ほつれた糸 -2-
数日後。夜番の本部から戻ってきたダリオは、着替えながらシャツの脇へ指を引っかけた。
糸が一本、浮いている。
よく見れば、縫い目がわずかに開きかけていた。ただ、この程度なら放っておいても、今日明日どうなるものでもない。
ダリオはしばらくそこを眺めていたが、やがて黙ったままシャツを脱いだ。
翌日、ニコが部屋へやってきたのは、日が高くなってからだった。
「教官、おなかすいたー」
扉を開けて最初の一言がそれだった。
「挨拶くらいしろ」
「おはよ」
「もう昼だ」
「じゃあこんにちは」
いつものように靴を脱ぎ、いつものようにソファへ向かう。
そして、いつもの場所へ腰を下ろそうとして。
「あれ」
テーブルの上に置かれた黒い布に気づいた。
手に取って広げてみれば、どう見てもダリオのシャツだった。
ニコは首を傾げた。
「教官」
「あ?」
キッチンから、ダリオの低い声だけが返ってくる。
「これなぁに」
「見りゃわかるだろ」
「あんたのシャツだね。や、そうじゃなくて」
ニコはシャツを裏返した。脇の近く、ほんの少しだけ、縫い目が解けている。
指先でつまむと、前回より、ほつれはずっと小さい。
放っておいたところで、すぐに困るようなものでもない。なのにテーブルの上へ、わざわざ置いてある。
ニコはしばらくそれを眺め、キッチンへ顔を向ける。大きな背中が、こちらを向かないまま鍋を覗いている。
「ねえ、教官」
「なんだ」
「これさぁ、直してほしいの?」
ダリオの、鍋を混ぜていた手が止まった。
「……できるんだろ」
それだけ。頼むとも、直してくれとも言わない。
ニコは手元のシャツへ視線を戻した。
小さなほつれがある。ダリオがそれをわざわざ脱いで、ここへ置いた。自分が来れば気づく場所へ。
ニコの口元が、ゆっくりと緩んだ。
「ふうん」
「なんだよ」
「べつに? じゃあ、直してあげる」
「……おう」
ニコはシャツを抱えて立ち上がり、棚へ向かった。前回、ダリオが裁縫箱を戻した場所を覚えている。迷わず取り出して、ソファへ戻った。
蓋を開け、黒い糸に針、小さな鋏と、必要なものを一つずつ並べていく。
キッチンでは教官が食事を作っている。自分は教官の服を直す。
それがなんだか妙におかしくて、ニコはまた少し笑った。
「教官」
「今度はなんだ」
「俺これ上手いもんね」
「……そうだな」
「もっと褒めてもいいよ?」
「一回褒めただろ」
「何回褒めてもいいんだよ」
「図に乗るからな、お前は」
ニコは針へ糸を通した。今度も、一度で通った。
脇の縫い目を揃え、指先で丁寧に押さえる。
自分のシャツなら、こんなに細かくはやらない。
糸の色が多少違っていても気にしないし、表へ針目が出たところで、着られるならそれでいい。最後の糸だって、わざわざ鋏など探さず八重歯へ引っかけて切ってしまう。
けれどこれは、教官のものだった。だから、ちゃんとする。
その違いを、ニコ自身は特別なことだとは思っていなかった。
それでも人のものだから、丁寧に扱う。教官のものなら、なおさら。
やがて小さなほつれは、跡もほとんど残さず閉じた。
ニコは結び目を確かめてから、今度は最初から鋏を取った。
ぷつりと、余った糸が落ちる。
「できたぁ」
声を上げると、キッチンからダリオが振り返った。
「早ぇな」
「こんなのすぐだよ」
ニコはシャツを持ち上げて、ゆらゆらと振りながらダリオを見た。
「見ないの? 今見てよぉ」
「後で見る。飯焦げるだろ」
「じゃあ後でぜったい、ちゃんと見てね」
「わかった」
「そんでさぁ、褒めてね」
「しつこいぞ、お前」
ニコはけらけら笑って、シャツを綺麗に畳んだ。
教官に何かをしてやれることなど、考えたこともなかった。そもそも、そんな必要があると思ったこともない。
教官はいつだって、自分よりずっと大きくて、ずっと何でも知っていて。だいたいのことは自分でできる。
ニコが腹を空かせれば食事を作り、怪我をすれば手当てをしてくれる。忘れ物をすれば呆れながら探し、困っていれば何だかんだ、最後にはどうにかしてくれる。そういう人なのだと思っていた。
だからこんなに、自分のところへ持ってこられたほつれたシャツが、嬉しいのだろう。
ニコはそれを言葉にはしなかったが、ただ、食事ができるまでのあいだ、綺麗に畳んだシャツを何度か眺めた。
