甘えていいよ -1-
【今回のお話】
いつも教官に世話を焼かれているニコが、今日は自分が甘やかしてあげようと思い立ちます。
ニコはどうやら、教官を赤ちゃん扱いしてあげたいようです。
恋人になったあとの二人のお話。
その日は、二人とも非番だった。昼をとうに過ぎた頃、ようやく目を覚ましたニコが、空腹だけを理由にダリオの部屋へ転がり込んできた。
合鍵で勝手に扉を開け、挨拶より先に冷蔵庫を覗き込み、「なんもない」と文句を言う。昨夜のうちに買い足しておかなかった自分のことは、棚に上げているらしい。
「卵も肉もあるだろうが」
「そのまま食えないじゃん」
「お前は料理という工程を何だと思ってる」
「教官がやるやつ?」
「帰れ」
「やだ。おなかすいた」
結局、追い出されることはない。ダリオが手早く作ったものを食べ、腹が満ちれば、今度はソファを占領する。夕方になる頃にはカメラの中身を眺め始め、いつ撮ったのかもわからない写真を床へ広げていた。
夜になっても帰る気配がないので、ダリオもいちいち聞かなかった。
そうして、いつものように一日が終わるはずだった。少なくともニコは、そう思っていた。
◆
「……教官」
「なんだ」
「今日さぁ」
ニコは寝台へ半ば沈みながら、困ったように眉尻を下げた。
「なんか、そこ好きだね?」
「…………」
返事はない。代わりに、視界の下で赤い髪が揺れた。
普段なら見上げることのほうが圧倒的に多い頭が、今は自分の胸元へ伏せられている。
今日のダリオは、妙にそこへ執着していた。
「ねえ」
「うるせぇ」
「だって、さっきからずっとじゃん」
「嫌ならやめる」
「嫌とは言ってないよ」
そう答えると、ダリオの動きがわずかに止まった。
いつもなら、ここで顔を見る。
本当に嫌ではないのか。無理をしていないか。またいつものように「別にいい」で、自分の意思を他人へ放り投げていないか。
そういうところだけは、鬱陶しいほど細かく確かめる男だった。けれど今日は、どうにも様子がおかしい。
ニコはしばらく黙って、すぐ近くにある赤毛の頭を眺めた。
大きい。当たり前のことなのに、こうして上から見ると妙に新鮮だった。
肩も、背中も、自分とはまるで違う。寝台の上へ身を屈めていてなお、厚い肩の線には男の身体の大きさがそのまま残っている。
普段はその身体に覆われれば、自分のほうがすっぽりと影へ入ってしまう。その男が今は、ニコの胸元へ顔を伏せている。
なんだか、ちょっとだけ。
「……ふふ」
「何笑ってんだ」
「べつに?」
ニコは片手を持ち上げて、ダリオの赤い髪へ指を差し入れる。
指のあいだを通る髪は、思ったより少し硬い。ゆっくり梳くように撫でてみたが、ダリオは嫌がらなかった。
払い除けることも、顔を上げることもしない。それが妙に面白くて、もう一度撫でる。
「教官、かわいーね」
「……喧嘩売ってんのか」
「売ってないよ。かわいいなーって思って」
「黙れ」
「はいはい」
口ではそう言いながら、手は止めない。もう一度撫でてみる。
いつもとは逆だ。ニコは普段、自分がこうして撫でられる側だった。
眠そうにしているとき。熱を出したとき。怪我をして帰ったとき。何となく機嫌がよくて、ダリオのそばをうろうろしているとき。
大きな手で、ダリオは頭を撫でてくれる。乱暴そうに見えて、実際には痛くない力で、髪をぐしゃぐしゃにされる。
だから、逆をしていることが、なんだかおかしい。
「今日は俺がよしよししてあげようか?」
ニコがへらりと笑いながら言うと、ぴくりとダリオの動きが止まった。
「適当なこと言いやがって」
「適当じゃないよ」
ニコは赤い髪を指先へ絡めながら、何でもないことのように続けた。
「だって俺、いつもしてもらってるじゃん」
食事を作ってもらう。怪我をすれば手当てをしてもらう。忘れれば教えてもらう。
帰る場所を考えるのが面倒なら、ここへ来る。
