甘えていいよ -2-
「エルザおねーさんただいま」
翌日の夜。
口調は軽いながらも、《夜番》本部へ戻ってきたニコの顔から、昨夜のふざけた気配はすっかり消えていた。
黒い夜番の装束には、外気の湿り気がまだわずかに残っている。肩へ掛けた装備を外し、濡れた前髪を無造作に掻き上げながら、まず《黒鐘》の隊長であるエルザへ帰還を報告する。
巡回経路、夜喰いとの遭遇の有無、装備の損耗。
必要な事項を順に伝え、記録を提出する。
それから今夜、巡回先で見つけた痕跡のうち、一件だけ。
隊監側へ直接上げておくべきものがあった。
エルザへの報告を終えたニコは、別にまとめておいた記録を片手に、衝立で仕切られたダリオのデスクへ向かった。
書類を運ぶ者。別の隊から上がった報告を整理する者。
低い話し声と紙をめくる音が、夜更けの室内へ絶え間なく流れていた。
その奥、ひときわ大きな身体を机へ収めるようにして、ダリオが書類へ目を落としている。
「教官。ちょっといい?」
声を掛けると、ダリオは顔を上げた。
「ああ」
ニコは机の前まで行き、持っていた記録を差し出した。
「東二区。旧水路の入口で残滓を見つけた。夜喰い本体は確認できてない。エルザおねーさんには報告済みだよ」
ダリオの手が伸び、大きな指が書類を受け取って、数枚を順にめくった。
ニコはそのあいだ、ふざけることなく立っている。
「発見時刻は」
「二十三時十七分。最初に見つけたのは俺。そのあと周囲を二十分確認したけど、動きはなかった」
「音は」
「なし。人が通った形跡もなかったよ」
ニコは一枚の写真を抜き、机へ置いた。
「これが見つけた直後。こっちが十五分後」
もう一枚。二枚を並べ、指先で一点を示す。
「広がってない。だから、その場に潜んでるっていうより、通ったあとだと思う」
ダリオの視線が、写真からニコの顔へと上がった。
「根拠はそれだけか?」
「ううん。こっち」
ニコはするりと指を滑らせ、別の写真を寄せる。
「残り方が偏ってる。奥から入口側に向かって薄くなってるから、たぶんこっちへ抜けてる。明日もう一度見たほうがいいと思う」
「わかった」
短く返し、ダリオは写真をまとめた。
「記録は預かる。明日の巡回経路はエルザと詰めろ」
「了解」
ダリオは知っている。
ニコは、決して仕事のできない男ではない。
普段の生活がどれだけ危なっかしかろうが、腹が減るまで食事を忘れようが、自分の前でどれだけ気を抜こうが、それと任務中の判断力は別だ。
見るべきものを見て、残すべきものを残す。必要なら自分で考え、自分の判断を口にする。
それができるからこそ、夜の現場へ出している。
「以上。じゃ、俺は戻るねぇ」
報告を終えた途端、声から力が抜けた。いつものニコに戻っていく。
「ああ。ご苦労」
「はーい」
ひら、と手を振り、ニコは踵を返した。今度こそ仕事は終わり、といった態度だった。
その背中を見送り、ダリオは受け取ったばかりの写真へ視線を戻した。
けれど少しして、再びニコの軽い足音が近づいてくる。
ちょいちょい、と肩をつつかれ、ダリオは眉を寄せる。
「……なんだ」
顔を上げると、ニコがすぐそばまで戻ってきていた。用件なら、たった今すべて聞いたはずだ。
「まだ何かあったか」
「んーん」
「じゃあなんだ」
ニコは答える代わりに、机の脇へ一歩入り込む。
座っているダリオと、立っているニコ。普段なら大きなはずの身長差が、そのときだけ縮まる。
それでもニコは、ほんの少し踵を浮かせ、片手をダリオの大きな肩へ添えた。
「おい」
何をする、と言い終えるより早く。柔らかな髪が頬のすぐそばを掠めた。
耳へ、吐息が触れるほど近く。声を落として。
「……また、あかちゃんにしてあげるね?」
ダリオの眉が、ぴくりと動いた。
昨夜。赤い髪を撫でながら、楽しそうに笑っていた顔が脳裏へ蘇る。
よりにもよって、ここで、勤務中に。
「お前――」
ニコはすでに身体を離していた。淡い青緑色の瞳を、心底楽しそうに細める。
「またいっぱいしよ」
「…………」
「じゃねー」
ニコは捕まる前に身体を離し、ひらひらと手を振って、今度こそ衝立の向こうへ消えていった。
残されたダリオは、しばらく動かなかった。
やがて深く息を吐き、片手で眉間を押さえる。
声は外まで届いていない。その程度の分別は、どうやらあったらしい。
問題は、業務上の用件を終えたあと、一度立ち去ったはずの部下が、わざわざ戻ってきて隊監の衝立へ潜り込んだことだった。
しかも、やけに機嫌のいい顔で出ていった。
少しして、ニコの直属の隊長であるエルザが報告にやってきた。
状況の共有を終えたエルザは、いつものように落ち着いた表情のままでダリオに呼び掛けた。
「……ヴァレンティ隊監」
ダリオは書類へ視線を戻したまま答える。
「なんだ」
「ニコが必要もなくうろついているのには、私も責任がありますが、公私混同しないでくださいね」
一切の好奇心を含まない、平坦な声だった。
何を話していたのか、何をしていたのか。そんなことを聞くつもりはないらしい。ただ、言う必要があるから言った。それだけだった。
