屋でいいのではないかしら」
「むしろ八百屋でいんじゃない? 覚えやすいし」
ニーナさんの提案に対し、ヨヨさんは単純な名前でいいという。
するとカレーを食べ終わったお嬢様が手を挙げた。
「どうされましたか。お嬢様」
「おいしいものがいっぱいある八百屋さんがいいの!」
「ティリアちゃんにとっておいしいものがたくさん置いてあるお店に違いはないさね」とディーナさんが笑った。
今のお嬢様の提案はお店の名前なのだろうか。
しかし売っている商品のコンセプトはわかりやすい。名前に使うには少々長いが、さすがはお嬢様である。
「じゃあ八百屋『おいしい』でどうかしら」
ニーナさんがそう提案したがさすがにその名前はどうだろうか。
確かに『美味しい』という言葉は魔族にとってまず耳にしない言葉だ。だからこそ覚えやすいかもしれない。
だが少し安直すぎる。センスというものが足りな――。
「八百屋さんが『おいしい』ってかわいいのー!」
すばらしいです、お嬢様。
抜群のネーミングセンスでございます。
それ以外の名前なんて却下です、却下!
「ねえ。見た? ニーナが店の名前をいった途端、アルクんが渋い顔をしたの。ところがティリアちゃんが褒めた途端、満面の笑みよ?」
「アルクくんだからしょうがないわよ」
「何を言っているんですか。八百屋おいしい。すばらしい名前です」
「アルク。そこはもう少しひねってもいいんだぞ?」
侯爵様が困ったような顔で僕とティリアお嬢様を見る。
どうやら侯爵様的には違う名前を推奨したいようだ。
「八百屋おいしいがいいの! おいしくないのはだーめなの! おいしいの! おいしーほうがいいの!」
ずいぶんとひさしぶりにお嬢様のわがままを聞く気がする。どうやら本当においしいという名前が気に入られたようだ。
しかし、どうしたものだろうか。
「あれ? 意外といいじゃない」
ヨヨさんとニーナさんが互いにうなずき合った。
「どういうことです?」
「八百屋オイシー、オイシー八百屋って名前はどう?」
「あー、なるほど」
それなら人物名にも聞こえるし、響きもいい。意味としては美味しいに通じている。侯爵様もうなずいているし、お嬢様は満足げだ。シュリーは、「さすがは姉様」とお嬢様を尊敬の目で見ているし、イルミンは、「おいしー、おいしー」と連呼している。
連呼……している?
「「「イ、イルミンがしゃべったぁ!?」」」
僕、ヨヨさん、ニーナさんの声がハモる。
「んーー!」そして最近聞いたような抗議の声をあげるイルミン。
「あらまあ。魔王国に来てからまだ数時間しか経っていないさね」
「ちょっと早すぎない?」と驚くリアルルさん。
「多分、カレーの効果もあると思いますよ」
そう答えると侯爵様と奥様もまた僕の言葉にうなずいておられた。
「確かにカレーに含まれている魔力は今までの料理の中でも多い。イルミン殿のことはアルクから聞いているが、これならすぐに声を取り戻せるだろう」
「また一緒にお食事しましょうね~。リアルルちゃん、イルミンちゃん~」
「あ、ありがとうございます。奥様」
「ん!」
魔力が豊富な魔王国に来て、魔力たっぷりのカレーを食べた。さらに子供用カレーは魔力豊富な花蜜入りだ。そのおかげか、たった数時間でイルミンが簡単な言葉をしゃべれるようになった。もしそうならカレーの力はすごい。例えそれが言葉の意味もわからず、真似しているだけだとしてもすごいことに変わりはない。
「さぁてお嬢たち。デザートを持ってきたぜぇ」
食堂にやってきたのはレイゴスト料理長。
今日も相変わらず元気に半透明だ。
そして彼の言葉遣いに対するセイバスさんの短いため息も相変わらずだった。
「こ、これは!?」
甘口であってもカレーが食べられないヨヨさんの前にデザートが置かれる。
細かい意匠のほどこされた透明なデザートグラスには半球状の物体が二つ重なるように乗っていた。ひとつは乳白色、もうひとつは美しいオレンジ色だ。乳白色のほうには緑色が鮮やかなミントの葉が飾られ、その隣には薄茶色の焼き菓子が並べられていた。
「本日のデザートは冷たくて甘いお菓子の代表作。バニラアイスクリームとオレンジのシャーベットにございます。付け合わせのウエハースと一緒にお召し上がりください」
デザートにお出ししたアイスクリームとシャーベットの作り方は簡単だ。『執事コンテナ』と併用すると冷凍庫が作れる執事魔法『執事氷室』に材料を入れておくだけ。材料が固まったらレイゴストさんの念動力によって球状にくりぬき、半分にカットして盛り付ければ完成だ。球状のままでないのは食べるとき滑らないようにするためである。
「冷たくて甘いお菓子!」
ヨヨさんの目が怪しく光った。それはまるで暗闇の中、息を殺し、物陰に潜む糖食生物だ。夜な夜な砂糖をかじるこの生物にあったら最後、手持ちの甘味はすべてなくなると覚悟したほうがいい。
