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【BL】教官は、俺を好きになっちゃだめらしい。  作者: 彩羽やよい


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だれでもよかった -1-

【今回のお話】

 いつもと変わらないはずだった夜に、少しだけ違うことが起こります。

 ダリオと恋人になる前のニコ。

 二人の関係性が変わる日の前編です。

 別に、誰でもよかった。

 少なくともニコは、これまでずっとそう思って生きてきた。

「誰でもいい」と思うことを、寂しいとか、不誠実だとか。

 ましてや改めなければならないことだとも、考えたことはなかった。


 好きか嫌いかで言えば、もちろん好きなほうがいい。

 話していて楽しい相手なら、一緒にいる時間も退屈しない。顔が好みなら、近くで眺めているだけでも、ちょっと得をしたような気分になる。


 けれど、それ以上の条件となると、ニコにはいまひとつよくわからなかった。

 男でも女でも構わない。一度きりでも、何度か会った相手でもいい。声をかけられたときに暇で、相手のことが嫌いではなく、その日の気分が悪くなければ。

 断る理由なんて、それほどなかった。


 誘われたから、ついていく。近づかれたから、受け入れる。自分も楽しいなら、それでいい。

 誰かに言わせれば、もう少し考えたほうがいいのかもしれないし、実際、似たようなことを教官に言われたことも、何度かある。

 知らない相手についていくな、何かあってからでは遅い、せめて相手の素性くらい確認しろ、と。

 いつもの低い声で小言を並べられるたび、ニコはちゃんと聞いているような顔をして、頷いていた。


 聞いてはいる。覚えているかどうかは、また別の話だった。

 ニコにとって、過ぎてしまった時間というものは、放っておけば少しずつ輪郭を失っていくものだった。

 昨日誰と何を話したのか、どこへ行ったのか。

 何を食べて、何を見て、どうして笑ったのか。大事だったはずのことさえ、ときどき驚くほど簡単に遠ざかって、気づけば最初からそこになかったような顔をしている。


 だからニコは、写真を撮る。文字として長々と記録に残すのは面倒だし、得意ではない。

 そのとき見たもの、そのとき気になったもの。その瞬間には確かに自分の中にあったものを、あとから拾い直せるように残しておく。

 胸元に下げたカメラも、ポケットの中で折れ曲がった紙片も。そうやってニコの代わりに、覚えていてくれるものだった。


 それでも残らなかったものなら、仕方がない。忘れてしまったなら、それはそれ。

 必要になったときに写真を見ればいいし、記録を読めばいい。それすら残っていないのなら、きっと大した記憶ではなかったのだろうと、ニコはだいたいそんなふうに考えていた。


