それでよかった -2-
ニコが目を覚ましたときには、カーテンの隙間から入り込んだ朝の光が、天井を白く照らしていた。
どこだっけここ、と一瞬思ったが、隣で眠っている男を見て、すぐに昨夜のことを思い出す。
「……あぁ」
そうだった。思い出した。
身体を起こすが、頭が少し重い。酒のせいだろう。床へ落ちていた服を拾い、静かに身支度を整えた。
カメラは椅子の上にあった。無事だ。それを見た瞬間が、朝になっていちばんほっとした。
「……帰んの?」
背後から眠たげに声をかけられて、ニコは振り返った。
「うん。起こした?」
「いや」
男が目を擦りながら、身体を起こす。
「もうちょいいてもいいのに」
「おなかすいちゃったからさぁ」
「なんか作る?」
「んー。……いいやぁ。帰る」
「そっか」
引き止められたことにも、特別な意味は感じなかった。
ニコは、カメラを肩へ掛ける。
「じゃあねぇ」
「また会ったら飲もうよ」
「うん」
それはたぶん、ニコにとっては本心だった。
また偶然会って、向こうが覚えていて、同じように話しかけてきたなら、一緒に飲むのも悪くない。そう思えるのに、わざわざ今、次に会うための約束をするほどでもない。
連絡先を教えられ、聞かれたけれど、これを使うことになるかはわからなかった。
帰るね、と扉へ手をかけたところで、背後から声が飛んでくる。
「ニコちゃんさ」
「ん?」
「結局、俺の名前覚えてる?」
ニコが振り返ると、男が笑っている。
そこで初めて、ニコは昨夜、名前を聞いたことを思い出した。
「あー……」
ニコは少し考えてみた。懸命に記憶をたどれば、出てくるような気もしたのだ。
けれど、そこまで考えてから、ニコはへらりと笑った。
「ごめん」
「マジかよ」
「名前で呼ぶことなかったし」
「ひでえ」
「もう一回教えてくれる?」
首を傾げて聞けば、男は苦笑しながら、もう一度教えてくれた。
「あぁ、それだ」
「絶対また忘れるだろ」
「あはは。そうかも」
否定はしなかった。今度はちゃんと聞いたし、音も耳に残った。
それでも「覚えておこう」とは思わなかった。
必要になったら、そのときまた聞けばいい。もう会わないなら、必要になることもない。
「じゃ、今度こそまたねぇ。ありがと」
「おう」
扉を閉めると、朝の廊下はしんと静まり返っていた。階段を降りて、建物を出る。
夜の湿気をまだ残した街へ朝日が差し込み、濡れた石畳が眩しい。
ニコは目を細め、少し歩いたところで、カメラを持ち上げた。
軒先から落ちた雫が蜘蛛の巣へ引っかかっていて、朝日を受けて白く光っていた。
荷車を押す人。開店の準備をする店。眠そうな顔で歩いている男。
街は、夜とはまるで違う顔をしていた。ニコは歩きながら、いくつかそれを拾っていく。
さっきまでいた部屋の男については、もう考えていなかった。
嫌ではなかったし、楽しかった。嫌だったどころか、むしろ悪くなかった。
だからこそ、それ以上のものにする必要もないと、ニコは考えた。
楽しかった時間は、楽しかった時間のまま終わればいい。
残したいものだけ残す。そうでないものは、流れていけばいい。
それで困ったことは、これまで一度もないのだから。
◆
「教官ー」
扉を開けると、紙を捲る音が止まった。
机の向こうから、眼鏡越しの視線が持ち上がる。
「……お前」
「おはよぉ」
「今何時だと思ってる」
「んー? 朝。教官朝から仕事してんの? えらいね」
ダリオは眉間へ皺を寄せた。いつもの顔だった。
長い髪はまだ完全には整えられておらず、普段より少し緩くまとめられている。
机の上には書類と、飲みかけらしいカップ。灰皿には一本分の吸殻が残っていた。
ニコはそれを見て、なんとなく安心した。理由までは、深く考えない。
「おなかすいた、なんかない?」
「自分の部屋に戻れ」
「戻ってもなんもないもん」
「……買っとけよ」
「忘れるんだよねえ」
「それを俺に言うな」
言いながら、ダリオが立ち上がる。
ニコは、ごく自然にソファへ体を沈めた。柔らかい。よく知っている柔らかさだった。
肩からカメラを外して、隣へ置く。
「寝るなよ」
「寝ないよ?」
「そうやって返事して何回寝たんだ」
「覚えてない」
「だろうな」
ニコは、部屋の奥へ向かうダリオの背中を眺めた。
黒いシャツ。朝の光に透ける、長い赤髪。見慣れた後ろ姿だった。
何度見たのかわからないほど見慣れているのに、ニコはカメラへ手を伸ばした。ただ、ファインダーを覗く。
四角く切り取られた視界の中へ、ダリオの広い背中が収まった。
悪くない。
指を動かしてシャッターを切ると、ダリオが怪訝そうに振り返った。
「……何撮ってんだ」
ニコはその顔を見て目を細め、もう一枚撮った。
「きょーかんのこと」
「それはわかってる」
「じゃあ聞かなくていいじゃん」
「なんで撮ったって聞いてんだよ」
「んー、なんとなく?」
ニコはカメラを下ろして、少し考えてみた。
うーん、とひとつ唸ってみたけれど、たいした理由は出てこなかった。
「いいじゃん。一枚くらい」
「二枚撮っただろうが」
「あ、気づいてた?」
「聞こえてんだよ」
ダリオは深く息を吐いて、キッチンへ消えていった。
カメラを膝へ置き、さっき撮ったものを確認する。
一枚目は背中。二枚目は振り返ったところ。眉間へ皺を寄せた、いつもの教官。
ニコは少し笑って、消さずに、そのままカメラを隣へ置いた。
昨夜、一度だけファインダーへ収めてみたものの、結局シャッターを切らなかった男のことは、もう思い出していなかった。
その男の名前も。今朝もう一度教えてもらった、その音も。
ニコはソファへ深く沈み込み、奥から聞こえる食器の音をぼんやり聞きながら、目を閉じた。
「寝るなっつっただろ。何か食うんだろ」
「寝てないよぉ」
「目ぇ閉じてんだろうが。……人に作らせといて、お前は」
「休んでるだけじゃん」
返事をすると、呆れたような溜息が返ってきた。
その声を聞きながら、ニコはまたへらりと笑った。
残したいと思うことと、忘れたくないと思うことは、よく似ている。
その朝。名前すら持ち帰らなかった夜のあとで。
ニコのカメラには、ダリオの写真が二枚、増えていた。




