それでよかった -1-
【今回のお話】
過去。ダリオとの恋人成立前のニコです。
モブ×ニコの描写がありますので、苦手な方はご注意ください。
酒場の扉が開くたび、夜の冷えた空気が煙と酒の匂いを押し退けるように流れ込む。狭い店内に溜まったざわめきを、吹き込んだ風が揺らしていった。
任務を終えてから、もうずいぶん経っている。
外套は椅子の背へ引っかけたまま、ニコはテーブルへ片肘をつき、氷のほとんど溶けたグラスを指先で弄んでいた。
頬には少し熱がこもっているが、酔ってはいない。身体の芯に残っていた任務帰りの強張りが、酒と時間のおかげで、ほどよく抜けてきた程度だった。
そろそろ、帰ってもよかった。明日の任務は別の隊が担当だし、今から戻ればそれなりに眠れる。
だからといって、急いで帰らなければならない理由も、ニコにはうまく見つけられない。ニコはもう一度グラスを傾け、薄くなった酒を舌の上へ転がした。
少し前まで、隣には別の男が座っていた。年はダリオより、いくらか上だった。
仕立てのいい上着に、指には大ぶりの指輪。酒場へ来るには、少しばかり上等すぎる格好。
いかにも金だけは持っていそうで、その金があれば大抵のことはどうにかなると思っていそうな男だった。
「君、こういうところによく来るの?」
「んー。たまに?」
「だったら、今度から俺と飲もうよ」
「なんで?」
問い返すと、男は少し声を潜めた。
「小遣いくらいなら出してやれるよ。服でもなんでも、欲しいものがあるなら買ってやる。だから、まあ……、たまに俺に付き合ってくれればいい」
ニコはグラスを傾けたまま、男の顔を見つめた。
「それ、ずっと?」
「ずっとというか。お互い気が向いたときにさ。悪い話じゃないだろ?」
「えぇ?」
悪い話かどうかは正直よくわからないし、深く考えたくもない。
ただ、面倒そうだった。
「俺、そういうのいーや」
「金が足りない?」
「そうじゃなくて」
ニコは笑って、グラスの底に残った氷をからりと鳴らした。
「おじさんとしたいかどうかと、お金くれるかどうかって、別じゃない?」
男は面食らったように黙った。もっと簡単だと思っていたのだろう。
酒場でひとり飲んでいて、声をかければ愛想よく笑って、煙草も酒も断らない。
頭も尻も軽そうな若い男に、少し金をちらつかせれば十分だと。
「……じゃあ、俺とはしたくない?」
「少なくとも今日はね」
あっさり答えると、男はしばらく食い下がったものの、最後には諦めて席を立った。ニコはその背中を見送るでもなく、すっかり薄くなった酒をもう一口含んだ。
ニコは、金をくれるからといって好きにはならないし、金をくれないから嫌いにもならない。
そんなものがなくても、気が向けば誰かと夜を過ごすことはある。気が向かないのなら、いくら積まれたところで面倒なだけだった。
向こうの卓で誰かが笑っている。入口近くでは、帰るのか残るのかで揉めている二人組がいる。
店員が空いた皿を重ねて運んでいき、その向こうで、いつの間にか隣へ座っていた男が、煙草へ火をつけた。
「吸う?」
「ん」
差し出された箱から一本抜き取り、そのまま火も借りる。
「ありがとね」
「どういたしまして」
煙を吐きながら横目で見ると、男もこちらを見ていた。
少し年上だろうか。短く整えた黒い髪に、仕事帰りらしいシャツ姿。袖を肘まで捲り上げている。顔立ちは悪くないし、声も嫌いではなかった。
いつから話していたのだったか。たしか最初は、カメラのことを聞かれた。
ニコが椅子の脇へ置いていた鞄からストラップが覗いていて、それを見た男が「写真撮るの?」と声をかけてきたのだ。
そこから何を話したのかは、まだ覚えている。
仕事で使うこと。夜の街を撮るのが好きなこと。人を撮ることもあること。
男は、自分は写真に写るのが苦手だと言い、それなのに昔、知り合いに無理やり撮られた一枚だけは気に入っている、と話した。
その話が少し面白かったから、ニコは笑った。それから、酒を一杯奢られた。
だから、たぶん名前も聞いた。聞いたはずだが、それがなんだったかは、もうニコの意識の端にも引っかかっていなかった。
忘れた、という感覚とも少し違う。
残しておかなければ困るものは、残す。そうしておけば、明日の自分が知らなくても問題ない。
目の前の男の名前は、ニコにとっては必要のないものだ。今ここで話すぶんには、名前を知らなくても困らない。
呼びかけるなら「ねえ」で足りるし、顔を見れば誰に話しているのかもわかる。
なら、別にいいかと思ったのだ。
店を出る頃には、日付が変わっていた。夜気が、酒で温まった頬に心地よい。
石畳には少し前に降った雨がまだ残っていて、街灯のぼんやりとした光を、歪めながら映していた。
「なあ」
「んー?」
「まだ帰らなくていいんだろ」
「うん」
「俺んち、この先なんだけど」
ニコは男が指さす方向へ、眠そうな目を向けた。見覚えのない通りだった。
自分の部屋とは、逆方向だということだけはわかる。
「来る?」
問いかけは軽く、ニコも同じくらい軽く考えた。
明日の仕事はない、眠る時間はある。男のことは嫌いではない。一緒にいて退屈もしなかった。
それなら。
「いいよぉ」
◆
見知らぬ部屋というのは、どこも少しだけ面白い。
脱ぎっぱなしの靴。机の隅へ積まれた本。半分ほど残った酒瓶。窓際で枯れかけている植物。
棚に並んだ古い置物ひとつについて、ニコが尋ねると、男は笑いながら子どもの頃から持っているものだと教えてくれた。
話を聞きながら、ニコはへえ、と頷いた。
どうせ明日には、細かなところまで覚えていない。それでも今面白いなら、聞いておく。
ニコにとって人と過ごす時間は、だいたいそういうものだった。
会話が途切れた頃、男の手が、当然のようにニコの肩へ触れた。
嫌ではなかった。そのまま、酒の匂いの混じった息が頬にかかる距離まで、顔が近づいてくる。
ニコは、特に何を考えることもなく、その先を受け入れた。
悪くない口づけだった。丁寧で、急かさない。ニコもそれに応えて、自分から少しだけ、口を開いた。
窓の外では、夜更けの街を走る車輪の音が、遠く響いている。
知らない部屋の天井を見上げながら、ニコは一度だけ、どこかに置いたカメラのことを思い出した。
ちゃんと、壊されないところへ置いたっけ。たぶん大丈夫。
それだけ確認すると、すぐに考えるのをやめた。