 人との関係だって同じだ。来るなら拒まず、去るなら追わない。

 また会えば笑って話すし、会わなければ、それまでだ。

 誰か一人を捕まえておく理由も、自分が誰か一人に捕まっている理由も、これまでのニコには必要なかった。

 だから、その夜だって。何も変わらないはずだった。


 ◆


「ニコ、このあと暇?」


 酒場を出る少し前、向かいの席に座っていた相手からそう尋ねられた。

 ニコは、淡い青緑色の瞳を彼にちらりと向けると、特に考えることなく、グラスの縁から唇を離した。


「暇だよー」

「ならさ、もう少し付き合ってくんない?」

「うん、いーよ」


 相手の名前は覚えている。たぶん。

 昼間、すれ違ったこともあったような気がするし、もっと前にもどこかで、同じ卓を囲んだことがある気もする。

 少なくとも今日初めて顔を見た相手ではないし、交わした会話も、それなりに楽しかった。

 それならもう、ニコにとっては充分だ。

 ニコは卓上へ置いていたカメラを持ち上げ、慣れた手つきでストラップを肩へ掛けると、椅子の背に引っかけていた上着を手に取った。


 そのまま残っていた酒を飲み干して、空になったグラスを卓上へ戻す。

 どこへ行くのかも、何をするのかも、わざわざ確かめなかった。聞かなくてもわかっていたし、相手も、ニコがわかっていることをわかっている。

 いつものことだった。

 酒場の扉を開けると、中に溜まっていた熱気を押し戻すように、夜の冷たい空気が頬へ触れた。

 ニコは相手と並んでしばらく歩いてから、不意に足を止めた。


「あ、ごめん待って」

「何? なんかあった?」

「んーん。……ちょっと撮りたい」


 ニコは胸元のカメラを持ち上げると、ファインダーを覗き込んだ。

 途端に、広かった夜の街が四角く切り取られる。

 濡れた煉瓦も、古びた看板も、遠くを歩いていく人影も。さっきまで同じ夜の中にあったはずなのに、枠をひとつ作るだけで、残したいものとそうでないものとに分かれていく。

 一枚。少し角度を変えて、もう一枚。


「そんなの撮るんだ? 何がいいの?」

「んー、わかんない」


 ファインダーから目を離すと、ニコはへらりとした笑みを作った。


「明日見たらさ、……俺もなんで撮ったのか、わかんないかもね」


 相手の部屋は、酒場からそれほど離れていなかった。

 古びた集合住宅の三階へ続く狭い階段を上り、薄暗い廊下を進んで、二つ目の角を右へ曲がった先。

 三階、右、奥から二番目。

 ニコは何となく覚えようとして、すぐにやめた。必要なら、また来たときに聞けばいい。

 忘れてしまったら、そのときはそのときだ。


 鍵の開く音に続いて扉が押し開かれると、外よりも少し暖かい空気が流れ出し、その中に、知らない部屋の匂いが混ざっていた。ここで暮らしている、人間の匂いだ。

 ニコは特に意識することもなく部屋へ入り、灯りがついたところで、何気なく周囲を見回した。

 思っていたより片づいている。

 小さな机と、壁際の棚。余計なものがほとんどなく、流しにはグラスがひとつ、逆さにして置かれていた。


「適当に座って」

「ん。ありがと」


 ニコはカメラを首から外し、置き場所を探して机の端へ載せると、向きを直した。

 それから上着を脱いで、ソファへ腰を下ろすと、身体が予想していたよりも深く沈んだ。

 柔らかいな、と、それだけ思った。


「まだ飲む?」

「んーん、水がいい。けっこう飲んだし」


 笑いながら受け取ったグラスは、表面に薄く水滴が浮かぶほど冷たかった。

 ひと口飲むと、酒の熱が残っていた喉を冷たい水がゆっくり滑り落ち、その感覚が妙に鮮明だった。

 明日になってどこまで覚えているかはわからないけれど、少なくとも今は楽しい。相手が笑えば、ニコも笑った。

 だから、会話の間に落ちる沈黙が少しずつ長くなり、いつの間にか相手との距離がさっきより狭くなっていても、特別な意味を見つけようとは思わない。


 肩が触れ、そのまま離れない。相手の顔が近づいて、呼吸が、さっきまでより近い場所にある。

 そういうつもりでここまで来たのだから、今さら何を戸惑うことがあるのだろうと思ったし、実際、そのときまでは何もおかしいとは感じていなかった。


 肩へ置かれた手が、確かめるようにゆっくり動く。

 今夜、酒場でも何度か触れられている。笑いながら肩を叩かれたときも、狭い卓の下で膝が当たったときも、ニコは何とも思わなかった。


 相手のことだって、嫌いではない。

 ここへ来ることを決めたのは自分で、誰かに押し込まれたわけでも、無理に連れてこられたわけでもない。

 だから、そのまま流れに身を任せればよかった。いつもと同じように。

 けれど、もう一度その手が触れたとき、胸の奥のどこかに、薄い膜のようなものが張った。

 拒絶と呼ぶにはあまりにも頼りなく、嫌悪と呼べるほどはっきりした色もないのに。


 ニコは瞬きをして、目の前の顔を見る。

 別に、嫌じゃない。顔を見ても、そう思う。

 今日初めて会ったわけでもないし、話していて楽しかったし、笑った顔だって嫌いではない。誘われたときも、この部屋へ来る途中も、一度だって帰りたいとは思わなかった。

 それなのに、この先もう少しだけ距離がなくなることを想像すると、胸の奥に生まれた薄い膜が、さっきよりもはっきりそこにある。

 痛くも怖くもないのに、ただ、なんとなく。


(――やだな)


 そこまで考えてから、ニコは自分で驚いた。


「……あれ」


 唇から零れた声は、目の前にいる相手へ向けたものというより、自分自身へ向けたものだった。

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