何かを決められなければ、最後にはいつもこの男がいる。
「だから今日は、教官の番」
赤い髪が持ち上がった。至近距離で目が合う。
いつも、こういうときはニコのほうが先に笑う。
けれど今日は、ダリオがあまりにも何とも言えない顔をしているので、余計に楽しくなった。
「いいよ。甘えても」
「誰が甘えてる」
「あは。教官」
「ニコ」
「だって、さっきからずーっと――」
「言うな」
低い声で遮られた。
ニコは素直に口を閉じたが、すぐに我慢ができなくなった。
「……あかちゃんみたい」
「…………」
「あれっ」
まずかったらしい。さすがのニコにも、それくらいはわかった。
ダリオの顔から表情が消えた。
ただでさえ愛想のいい男ではないのに、眉間へうっすら皺まで寄っている。
その顔があまりにも真剣だったので、今度は笑いを堪えるほうが無理だった。
「ふ、ふふ……」
「お前な」
「あはは、ごめんって。教官、そんな顔しないでよ」
「誰のせいだ」
「俺だね」
笑いながら、ニコはまたダリオの頭を抱えるように撫でた。
自分の手では到底覆えない。いつもニコの頭を簡単に包んでしまう掌とは、まるで逆だった。
それでも指を髪へ潜らせ、耳の後ろから襟足へゆっくり滑らせる。
「いいじゃん。かわいいよ? いーよ。今日はあかちゃんでも」
「ニコ。それ以上言ったら帰すぞ」
「やだ」
ダリオの眉間へ、さらに深い皺が刻まれる。
ニコはそれを見てまた笑い、それから、皺を伸ばしてやるように人差し指を眉間へ置く。
「怒んないの。いっぱい甘えていいから、ね?」
目を細めるニコに、ダリオは何も言わなかった。
大きな身体を起こしたまま、しばらくニコを見ている。
その視線を受けながら、ニコはふと不思議な気分になった。
いつもなら、自分が見られる側なのに。
何をしたい。どうしてほしい。嫌じゃない、じゃない。お前がどうしたいかを言え。
そうやって逃げ道を塞いでくるのは、いつもダリオだった。
なのに今日は、自分が待っている。
この男がどうするのかを。自分のところへ戻ってくるのかを。
「……ったく」
深い溜息が落ちた次の瞬間、重みが戻ってくる。
ダリオが、諦めたように再び身体を預けてきた。
ニコの目が丸くなった。
◆
荒い呼吸が落ち着いてきた頃、ダリオの頭が、再びニコの胸元へ戻ってきた。
今度は、もう何もしない。ただ、そこへ頬を預けているだけだった。
「……まだそこ、好きなの」
「悪いか」
「悪くないけど」
ニコは汗の残る髪へ、もう一度指を通した。今度こそ、ゆっくりと。
さっきまでのように縋るのではなく、あやすように。
「……教官」
「うるせぇ」
「まだ何も言ってないけど」
「絶対ろくなこと言わねぇだろ」
「言わないよ、ほんとだって」
ニコは今度は笑わず、ただ、赤い髪へ指を通す。ゆっくりと、何度も。
自分より十二も年上で、ずっと強くて、偉くて、口うるさくて。
ニコが自分の身体を雑に扱えば怒るくせに、自分のことになると何でもない顔をする。
ニコが帰ってくれば、そこにいる。困ればどうにかする。忘れれば教える。そんな男が今、自分の手の下にいる。
何かをしてやれることが、思いのほか楽しかった。
「教官、あかちゃんみたいだったね。俺のおっぱい大好きじゃん」
「……まだ言うか」
「だってかわいいし。また、こうしていいよ」
指先で髪を梳きながら、ニコは小さく笑う。少しして、ニコはふと自分の薄い胸元を見下ろし、そこへ顔を寄せたままの男を見る。
少し考えて、それから、極めて真面目な顔で言った。
「あ。でも俺、教官のを挟んであげたりはできないからさ。そこだけはごめんね?」
「…………ニコ」
「ごめんて」
低く名前を呼ばれたところで、まるで堪えていない。
むしろ機嫌よく笑いながら、また大きな頭を撫でる。
「俺がいっぱい、甘やかしてあげるからね」




