忘れ物 -2-
「なに?」
「そいつの中にあるもの、お前の記憶じゃないのか」
「俺の? ……これが?」
ニコは夜喰いへ視線を戻し、しばらく眺めた。
怖がるでもなく、懐かしむでもなく、初めて見る珍しいものの正体を教えられたときのように、少しだけ目を見開いた。
「へえ。すご」
「すご、じゃねぇだろ……」
近くの隊員が思わず零し、ニコがそちらを見る。
「なんで?」
「なんでって、お前。……自分の記憶だぞ。気味悪くねぇのかよ」
問われて、ニコは少し考えたが、その時間はあまりにも短かった。
考えたというより、相手がなぜそんなことを聞くのかを、理解しようとしただけなのかもしれない。
「でも、俺、覚えてないよ」
「だからだろって……」
「んー?」
眉尻が下がる。会話が噛み合っていない。
それが、ニコにもわかったらしい。けれど、どこが噛み合っていないのかまではわからない。
その間にも夜喰いは距離を詰めてくる。すでに長銃を取り回すには、近すぎるところまで来ていた。
「エルザおねーさん」
「なんだ」
「これ、夜喰いなんだよね」
「ああ」
「処理対象?」
ニコの問いに、エルザはすぐには答えなかった。目の前の異形を、一度見上げる。
「現時点ではな」
「ふうん。そっか」
それだけ聞くと、ニコの手が腰へ落ちた。
ホルスターの留め具を外し、普段ほとんど使うことのない、近距離用の拳銃を抜き出すまでの動作には、一度の淀みもなかった。
「待て、ニコ」
ダリオが低く呼ぶ。
「なに?」
「そいつはお前の記憶だぞ」
口にしたものの、なぜ自分がそんなことを言ったのか、ダリオ自身にもわからなかった。
撃つなと言いたかったわけではない。
エルザが処理対象だと判断した以上、《黒鐘》の隊員であるニコが夜喰いへ銃口を向けること自体には、何ひとつ間違いがない。
それでも何かひとつくらい。こいつが引き金へ指をかける前に、立ち止まる理由になるのではないかと思った。
ニコはダリオを見、それから、銃口の先にいる夜喰いを見る。
黒い身体の奥では、今も無数の景色が揺れている。
かつて自分が見たはずのもの。好きだったのかもしれないもの。大切だったのかもしれない誰か。
何かを感じたはずの瞬間。そのすべてを、ニコは知らない。
「こいつ」
銃を構えたまま、ニコは少しだけ首を傾げた。
「俺が忘れたやつなんでしょ?」
誰も答えなかった。
その沈黙を肯定と受け取ったのか、あるいは最初から答えなど、必要としていなかったのか。
ニコは、もう一度夜喰いを見た。
「じゃ」
細い指が、引き金へ触れる。
「もう俺のじゃないじゃん」
銃声が響いた。
雨に濡れた建物の壁へ乾いた音が叩きつけられ、幾重にも反響する中。
弾丸を受けた夜喰いの胸が大きく抉れ、その奥に抱え込まれていた無数の景色が、白く浮かび上がった。
続けて、二発。三発。
発砲のたびに細い腕が反動を受け、それでも銃口は迷わず夜喰いを捉え直した。身体は反動を受けているのに、ニコは精神的には少しも揺れていない。
黒い身体は人の形を保てなくなり、輪郭の端から崩れ始める。それまで内側に閉じ込められていた景色まで巻き込むように、夜へほどけていった。
青い空、花、眠る犬。誰かの笑った口元や、食べかけの夕食。
見知らぬ部屋。そして、ダリオの後ろ姿。
どれも一瞬だけ鮮明になり、次の瞬間には黒い欠片と一緒に砕けて消える。
最後にカシャ、とひどく小さなシャッター音がして、それきりだった。
ニコはしばらく銃口を向けたまま、何もなくなった場所を確認していた。
だが、再び動く気配がないとわかると腕を下ろし、安全を確かめてから拳銃をホルスターへ戻した。
その一連の動作を、《黒鐘》の誰もが、黙って見ていた。
「……うわ」
やがて、誰かの声が落ちた。
小さかったが、静まり返った夜には十分すぎるほど響いた。
「あいつ、えぐ」
「おい、聞こえるぞ」
「聞こえてるよ」
振り返ったニコは、怒ってはいなかった。傷ついた様子もない。
ただ、本当に意味がわからないらしく、声の主を見ながら眉尻を少し下げる。
「なにがえぐいの?」
「いや……」
聞かれた隊員のほうが、困ったように口を閉ざした。
自分の失われた記憶が寄り集まってできたものを、あれほど躊躇なく撃ち抜けることが、とは。
