だれでもよくない -1-
【今回のお話】
『だれでもよかった』から続いています。
どうして自分が教官のところへ帰ってきたのか。ニコが、その理由を見つけるお話。
二人の関係が変わる、最初の夜。
奥にあった、人の気配が動いた。
テーブルの上には開いたままの書類が重なっていて、傍らのカップは、とうに湯気を失っている。いつからそこに座っていたのか、長い赤髪はいつもよりいくらか緩くまとめられていた。
ダリオは眉を寄せ、眼鏡の奥から、部屋に入ってきたニコをまっすぐ見つめる。その姿を見た瞬間、ニコは自分でも気づかないうちに、小さく息を吐いていた。
「……お前、戻らないんじゃなかったのか」
「ん、そのつもりだったんだけど」
「何かあったか」
返事を待つ間さえなかった。問いかける声が一段低くなったのを聞いて、ニコは少し、目を丸くする。
「へ、なんで」
「なんでじゃねぇ。朝まで戻らねぇかもしれないと言った奴が、こんな時間に戻ってくりゃ、何かあったと思うだろ 」
「俺、教官に予定なんて言ったっけ?」
「言った。メモも取ってある」
ダリオは紙片を持ち上げ、ひらりと振ってみせた。
そうだった。自分で言ったらしい。言われてみれば、そんな気もする。
ニコはそっか、と曖昧に頷きながら部屋の中へ入り、いつもの場所へカメラを置こうとして、途中で手を止めた。
身体がもう、ここへ泊まるときの手順を勝手に始めている。おかしいなと思いながらも、結局ニコは、いつもの棚の端へカメラを置いた。
「別に、なんにもないよ」
「なら、なんで戻ってきた」
「んー。……なんとなく?」
「なんなんだよ」
呆れたような声も、いつもと同じだった。
ニコはなんとなく笑みを作って、上着を脱いだ。いつもなら適当なところへ放り投げるそれを、ダリオが無言で手を出して受け取る。
渡して、受け取られる。それすら、何度繰り返したのかわからない。
ダリオはニコの上着を椅子の背へ掛けながら、それでもまだこちらを見ていた。
「飲んできただろ」
「ちょっとねー。そんな飲んでないよ。水も飲んだし」
「気分は」
「悪くない」
「頭痛は」
「ない」
「吐き気」
「ないってば」
矢継ぎ早に確認されて、ニコはとうとう吹き出した。
「教官、俺べつに病人じゃないよ?」
「だったら、こんな妙な帰り方するな」
ダリオはそこで一度言葉を切り、ニコの顔をじっと眺めた。
視線が額から目元へ、それから頬、口元へと移って、何かを探している。怪我でもないかと見ているのだろう。
任務から帰れば同じように見られるし、少しでも顔色が悪ければ寝ろと言われる。
本人が平気だと言っても信用しない。ひどいときには食事をしたか、水を飲んだか、いつ寝たのかまで確認されるので、ニコはいつも、尋問だと思っている。
鬱陶しいと思うことはあるけれど、嫌だと感じたことは、一度もない。
「……ほんとに、なんにもされてないよ」
「されてない?」
言ってしまってから、余計な言い方をしたと思った。案の定、ダリオの表情が変わる。
眉間の皺が深くなり、こちらを見ていた目から、それまであった呆れの色が消えた。
「ニコ、お前どこにいた」
「知り合いのとこ」
「誰だ」
「えーとね」
名前を答えようとして、ニコは口を閉じた。
覚えていた。さっきまでは。
「名前はいい。そいつに何かされたのか」
「されてないよ。俺がついてっただけ」
「……そうか」
短い返事のあとに落ちた沈黙は、それまでのものより少し重かった。
ニコはその意味を、よく知っている。ダリオは、誰とどこへ行ったのかを責めたことはない。
危険なことをするなとは言う。知らない相手を信用するな、とも。
けれど、誰と寝るなとは、一度も言わなかった。自分で決めたことなら、自分で責任を持て。それがこの人の言い分だ。
「で? 何があった」
「だからぁ、……何もないんだって」
「何もない奴が途中で帰ってくるか」
「途中なんて言ってないけど」
「……お前」
低い声が落ちる。また、余計なことを言ったらしい。
けれどダリオはそれ以上追及することなく、眼鏡を外すと、眉間を指で押さえた。
「座れ」
「怒ってる? ちょっと怒ってない?」
「いいから、怒ってねぇから座れ」
「はぁい」
ニコは笑いながら、見慣れたソファへ腰を下ろした。
さっきの部屋にも、ソファがあった。
あちらのほうがずっと柔らかかったのに、今は座った瞬間、背中から余計な力が抜けていくのがわかった。
(教官のにおいがする)
ニコはそのまま深く凭れ、長く息を吐いた。
少しして、目の前へグラスが差し出される。
「さっき飲んだよ?」
「もう一杯飲め」
「わかったよー」
受け取るとき、指先が、一瞬だけ触れた。
