忘れ物 -1-
【今回のお話】
《黒鐘》の巡回任務に、現場視察で教官も同行した夜。
任務を終えて帰る途中、ニコが路地裏で少し変わった夜喰いを見つけます。
ニコはかわいいけど、ちょっとえぐいです。
夜番の中でも、市街地の巡回や夜喰いの討伐を担う実働部隊のひとつ。
《黒鐘》の面々は、今夜割り当てられていた区域の巡回を終え、詰所へ向かって帰還するところだった。
その夜の《黒鐘》には、普段なら本部の机に噛りついているはずの男が一人混じっていた。
夜番の各部隊を監督する隊監、ダリオ・ヴァレンティ。
定期的な現場視察のために巡回へ同行していた彼にとっても、隊長のエルザにとっても、その日の任務はもう、終わったはずだった。
確認された夜喰いは三体、いずれも処理済み。幸いこちらに負傷者はなく、市街地にも大きな被害は出ていない。
あとは詰所へ戻り、各自が報告を済ませれば解散という段になれば、それまで張り詰めていた空気が緩むのも無理はなかった。
誰かが大きな欠伸を噛み殺したのを皮切りに、帰ったら風呂が先だとか、こんな時間でもまだ開いている店があっただろうかとか。
任務中なら隊長に睨まれそうな取り留めのない会話が、ぽつぽつと隊列の中に戻り始めていた。
エルザは、そんな部下たちの気の抜けた会話を咎めるでもなく、列の先頭近くを歩いていた。
任務が終わったとはいえ、詰所へ戻るまではまだ自分の管轄だという意識があるのだろう。時折振り返っては、隊列が崩れていないことを確認している。
その視線に見咎められるたび、最後尾付近でふらふらと道の端へ寄っていたニコだけは、悪びれる様子もなくカメラを胸の前へ持ち上げていた。
いったい何がそんなに気になるのか他人にはよくわからないものへ、レンズを向けている。
気の済むまでファインダーを覗き込み、隊列が数歩先へ行ってしまってから、ようやく思い出したように追いつく。
「ニコ」
少し前を歩いていたダリオが、とうとう振り返った。
「んー?」
「置いてくぞ」
「いるよー」
「列から離れんな」
「離れてないじゃん」
言いながら、ニコはカメラを下ろして小走りに追いついてくる。だが、すでに五、六歩は開いていたのだから、ダリオが眉間に皺を寄せるのも当然だった。
それでも叱られた本人には反省した様子などなく、追いつけば追いついたで当然のようにダリオの隣へ並んだ。
歩調を合わせるでもなく気ままに歩きながら、今度は腹が減っただの、今日ってもう明日なのだろうかだのと、どうでもいいことを口にし始める。
「教官、いま何時? 腹減った、なんか食べたい」
「俺に言うな」
「えぇー? つめたい」
気の抜けた声が、雨上がりの通りへ落ちていく。
いつものことだ。だからダリオも、それ以上は何も言わない。
詰所まではそう遠くないし、帰れば帰ったで、どうせこいつは腹が減ったと騒ぐのだろう。
何か買わせるか、残り物でも食わせるかと、そんなことをぼんやり考えながら前へ向き直った、そのときだった。
「……ん?」
背後から聞こえた小さな声に、ダリオの足が止まった。
振り返ると、ニコはまた立ち止まっていた。
けれど今度は、カメラを構えているわけではなかった。
通りから横へ伸びる細い路地、その奥に溜まった暗がりを、わずかに首を傾けながらじっと見ている。
「どうした」
問いかけてもすぐには答えず、ニコは数秒ほど暗がりを見つめたあと、ようやく胸元のカメラへ手をかけた。
「なんかいる」
その一言で、それまで弛んでいた《黒鐘》の空気が一変した。
誰かが欠伸を呑み込み、別の隊員が腰の武器へ手を添え、先を歩いていたエルザも即座に足を止めて振り返った。
ダリオもすぐに、ニコの横まで戻る。
「どこだ」
「あそこ。いま動いた」
ニコが示したのは、古い建物同士に挟まれた細い路地の奥。
街灯の光もろくに届かず、積み上げられた木箱や、壁を這う雨樋の輪郭さえ、闇の中へ半ば溶け込んでしまっている。
しばらく全員で目を凝らしたものの、何も動かない。
「見間違いじゃないのか?」
