だれでもよかった -2-
「ん?」
「いや……」
なんだろう。自分でも、わからない。
体調が悪いのかと思って、ニコは自分の身体へ意識を向けてみた。
頭は痛くないし、吐き気もない。酒だって、足元が怪しくなるほど飲んではいないし、考えようと思えばちゃんと考えられる。
ならば相手のせいなのかと、もう一度その顔を眺めてみるが、やはりそこにも理由らしいものは見つからなかった。
むしろ相手は、ニコが急に黙り込んだことに気づいて手を止め、どうしたのだろうという顔でこちらを窺っている。
優しい人だと思う。たぶん、いい人だ。だったらなおさら、わからなかった。
「ニコ?」
「んー……」
呼ばれて顔を上げると、ほんの少し前まで何とも思わなかった距離が、今度は妙に近く感じられた。
このまま続けたいかと聞かれたら、どうやら答えは違うらしい。
そのことが、相手に断りを入れることよりも、ニコにはずっと奇妙だった。
これまでにも、似たような夜はいくらでもあった。特別な存在なんて、ニコにはいらない。話していて楽しくて、嫌ではなくて、お互いにそうしたいなら、それで十分。
なのに今夜は、その「嫌じゃない」と「したい」の間に、これまで意識したこともなかった、明確な隙間を感じる。
嫌いではないのに、嫌なことをされたわけでもないのに。
それでも、したくない。
そんなことがあるのかと、ニコは二十一年生きてきて、今さら初めて知ったような気がした。
何か理由があるのだろうかと思いながら、自分の膝へ視線を落とす。
その向こうにある、床へ重なった二人分の影。
飲みかけの水に、机の端へ置いた、自分のカメラ。
答えがどこかに書いていないかと、順番に眺めてみたけれど、もちろん、そんなものはどこにもなかった。
「……ごめん」
「どうした?」
「えと、なんかさ」
ニコは首の後ろへ手をやって、少しだけ考えた。
適当な理由をつけることなら、簡単にできる。相手を傷つけずにこの場を終わらせるための言葉なんて、探せばいくらでも見つかるだろう。
飲みすぎたでも、明日が早いでも、少し具合が悪いでも、なんでもいいのだから。
なのに今は、そうやって取り繕うことすら妙に面倒だ。そもそも自分自身にも理由がわからないのだから、うまく説明できるはずもない。
結局ニコは、自分の中にあるものを、わからないまま口にした。
「なんかー、気分じゃなくなっちゃったかも」
部屋に沈黙が落ちる。
相手が少し目を丸くしたので、ニコは申し訳なさそうに眉を下げた。
「ごめんね」
「いや……、それは別にいいけど」
「ほんと?」
「嫌なら仕方ないだろ?」
「……そっか。そだね」
ほっとした。そして、ほっとした自分に、ニコはまた驚いた。
断ることができて安心したというだけなら、まだわかる。
けれど立ち上がり、脱いでいた上着へ腕を通して、机の上に置いていたカメラのストラップを首へ掛けた瞬間。
胸元へ戻ってきた馴染みの重みと一緒に、さっきまで身体のどこかへ引っかかっていたものまで、少し軽くなったような気がした。
帰れる。ふと、そう思った。
「ほんと、ごめん。またね」
「気にすんな。気をつけて帰れよ」
「うん」
扉を開けて、廊下へ出る。
背後で扉が閉まると、部屋の中にあった暖かな空気も、知らない匂いも、一枚の板を隔てた向こう側へ消えていった。
狭い廊下は静かで、壁際に並んだ扉の向こうからも、人の声はほとんど聞こえない。
ニコはさっき上ってきたばかりの階段を、一段ずつ下りていった。
古い階段は踏むたびに小さく軋み、その音へ重なるように、自分の靴音も下へ下へと落ちていく。
ほんの少し前に、二人で歩いた道。それなのに、今は一人だ。
ニコは建物の前で足を止め、何となく振り返った。
三階、右、奥から二番目。
どの窓だったかは、もうわからなかった。
「……なんだったんだろ?」
ニコの声は湿った夜気の中へ思っていたより小さく落ちて、そのまま返事もなく消えていった。
ポケットへ手を突っ込むと、指先に紙の感触が触れた。
取り出してみれば、何度か折り畳まれた小さな紙片に、自分の字で短い単語がいくつか並んでいる。
いつ書いたものだったか、少し考えたが思い出せない。
「……これもわかんないや」
捨てようかと思って、やめた。もう一度折ってポケットへ戻し、代わりに胸元のカメラへ触れる。
カメラの硬い輪郭だけは、いつもと同じだった。
自分の部屋へ帰って、寝よう。そう考えて、ニコは歩き出した。
今日はもう、なんだかよくわからない。明日になれば忘れているかもしれない。忘れてしまえば、きっとそれで済むだろう。
そう思いながら、最初の角を曲がった。それからもう一つ、細い路地を抜けて、大通りへ出る。
街灯の下をいくつか通り過ぎたところで、ニコはふと足を止めた。