どうにも本人へ説明しにくかった。
ニコは数秒ほど答えを待ったものの、何も返ってこないとわかると、すぐに興味を失った。
「エルザおねーさん、処理終わったよ」
その声があまりにも普段通りだったため、エルザはほんの一瞬、面食らったような顔をした。
「……見ればわかる。よくやった、ニコ」
「じゃ、帰っていい?」
「全員で戻る。勝手に抜けるな」
「はーい」
「それと今の件、詰所へ戻ったら報告を上げろ」
「俺が? めんどくさ」
ニコが不満そうに唇を尖らせる。
それを横目で見ていたダリオへ、今度は当然のように顔を向けた。
「教官、手伝って」
「自分で書け」
「教官も見てたじゃん」
「俺はお前の書記じゃねぇ」
「いっぱい書くのやだ」
「知らん」
ほんの数分前まで、見たこともない異形を前に武器を構えていた《黒鐘》の面々の間へ、あまりにもあっさりといつものやり取りが戻ってくる。
けれど誰も、笑わなかった。
「帰るぞ」
隊長の一声で、止まっていた一行が再び動き始めた。
ダリオもその流れに続こうとして、ふと、夜喰いが消えた路地へ目を向けた。
もう何もない。黒い影も写真も、ニコが忘れた景色も。
最初からそこには何もいなかったかのように、石畳だけが、街灯の光を鈍く返している。
忘れたなら、仕方がない。覚えていないことを責めても意味はないし、必要なことならまた教えればいい。
なくしたものが必要なら探す。腹が減ったなら食わせる。怪我をしたなら手当てをする。
昨日のことがわからなくても、今日やるべきことがわかるなら、それでいい。
立ち止まるな、生きて帰れ。
それだけは何度でも叩き込んできた。
そうやって。何度昨日を失っても、今日を生きられるように、こいつを育ててきたのは。
「きょーかん」
少し先から声が飛んできて、ダリオは顔を上げる。
ニコが立ち止まって、こちらを見ていた。
「何してんの?」
「……なんでもねぇ」
「置いてくよ?」
「誰に言ってんだ、お前は……」
歩き出して追いつくと、ニコも満足したように前を向き、また当たり前のようにダリオの隣へ収まった。
首から下げたカメラが歩調に合わせて胸元で揺れ、さっきまで拳銃を握っていた右手は、もう上着のポケットへ無造作に突っ込まれている。
少しだけ歩いて、ニコが言った。
「きょーかん、どっかごはん行こ」
ダリオの返事が、一拍だけ遅れた。
「……今からか」
「うん、おなかすいたかも」
「報告が先だ」
「じゃあ報告したら。教官も書いて、手伝って。俺途中で忘れちゃうかもしんないよ」
「詰所着いたらすぐ書け」
「へへ」
ニコが笑う。いつもの声で、いつもの顔だった。
教官、と。昔から変わらない呼び方で。
何の疑いもなく自分を呼び、今夜も一緒に飯を食うつもりでいる。
ダリオは、隣を歩く横顔を一度だけ見た。
忘れたものに縋るなと、教えたつもりはない。
けれど、忘れるたびに立ち止まっていては生きていけないことを、ダリオは知っている。
だから、昨日がなくても今日を生きろと。なくしたものより、今ここにあるものを選べと。
そういう生き方を教えた。それなのに。
いつか完全に、ニコの中から自分が零れ落ちて。あの黒い身体のどこかに、自分の姿が浮かんだとして。
こいつは同じ顔で、同じように首を傾げて。
もう俺のじゃないじゃん、と、そう言うのだろうか。
「教官、俺肉がいいかなー。肉食べに行こ」
「勝手に決めんな」
呆れた声を漏らしたダリオの隣で、ニコは楽しそうに笑った。
「一緒に行こうね」
「報告が終わったらな」
「うん。まだ開いてるお店どこかなぁ。開いてなかったら教官が作って」
「たいしたもんはねぇぞ」
「いーよ」
あまりにも簡単に頷く。
少なくとも今は、ニコはダリオを知っている。
呼べば振り返り、腹が減れば一緒に飯を食おうと誘い、少し先へ行けば待っている。
それを当たり前だと思っている。
雨上がりの街を、《黒鐘》の一行が詰所へ向かって歩いていく。
その最後尾近く。
いつものように隣り合って歩く二人の背中を見ながら、先ほど「あいつ、えぐ」と零した隊員が、しばらく黙った末にもう一度だけ口を開いた。
「……やっぱ、えぐいわ」
今度は、誰もそれを咎めなかった。