後ろにいた隊員が言うと、ニコは返事の代わりにカメラを持ち上げ、片目を瞑ってファインダーを覗き込んだ。
そうしてしばらく無言で暗がりを追っていた顔から、ほんの少しだけ、気の抜けた表情が消える。
「いや、いるよ」
その声とほとんど同時に、暗闇が動いた。
夜の色そのものが、壁からゆっくりと剥がれ落ちたように見えた。
頭があり、肩があり、異様に長い腕と二本の脚があることから、かろうじて人の形を模しているのだとわかる。
けれど、その輪郭は絶えず揺らいでいる。
黒い煤と泥と影を一緒くたに練り合わせたような身体の端からは、歩くたびに細かな欠片がほどけ落ち、地面へ触れるより先に、夜気へ溶けて消えていく。
足音はしない。代わりに、カシャ、と乾いた音がした。
ニコが、カメラから顔を離す。
「……いまの、俺じゃないよ」
「わかってる」
ダリオは夜喰いから目を離さないまま答えた。もう一度、カシャ、と音がする。
どう聞いても、カメラのシャッター音に酷似していた。
黒いものが、路地から街灯の下へ一歩踏み出す。
それまで闇に紛れて見えなかった身体の内側に、いくつもの白い四角が浮かんでいることに気づいたのは、誰が最初だったのかわからない。
「……写真か?」
隊員の一人が、怪訝そうに呟いた。確かに、写真に見えた。
黒い身体の表面に貼り付いているのではなく、もっと深いところ。
水底へ沈んだものを、濁った水面越しに覗き込んでいるように、いくつもの像が輪郭を歪めながら浮かんでは沈み、互いに重なり合っては別の景色へ移り変わっていく。
雨に濡れた花、昼間の空、見知らぬ路地、誰かの靴。
食べかけのパン、窓辺に置かれた空の瓶、丸くなって眠る犬、夜の街灯。
どれも、何か重大な出来事を記録したものには見えなかった。
誰かにとっては何の意味もない、目を留めることさえなく通り過ぎてしまいそうな景色ばかりだ。
それだけに、それらを一枚ずつ拾い上げるように撮る人間を知っている者たちは、次第に口を閉ざしていった。
「これ」
ニコが一歩、前へ出た。ダリオの手が肩を掴む。
「近づくな」
「だって」
「だってじゃねぇ」
「俺の写真に似てる」
誰も否定しなかった。
夜喰いの身体の中に、今度は石畳へ落ちた鳥の羽が浮かんだ。
「俺、こういうの撮るよ」
「覚えがあるのか」
エルザの声が飛ぶ。
隊長として状況を見極めようとしているのだろう。エルザは夜喰いではなく、ニコの横顔を見ていた。
「んーん。ない」
ニコは、あっさりと答えた。
次の像が浮かぶ。
見覚えのある詰所の机、その隅に置かれた灰皿。
壁際に立て掛けられた長銃と続き、やがて黒い身体の胸元へ、赤い髪の男の後ろ姿がぼんやりと現れた。
横顔すら映っていない。ただ、何かを見ながら立っている背中だけ。
それでも、見間違えるはずがなかった。
「教官だ」
ニコが、夜喰いの中の写真と隣に立つ本人を交互に見た。
「……そうだな」
「いつ撮ったんだろ」
「俺が知るか」
「撮られたの覚えてない?」
「ねぇよ」
「そっか」
ニコはもう一度写真を見ると、どこか可笑しそうに目を細めた。
「じゃあ、二人とも覚えてないね」
あは、と笑う。それだけだった。
次の瞬間、夜喰いが一歩を踏み出した。周囲の隊員たちもそれぞれ武器を構えたが、黒いものは自分へ向けられた敵意など意に介していない。
ただ真っ直ぐ、ニコへ向かって歩いてくる。
顔も目もないのに、ニコを見ているのだとわかった。奇妙な、そこにあるものを確かめようとするような執拗さで、夜喰いはニコだけを捉えている。
「こいつ俺のこと見てる。教官のこと全然見ないね」
「どうでもいい」
肩を押され、ニコはようやく二、三歩ほど後ろへ下がったが、夜喰いもまた、それに合わせるように距離を詰めてくる。
その黒い身体の奥では、なおも景色が入れ替わり続けていた。
写真として残したものだけではないのかもしれない。
ニコがいつか見たもの。目を留めたもの。何かを思ったもの。
そして。もう、覚えていないもの。
「……そういうことか」
エルザが低く零し、ニコが振り返る。




