ほつれた糸 -1-
【今回のお話】
ニコが意外な特技を披露する回です。
なお、また今回も余計ないたずらをしています。
それに気づいたのは、ダリオが煙草へ火をつけようとして、窓際で右腕を持ち上げたときだった。
「あ」
背後から聞こえた声に、咥えた煙草の先へ火を寄せかけていたダリオが振り返る。
「なんだ」
「教官、それ」
「それってなんだよ」
「腕、腕」
言われるまま自分の腕へ視線を落としたところで、ダリオには何のことかわからなかったらしい。眉間へいつもの皺を寄せ、黒い上着の袖を眺めている。
ニコはソファの背凭れへ顎を乗せたまま、その様子をぼんやりと見ていた。
黒い長袖の上着は、もうずいぶん長く着ているものだった。
厚手の生地は何度も洗われて少し柔らかくなり、肘のあたりには曲げ伸ばしを繰り返した皺が馴染んでいる。
その右袖、肘より少し上。
縫い合わせの一部が解け、二センチほど口を開けていた。
「ほつれてる」
「ああ」
「ああ、じゃなくて」
「着られるだろ」
「今だけならね」
ニコはソファの背凭れへ預けていた身体を起こした。自分の家でもないくせに、すっかり馴染んだ場所から立ち上がる動きに遠慮はない。
昨夜の任務を終えてからそのままついてきて、ダリオに食事を作らせて食べ、シャワーを借りた。その後も結局、帰るのが面倒になったと言って居座っている。
ダリオも最初こそ帰れと言っていたものの、ニコがソファへ転がっていても追い出そうとすらしない。
ニコは裸足のまま床を歩き、ダリオのそばまで来ると、煙草を持っていないほうの腕を勝手に取った。
「こ、こ、だよ」
指先で、開いた縫い目をつまむ。
こうして触ると、改めて大きい。ニコの指では腕を一周するどころか、半分にさえ届かない。
昔から大きな男だったという記憶はあるし、いまさら驚くようなことでもないのに、たまにこうして手を触れると、身体の大きさというものは妙に具体的になる。
その太い腕に巻きつく黒い布だけが、ほんの少し裂けていた。
「あーあ。これ広がるよ?」
「広がったら捨てるからいいんだよ。古いしな」
「もったいな。まだ着られるじゃん」
「お前がさっき今だけならっつったんだろ」
「だから、直せばいいでしょ?」
ニコは縫い目をつまんだまま、顔を上げた。
「貸して」
「何を」
「これ」
「だから、どうすんだよ」
「直すんだってば」
少し丸くなったダリオの目が、眼鏡越しに、ニコの顔を見る。
ほんの数秒だったが、その沈黙が何を意味しているのかくらい、ニコにもわかった。
「……お前が?」
「なにその顔。失礼じゃない?」
ニコは口を尖らせた。
「俺だって裁縫くらいできるよ」
「初めて聞いたぞ」
「聞かれてないもん」
「お前が針持ってるところなんか見たことねぇ」
「教官の前でやったことないだけだし」
それを言われれば、ダリオにも返す言葉がない。
ニコはその隙を逃さず、袖を引っ張った。
「ほら。はやく脱いで」
ダリオは結局、咥えていた煙草を箱へ戻した。
肩を揺らして上着を脱ぎ、ニコへ差し出す。受け取ったニコは、それを両腕へ抱えるようにしてソファへ戻った。
大きな男の上着はニコの膝へ広げるとやけに場所を取り、黒い布地の向こうから覗く細い脚が、余計に頼りなく見える。
「っていうかさ、裁縫道具ある?」
「なんで俺の家にある前提なんだ」
「え、ないの?」
「……そのくらいあるに決まってる」
「あるんじゃん、なんなの」
ダリオが棚を開け、小さな箱を取り出した。
蓋を開けると、糸巻きと針と予備のボタン、安全ピンやら何に使ったのかわからない紐やらが、適当にひとまとめにされている。
ニコは中を覗き込んで、わざとらしく眉をひそめた。
「教官、こういうとこ雑だねぇ」
「お前にだけは言われたくねぇ」
「俺はちゃんとわかってるよ。必要なものがどこにあるか」
「昨日、家の鍵どこやった」
ニコの手が止まり、へらりと笑みが浮かぶ。
「……今それ関係なくない? 見つかったからいいじゃん」
「俺が見つけたんだろうが」
「じゃあ教官が場所わかってたってことでしょ」
「お前の鍵だ」
「あ、黒い糸あったぁ」
「話逸らしやがって」
聞こえないふりをして、ニコは黒い糸を取り出した。
それから何本かある針を眺め、その中から一本を選ぶ。
窓から差し込む薄い朝の光へ針穴を翳し、糸の先を指で撫でて整えると、ほとんど迷うことなく一度で通した。
必要な長さを見当で引き出して切り、端へ小さな結び目を作ると、膝の上に広げた上着を裏返す。
裂けた部分を探し、周囲の縫い目を指先で確かめて。解れた糸だけを丁寧に取り除いていく手つきには、迷いがなかった。
普段のニコの指は、落ち着きがない。
カメラを弄っているか、ポケットの中を探っているか。何もなければ机の端を叩いている。
ダリオの煙草を一本抜き取ろうとして手の甲を叩かれることもあれば、どこから拾ってきたのかわからない紙切れを、折ったり開いたりしていることもある。
けれど、針を持った指は、やかましくない。
布の端と端を合わせ、ずれないよう親指で押さえながら、元の縫い目の少し内側へ針を入れる。