「ニコ、できたぞ」
「はーい」
すぐに立ち上がる。
裁縫箱は当然のように、テーブルの上へ置きっぱなしだった。
「おい、片付けろ」
「ごはん冷めちゃうじゃん」
「お前が片づけるまで待つ」
「えぇ? しょうがないなあ」
唇を尖らせ、裁縫箱を抱えるニコを見て、ダリオは小さく息を吐いた。ぶつくさ言いながらも棚へ戻してきたニコの頭に、通りすがりに一度だけぽんと手をやる。
「ありがとな」
ニコが振り返ると、ダリオはもう、食卓へ向かっていた。
ニコはその背中をしばらく見てから、自分の頭へ手をやった。
「……もっと褒めていいのに」
「聞こえてんぞ」
「えへへぇ」
その日から、ときどき。
ダリオの部屋のテーブルには、ボタンの緩んだシャツや、縫い目の解れた上着が置かれるようになった。
頼む、と言われたことは一度もない。ニコも、毎回必ず聞いた。
「教官、これ直してほしいの?」
「できるんだろ」
いつも決まったように答えられ、そのたびにニコは、得意そうな顔をして裁縫箱を取りにいった。
自分の服の糸は、相変わらず八重歯でぷつんと切るくせに。
ダリオの服を直すときだけは、いつもきちんと鋏を使うのだ。
ただし、何度目かになると、少しばかり余計なこともするようになった。
◆
「昨夜の巡回記録です」
差し出された書類を受け取り、ダリオはざっと目を通した。
向かいに立つエルザは、次の報告を続ける。
「西区画では二件。どちらも処理済みです。負傷者はいません。それから……」
そこで、ほんのわずかに間が空いた。
ダリオが顔を上げる。
「なんだ」
「……いえ」
エルザは何事もなかったように続けたが、その視線が一瞬、自分の肩口へ落ちたことをダリオは見逃さなかった。
報告が続くと、また、ちらりと視線が向く。
「エルザ、さっきからどうした?」
「何がでしょう」
言いながら、またエルザの目が動いた。右肩の後ろ。自分では、首を捻った程度ではよく見えない場所だった。
ダリオは眉を寄せ、上着を引っ張る。ようやく見える角度まで布地を寄せる。
黒い仕事着の、肩口。縫い目のすぐ脇。
そこには、小さなくまがいた。丸い耳がふたつ。ちんまりした顔。
わざわざ茶色の糸まで使って、妙に丁寧に縫われている。
大きさは、親指の爪ほどしかない。遠目にはまずわからない。そして、着ている本人からはもっとわからない。
「…………」
心当たりは、一人しかいなかった。
ダリオは無言で眼鏡を外して、片手に持つ。
もう片方の手で、眉間を押さえて、深く長く息を吐いた。
「……あのバカ」
エルザは何も言わず、淡々と次の報告へ移った。
そのあいだも、ダリオの右肩には、かわいらしいくまが一匹いた。
その日の夜。
「ニコ」
「んー?」
「お前、俺の仕事着に何した」
ソファに寝転がっていたニコが、瞬きをしながらダリオを見る。
「仕事着?」
「とぼけんな」
ダリオが肩口を指差す。
ニコの視線がそこへ移った次の瞬間、口元がむに、と持ち上がった。
「あ、見つけた? くまちゃん」
「見つけた、じゃねぇ」
「自分で見つけたの?」
「エルザが見てた」
ニコはにやにやと笑いながら起き上がると、近くまで寄ってきた。
ダリオの肩へ手を置き、そこにいる小さなくまを眺める。
「かわいいでしょ」
「仕事着だぞ」
「だから、わからないとこにしたんじゃん? ちっちゃいし」
「取れ」
「えぇ? ほんとに取る?」
そう言いながらも、ニコの指がくまへ伸びる。
ダリオは小さなくまを見、それから、ニコを見る。
「……次からやるな」
「取っちゃっていいの? くまちゃん」
「次からやるな、っつってんだろ」
「はーい」
返事だけは、やけに素直だった。結局その日、くまは取られなかった。
そして数日後。ダリオの机の上には、また一着、ほつれた仕事着が置かれていた。
ニコは、いつものように裁縫箱を開けた。
黒い糸を取り出して針へ通し、ほつれた縫い目を、綺麗に直す。
そして最後に、鋏で糸を切ってから、裁縫箱の中に並ぶ、色のついた糸を眺めた。
「…………」
ニコは少し考えてから、ちらりとダリオを見る。
ダリオは、こちらを見ていない。
次は、どこなら気づかれないだろう。ニコは笑みを浮かべながら、糸を指先で弄んだ。