「……あれ?」
周囲を見回す。見慣れた道だったからこそ、すぐにわかった。
自分の部屋へ戻るなら、最初の角は逆に曲がるべきだったのだ。
「…………」
ニコは、来た道を振り返った。たいした距離でもないのだから、戻ろうと思えば、すぐ戻れる。
さっきの角まで歩いて、反対へ曲がればいいだけなのに、なぜか足が動かなかった。
道を間違えただけ。考え事をしていたから、いつもの癖で違う道へ入ってしまったのかもしれない。
そこまで考えて、ニコは少しだけ首を傾げた。
この道を通ること自体は、珍しくない。むしろ、何度も歩いている。
腹が減って、何かないかと覗きに行ったとき。眠れなくて、何となく転がり込んだり、酔って帰るのが面倒になったとき。くだらないものを見つけて、見せに行ったときも。
そもそも理由なんて、あったりなかったりした。
行けばだいたい、呆れた顔をされるし、また来たのかと言われることもある。
それでも追い返されたことはなかった。ニコの自室が半分物置と化して、ほとんどの時間を彼の部屋で過ごしているのは、そのせいだ。
「……まあ、いっか」
ニコはぽつりと呟き、結局引き返さなかった。自分が道を間違えていることを、今度はちゃんとわかったままで歩き出す。
濡れた街を進むにつれて、周囲の景色は少しずつ見慣れたものへ変わっていく。
胸元では、歩調に合わせてカメラが揺れている。一定の間隔で身体へ触れるその重みを、ニコは途中で一度、掌で押さえた。
気づけば、さっきより歩くのが速くなっていた。
(なんで俺、急いでるんだろ?)
待っていると言われたわけでもない。帰ると約束したわけでもない。だから、急ぐ必要なんてどこにもないのに、足は止まらなかった。
さっきまでいた部屋を思い出す。
知らない匂いや、柔らかすぎるソファ。近づいてきた顔。そして、身体に触れた手。
嫌ではなかった。本当に、嫌ではなかったのだ。相手は何も悪くない。それなのに。
「……なんか、やだったんだよなぁ」
歩きながら小さく呟いてみても、理由はやっぱり出てこない。
何が嫌だったのか、どうして急にそう思ったのか。考えれば考えるほど、答えは曖昧になっていった。
その代わり、足を進めるほどに、さっきまで胸の内側へ薄く張りついていた膜のようなものが、少しずつ剥がれていく。
呼吸が楽になっていることに気づいたのは、見慣れた建物が通りの向こうへ現れたときだった。
「……あ」
ニコは足を止めた。
何度も見上げた建物の、そのうちの一つの窓に、まだ灯りがついている。
カーテン越しに滲んだ暖かな色が、濡れた夜の中へ四角く浮かんでいた。
(まだ、起きてる)
そう思った瞬間、胸の奥に残っていたものが、ふっと緩んだ。
自分でもわかるくらい、肩から力が抜けたけれど、それがまたニコには不思議だった。
(別に、教官に何かしてほしくて来たわけじゃないのに)
飲んで、誘われて、ついていって、途中でなんとなく嫌になったから帰ってきた。
それだけだ。教官に話すようなことでもない。
それなのに、その窓に灯りが残っているのを見ただけで、ひどく安心した。
「……変なの」
ニコは、小さく笑った。
自分の部屋へ帰るつもりだった。それなのに道を間違えて、間違えたことに気づいても戻らず、気づけばここまで歩いてきていた。
そこでようやく、自分が何をしていたのかを、ニコはぼんやり理解した。
(俺、教官のとこに帰ってきたんだ)
その事実は、思ったほど大きな驚きにはならなかった。
そういえばそうだね、とでも言うように、妙にすんなり胸の中へ収まった。
何度も来た場所、何度も開けた扉。眠ければソファを借りたし、腹が減れば何かないかと勝手に探した。
任務の記録を持ち込んで、そのまま長居することもあったし、何の用もないのに居座って、教官が仕事をする横で、カメラを弄っていたこともある。
今夜だって、それと同じなのかもしれない。そういうことにして、ニコは入口へ向かった。
今夜ここへ戻るなんて、約束していない。それでも手は、迷うことなく見慣れた取っ手へ伸びた。
『緊急時のために』と渡されたのに、入り浸るために使っている合鍵で、何度もそうしてきたように、扉を開ける。
夜の冷気とは違う、馴染んだ空気が内側からゆるく流れてきた。
革の匂いと、冷めかけたコーヒーの、微かな香り。それから、その奥に確かにある人の気配。
さっきの部屋にも、人の匂いはあったはずだ。それと何が違うのかは、まだわからない。
胸元では、歩いている間ずっと揺れていたカメラが、ようやく落ち着いた。
そしてニコは、いつもと何ひとつ変わらない声で、奥にいる男へ告げた。
「……ただいま、教官」
どうして今夜、自分がここへ帰ってきたのかは、まだわからなかった。