表へ出して、引いて。また裏へ返す。一定の間隔で、小さな針目が並んでいく。
「……お前」
「んー?」
「本当にできんだな」
ダリオの声にニコの手がぴたりと止まり、ゆっくりと顔を上げる。
「だからぁ、できるって言ったじゃん」
「そうだな」
「信じてなかったんでしょ」
「半分くらいな」
「ひど」
言いながら、口元は少し緩んでいる。
まだ、褒められたわけではない。「できるらしい」と認められただけだ。それでもニコは、どこか機嫌をよくしたように再び針を動かし始めた。
それを見ながら、ダリオは自分でも妙な気分だった。
ニコに何かを教えたことなら、いくらでもある。
食事を抜くな、眠れるときに眠れ。任務に出る前に装備を確認しろ、帰ったら怪我の有無を確認しろ。
銃の扱いも、現場での立ち回りも、まだニコが今よりずっと小さかったころから、必要になるたびに一つずつ叩き込んできた。
だからこそ、自分の知らないあいだに覚えたものを、こうして目の前で使っているニコを見ることは、思っていたより妙だった。
「どこで覚えた」
「んー……、わかんない」
針を動かしながら、ニコは考える。ほとんど、考えているふりだった。
「覚えてねぇのか」
「うん」
「誰かに教わったとか」
「それも忘れた」
何でもないことのように言うので、ダリオも、それ以上は聞かなかった。
覚えていないものを無理に掘り返したところで、出てくるものではない。それはもう、ずっと前から知っている。
「でも、手は覚えてるから」
ニコは縫い目へ視線を落としたまま言った。
「できるならいーじゃん」
「そうだな」
ダリオは短く返す。誰に教わったのかも、いつ覚えたのかも、最初に何を縫ったのかも、ニコの中には残っていない。それでも指は知っている。
布をどの程度重ねればいいのかも、糸を強く引きすぎれば縫い縮みが起きることも。どこへ針を入れれば表側へ余計な糸が見えないのかも。
失くした記憶のあとに、技術だけが残っている。ニコはそれを、不思議がりもしない。
やがて最後の一針を通し、裏側で糸を小さく結んだ。
余った糸を指へ絡めると、そのまま顔を近づけたので、ダリオが眉を寄せた。
「歯で切るなよ」
「……なんでわかったの?」
「やる顔してたからな」
唇の隙間から、小さな八重歯が覗いている。どうやら普段なら、本当にそのまま糸を引っかけて切るらしい。
ニコは少し考えたあと、口元まで持っていった糸を離した。
裁縫箱の中を探り、小さな鋏を取り出す。結び目を傷つけないよう、ぎりぎりのところへ刃先を寄せて、余った糸だけをぷつりと切った。
「自分のもそうしろ」
「自分のは別にいーの」
「何が違う」
「これは教官のだからね、ちゃんと鋏で切ってあげるよ」
ニコは、ごく当たり前のことのように答えた。縫った部分を指の腹で何度か撫で、それから満足したように上着を持ち上げる。
「はい」
受け取ったダリオは、上着を表へ返した。裂けていた場所を見るつもりだったのだ。
「……どこだ」
「え?」
「縫ったとこ」
「そこ」
ニコが指差す。
ダリオは目を細めたが、すぐにはわからなかった。
元の縫い目に沿うように糸が通され、布の端もきちんと内側へ収まっている。引っ張ってみても妙につれることはなく、裏側を見なければ、補修したことすらほとんどわからない。
「上手でしょ」
ニコのその声は、いつも以上に明るく、得意げだった。
「ああ。上手いな」
「…………」
案外素直に返されて、ニコは黙った。
「なんだよ、自分で聞いたんだろ」
「いや、……聞いた、けど」
ニコは瞬きをして、ほんの少し顎を上げる。
口元が、ふふん、と緩んだ。
「もっと褒めていいよ」
「調子乗んな」
「えー。綺麗にできてるじゃん」
「できてるな」
「ほらね、教官より上手でしょ。じゃあ俺の勝ちね」
「何の勝負してんだよ」
勝手に勝敗を決めて、ニコは満足そうに裁縫箱の蓋を閉めた。
そのままテーブルの上へ置いて、ソファへ戻って、横になる。
「おい、片づけろ」
「んー? 教官やっといて。俺、服直してあげたじゃん」
「それとこれとは別だろうが」
「疲れたの。集中したから」
「知らねぇよ」
結局、裁縫箱を棚へ戻したのはダリオだった。
ニコはそのあいだにソファへ完全に身体を横たえ、クッションを抱き込んでいる。
さっきまでの器用な指先はどこへ行ったのか。
それでも、ダリオが上着へ袖を通しているのを見ると、眠そうな目だけがこちらへ向いた。
「どう?」
「何が」
「腕」
ダリオは右腕を曲げ、伸ばす。
問題ない。
「平気だ」
「でしょ」
ニコは目を細めて笑った。
「また破れたら俺に言ってね。捨てる前に俺に見せて」
「なんでだよ」
「直せそうだったら直すから」
「……お前な」
「俺、上手いでしょ?」
またそれだ。
ダリオは呆れたように息を吐いた。
「わかったよ」
「なにが?」
「何かあったらお前に見せる」
ニコの目が、少しだけ丸くなる。
それからすぐまた細くなって、笑った。
「うん」
その日のニコはずっと、機嫌がよかった。