ダリオは数秒黙ったあとで、無表情を装って答えた。
「……検討する」
「お願いします」
足音が遠ざかっていく。ダリオはもう一度、眉間を押さえた。
ここは《夜番》の本部で、自分は勤務中で。周囲にはまだ人がいる。
聞こえてはいないはずだ。少なくとも、あの馬鹿もそれくらいは考えたから、わざわざ耳元まで寄って囁いたのだろう。
「…………」
そういう配慮ができるなら、場所まで選べ。
次にニコに会ったら、一度きっちり言っておく必要がある。
◆
その夜、ようやく仕事を終えて自宅まで戻ったダリオは、扉を開けたところで足を止めた。
灯りがついている。
嫌な予感がした。いや、もはや予感と呼べるほど不確かなものでもない。
靴を脱ぎ、リビングを覗く。
「おかえりー」
案の定、ソファの上にニコはいた。数時間前、本部でとんでもない置き土産をして消えた男が、どういうわけか家主より先に帰宅している。
そのうえ、ダリオのシャツを勝手に着ていた。
サイズが合うはずもない。肩は落ち、袖は指先をすっぽり隠している。裾もニコが着れば妙に長く、薄い身体が布の中で遊んでいた。
その格好のままソファへ横向きに寝転がり、床へ何枚もの写真を広げている。
「教官、遅かったね」
ダリオは無言で上着を脱ぎ、椅子の背へと掛けた。ソファへ向かって歩いていくが、ニコはまだ危機を察していない。
近づいてくるダリオを見上げながら、不思議そうに瞬きをした。
「なに?」
ニコが問うが早いか、大きな掌が、がし、とニコの頭を掴んだ。
「いだだだ! なに!? 痛いって、教官!」
「お前、本部で余計なこと言いやがって」
「あれ誰にも聞こえてないよ、ちゃんと小さい声で言ったじゃん!」
「そういう配慮ができるなら場所も選べ、バカタレ」
「いだ、いたいって! 頭ちっちゃくなっちゃう」
「少しは中身が詰まっていいんじゃねぇのか」
「ひっどい!」
ようやく解放され、ニコは両手で頭を抱えた。
細い指でぐしゃぐしゃになった髪を押さえ、恨めしそうにダリオを見上げる。
「もう。せっかく帰ってきてあげたのに」
「頼んでねぇ」
「ごはんも待っててあげたのに」
「それは俺に作らせるためだろうが」
「うん」
「堂々と言うな」
ダリオの深い溜息が落ちた。昨夜「今日は俺がやってあげる」などと、偉そうに頭を撫でていた男と同一人物とは、とても思えない。
数時間前まで、夜の街では冷静に痕跡を読み、写真を撮り、必要な情報を選び。自分の判断まできちんと隊監へ報告していた男とも思えない。
仕事はできる。できるはずなのだ。少なくともダリオは、それを誰より知っている。
なのに自分の前へ来ると、どうしてこうなる。
ニコはまだ頭を擦っていたが、やがて、ふと思い出したように顔を上げる。
「でも教官さ、昨日、かわいかったよ。ほんとに」
「ニコ」
「はい」
ニコはまたへらへらと笑っていたが、今度は「あかちゃん」とは言わなかった。
ソファの上から、ダリオを見上げている。さっきまでの悪戯っぽさが、ほんの少しだけ薄くなる。
「また甘えてね」
ダリオは黙った。冗談にしては、ニコの目が素直すぎたのだ。
からかっているだけなら、もっとにやにやしているし、逃げる準備をする。怒られそうになれば、すぐにもっと笑って誤魔化す。今はそのどれとも違っていた。
「俺、あれ好きだった」
「……そうかよ」
「うん」
ニコは袖の中へ半分埋まった手を眺めながら、ぽつりと続けた。
「俺、いつも教官にしてもらってるじゃん? だから、たまには俺がやるのもいいなって思った」
その言葉だけは、ふざけていなかった。
してもらってもいい。嫌じゃない。教官がしたいなら。
以前なら、そんなふうに自分の欲求を相手へ預けていた男が、今は、自分から「俺がやりたい」と言う。
まだひどく拙い形ではあるけれど、それでも、自分から誰かへ何かを渡そうとしている。
「……教官?」
「なんでもねぇ」
「ふーん」
ニコはそれ以上追及することなく、またソファへごろりと寝転がる。
大きすぎるシャツの裾がずれて、細い脚が覗いた。
「だからさ、またしようね」
写真を一枚摘み上げながら、何でもない調子で言うニコに、ダリオは返事をしなかった。
黙ったままで、キッチンへ向かう。背後ですぐに衣擦れの音がした。
「あ、教官。ごはんつくるの? 今日何?」
「食わせねぇぞ」
「えー!」
不満そうな声が飛んでくる。
冷蔵庫を開けて。こいつに「なんもない」と文句を言われた中身を眺めて、作れそうなものを考える。
結局、昨夜は自分を甘やかすと言っていた男に、今日も飯を作ってやることになるらしい。
「肉ある?」
「あるって言っただろ」
「やった」
「手伝わねぇと食わせねぇぞ」
「やる、やるって」
ぱたぱたと足音が近づいてくる。
どうせ追い出されないことも。腹が減ったと言えば、最後には何か出てくることも。
この家のどこに何があるのかも、ニコはきっと、もう全部知っている。
そしてダリオも、勝手に鍵を使って、勝手に服を借りて、勝手に帰ってきたと言って。
当然のように「おかえり」と迎えるこの男を本気で追い出すつもりなど、最初からなかった。