ほんの一瞬、グラスを渡すために必要な、それだけの接触でしかない。
「どうした」
「いや……」
ニコはグラスを持ったまま、自分の指を見る。当たり前だが、何もない。
それでも、さっきの部屋で触れられたときのことを、思い出してしまった。肩に、腕に。もっと近いところにも。
嫌ではなかったのだ。何度考えても、そこは変わらない。
それでも、さっきはあんなに続けたくないと思ったのに。今触れたのは、ほんの指先だけだったのに。
「……ね。ちょっと手、貸してくれる?」
もう、机へ戻ろうとしていたダリオを、ニコは呼び止めた。
「何だ」
「いいから」
怪訝そうな顔をしながらも、ダリオは手を差し出した。
見慣れた、大きな手だった。引っ張り起こされたことも、包帯を巻かれたことも、熱を出した額に置かれたこともある。
ニコはその手をしばらく見つめてから、自分の指先を重ねた。
「……ニコ?」
「んー」
掌を触り、指に触れる。何を確かめているのか、自分でもよくわからないまま、骨張った指の形を辿った。
ダリオはただ、訝しげにニコを見下ろしている。
少しだけ、指へ力を込めてみる。やっぱり嫌じゃない。
「お前、何してる」
「わかんない」
「は?」
「俺もわかんないんだって」
正直に答えると、ダリオの眉間にまた皺が寄った。
ニコは手首へ、それから袖口を辿って、腕へと触れていく。布越しの硬さも体温も、初めて知るものではないのに、今夜は、ひとつひとつ確かめずにはいられない。
さっきは、触れられることが嫌になった。今は、自分から触れている。
「……やっぱ平気だ」
「何が」
「教官は、平気」
「何の話だ」
「ん-、さっきさぁ? ……一緒にいた人に触られたんだけど、途中で、なんか嫌になったんだよね」
ニコは手を離さずに続けた。ダリオは表情を失ったままで、何も言わない。
「その人が嫌いだったわけじゃないよ。嫌なことされたわけでもないし、俺もいいよって言ってついてったし。最初は、ほんとに何ともなかったんだけど」
話しながら、ニコは自分でも考える。
何が嫌だったのか。どうして帰ったのか。まだ、答えは出ない。
「途中で、もういいかなってなったんだ。触られるのも、なんか違うなあって」
「それで、帰ってきたのか」
「うん」
「……そうか」
ダリオの返事はそれだけだった。責めるでも、茶化すでもない。
ただ事実を受け取っただけの声で、それを聞いていると、ニコは続きを話してもいいような気がした。
「でもさ、教官は平気なんだよね」
握ったままの手を、少しだけ持ち上げる。重たい。
「こうしてても、別に嫌じゃない。……あんたなら、嫌じゃないのかも」
「……ニコ。お前、自分が何言ってるかわかってるか」
「わかんない。けど、ほんとのことだよ」
ダリオは答えない。耳が痛くなりそうな、長い沈黙だった。
普段なら、返事がなければ別のことに気を取られているくせに、今夜のニコはなぜか待っていた。
やがてダリオは深く息を吐いて、顔を背けた。
「……今日は寝ろ」
「やだ」
今夜二度目の、明確な拒絶だった。
さっきは、触れられ続けるのが嫌だった。今は、ここで終わりにされたくない。
「酔ってないよ、まだ眠くもないし」
「……いいから、もう寝ろ」
「なに、何が言いたいの?」
ニコは、じっとダリオの横顔を見つめた。言葉を選んでいるのではなく、何かを堪えているような沈黙だった。
長い赤髪と、少し伸びた髭。いつものように、眉間に残った皺。何度も見てきたはずなのに、こんなふうに眺めたことは、なかった気がする。
「俺さ、わかんないんだよね」
「何が」
「なんで帰ってきたのかも。なんであの人が嫌になったのかも。……教官のとこ来たら、平気になったのも」
自分でも整理できていないものを、ひとつずつ、並べていく。
「最初は自分の部屋に帰るつもりだったんだけど、道間違えてさ。ちゃんと途中で気づいたんだけど」
「本当かよ」
「ほんとだよ。でもまあいっかーってそのまま歩いてたら、ここに来てて。灯りついてるの見たら、なんか……、安心した」
「…………」
「さっきの人は、嫌いじゃなかったよ。誘われたときもいいよって思ったし、部屋行っても平気だった。だから俺も、わけわかんない」
ニコは首を傾げて少し考え、続けた。
「でも触られたら、やだった。それで、あんたの手触ったら、平気だった」
平気。本当に、それだけだろうか。
拾ってくれて、怒ってくれて、いつも自分の世話を焼く人。何度忘れても、また教えてくれて。
そして今夜、理由もわからないまま、自分が帰ってきてしまった場所。
胸の奥で、何かが、ゆっくり形を持ち始めていた。