「あいすくりーむ?」
三姉妹がそろって首をかしげる。それも皆、同じ方向に。
そんな彼女たちを全員がほっこりとした顔で優しく見つめる。イーラさんに至ってはいつものようにクネクネし始め、その姿を見たサキが三姉妹に続いて首をかしげる。そして僕を見ながら、「真似しなきゃダメなんですかぁ」と涙目で訴えてきた。
僕は横に首を振り、「絶対真似だめ」とサキに目で訴えるのだった。
そんなサキはメイドとしてイーラさんの補佐をしている。料理の乗ったワゴンを運んだり、水を注いだりする係だ。今のところ一生懸命頑張っており、失敗もない。むしろ初めてにしてはなかなか堂に入っていた。思った以上に優秀なようだ。
「スプーンですくって食べてくださいね」
お嬢様たちは言われたとおり、アイスをすくって口に運ぶ。その途端、三人ともが目を閉じながら顔をきゅっとしかめ、ぷるっと震える。その仕草がまたそろっていたことからイーラさんのクネクネがさらに激しさを増していた。
「わぁ♪ すごいの! 冷たくて甘くておいしいの!」
「……これは好き。ウエハースと一緒だとさらに好き」
「おいしー♪ おいしー♪」
今まで以上にいい反応だった。
冷やしたお菓子はプリンなどで経験されているが、アイスほど冷たいお菓子は初めてのはずだ。最初こそアイスの冷たさに驚いていたお嬢様たちだったが、今ではすっかり慣れたようだ。よく見ているとお嬢様はバニラだけを最初に、シュリーは交互に、イルミンは規則性なく思うがままアイスを食べている。息の合う仕草を見せる三人だが食べ方は違うようだ。実に楽しい発見だった。
「今からの季節にちょうどいいデザートね~。私、アイス好きよ~」
「ティリアもアイス大好きー♪」
奥様の言葉にお嬢様は、「むふー」と鼻息を荒くする。
ただアイスを食べ過ぎてお腹を冷やされては大変なので気をつけておこう。しかし、問題がある。お嬢様から、「アイスちょーだい♪」と言われたとき、執事として断れるだろうか。執事でなくてもあらがえる自信がない。
「うむ。アイスの甘さが口の中をいやしてくれるようだ。ただシャーベットは微妙に味がわからんな」
侯爵様が苦笑するのも無理はない。
オレンジシャーベットは甘酸っぱいため、『酸味』がわからない今の侯爵様では正しい味を感じることができない。それにバニラアイスに比べ、甘さも控えめだ。
侯爵様御夫妻やお嬢様のためにも『酸味』が理解できるようになる秘薬をいち早く見つけなければならないだろう。
「アルクちゃん。アイスの種類はほかにもあるの~?」
「はい。様々な種類がございます。それにシャーベットも使う果物で色や味が変わります」
「あら~。それはすご~くたのしみだわ~」
「むぅ。アイスにシイタケを入れると格別な味になる気がするぞ」
「……じいじ。作って」
「うむ。そうじゃな。それにはまずアルク殿の魔法が必要じゃな」
実際、しいたけをアイスにしたものが前世にあった。残念ながら食べたことはないがシイタケ好きなら喜んで食べてくれるだろう。
「シイタケの人工栽培が成功したらお祝いに作りますよ」
「なに! 本当か。今のところ順調だからのぅ。シイタケアイスもらったぞ」
「……じいじ。ないす」
シュリーカー族って本当にキノコ大好きだな。
人工栽培が成功したら、干しシイタケの作り方も教えてあげなきゃ。
ん? そういえば糖食生物ヨヨゴンがずいぶんと静かだ。
気になってテーブルの上を見ると、そこには頭を抱えるヨヨさんの姿があった。
「どうかしましたか」
「これからデザートにアイスを食べようか、プリンを食べようか、悩みすぎて頭が痛いのよ」
「冷たいものを一気に食べると頭が痛くなりますけどね」
「その痛みもあるわ」
「……誰も取りませんから、ゆっくり食べてください」
「ありがと。でも本当に悩むわね」
そういいながらヨヨさんは大きな口をあけてアイスを食べるのだった。
「んー。冷たくて甘いわ。アイスって最高ね!」
「おいしー♪」
その言葉に賛同するかのようにイルミンが笑った。
こうしていつもより賑やかだった夕食は大好評のまま、笑顔とともに終わりを迎えるのだった。
夕食後、部屋に戻り、明日の準備を進める。
明日は龍族の国に旅立つことになる。
目的は残り三つの秘薬の名前と持っている種族を聞くこと。それに魔力回復薬のこと。最後に幽霊族に味が理解できる薬を摂取させる方法だ。
すでに準備も完璧。防寒具も用意した。
さぁ今日は早く寝ることにしよう。
だがそれが甘かった。
扉をノックする音が部屋の中に響く。
「アルクくん。お説教がまだ終わっていませんよ」
「ふぁっ!?」
夜は続く。
明日の日の出は遠いようだ。




