↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【BL】教官は、俺を好きになっちゃだめらしい。  作者: 彩羽やよい


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

15/32

だれでもよくない -1-

【今回のお話】

 『だれでもよかった』から続いています。

 どうして自分が教官のところへ帰ってきたのか。ニコが、その理由を見つけるお話。

 二人の関係が変わる、最初の夜。

 奥にあった、人の気配が動いた。

 テーブルの上には開いたままの書類が重なっていて、傍らのカップは、とうに湯気を失っている。いつからそこに座っていたのか、長い赤髪はいつもよりいくらか緩くまとめられていた。

 ダリオは眉を寄せ、眼鏡の奥から、部屋に入ってきたニコをまっすぐ見つめる。その姿を見た瞬間、ニコは自分でも気づかないうちに、小さく息を吐いていた。


「……お前、戻らないんじゃなかったのか」

「ん、そのつもりだったんだけど」

「何かあったか」


 返事を待つ間さえなかった。問いかける声が一段低くなったのを聞いて、ニコは少し、目を丸くする。


「へ、なんで」

「なんでじゃねぇ。朝まで戻らねぇかもしれないと言った奴が、こんな時間に戻ってくりゃ、何かあったと思うだろ 」

「俺、教官に予定なんて言ったっけ?」

「言った。メモも取ってある」


 ダリオは紙片を持ち上げ、ひらりと振ってみせた。

 そうだった。自分で言ったらしい。言われてみれば、そんな気もする。

 ニコはそっか、と曖昧に頷きながら部屋の中へ入り、いつもの場所へカメラを置こうとして、途中で手を止めた。

 身体がもう、ここへ泊まるときの手順を勝手に始めている。おかしいなと思いながらも、結局ニコは、いつもの棚の端へカメラを置いた。


「別に、なんにもないよ」

「なら、なんで戻ってきた」

「んー。……なんとなく?」

「なんなんだよ」


 呆れたような声も、いつもと同じだった。

 ニコはなんとなく笑みを作って、上着を脱いだ。いつもなら適当なところへ放り投げるそれを、ダリオが無言で手を出して受け取る。

 渡して、受け取られる。それすら、何度繰り返したのかわからない。

 ダリオはニコの上着を椅子の背へ掛けながら、それでもまだこちらを見ていた。


「飲んできただろ」

「ちょっとねー。そんな飲んでないよ。水も飲んだし」

「気分は」

「悪くない」

「頭痛は」

「ない」

「吐き気」

「ないってば」


 矢継ぎ早に確認されて、ニコはとうとう吹き出した。


「教官、俺べつに病人じゃないよ?」

「だったら、こんな妙な帰り方するな」


 ダリオはそこで一度言葉を切り、ニコの顔をじっと眺めた。

 視線が額から目元へ、それから頬、口元へと移って、何かを探している。怪我でもないかと見ているのだろう。


 任務から帰れば同じように見られるし、少しでも顔色が悪ければ寝ろと言われる。

 本人が平気だと言っても信用しない。ひどいときには食事をしたか、水を飲んだか、いつ寝たのかまで確認されるので、ニコはいつも、尋問だと思っている。

 鬱陶しいと思うことはあるけれど、嫌だと感じたことは、一度もない。


「……ほんとに、なんにもされてないよ」

「されてない?」


 言ってしまってから、余計な言い方をしたと思った。案の定、ダリオの表情が変わる。

 眉間の皺が深くなり、こちらを見ていた目から、それまであった呆れの色が消えた。


「ニコ、お前どこにいた」

「知り合いのとこ」

「誰だ」

「えーとね」


 名前を答えようとして、ニコは口を閉じた。

 覚えていた。さっきまでは。


「名前はいい。そいつに何かされたのか」

「されてないよ。俺がついてっただけ」

「……そうか」


 短い返事のあとに落ちた沈黙は、それまでのものより少し重かった。

 ニコはその意味を、よく知っている。ダリオは、誰とどこへ行ったのかを責めたことはない。

 危険なことをするなとは言う。知らない相手を信用するな、とも。

 けれど、誰と寝るなとは、一度も言わなかった。自分で決めたことなら、自分で責任を持て。それがこの人の言い分だ。


「で? 何があった」

「だからぁ、……何もないんだって」

「何もない奴が途中で帰ってくるか」

「途中なんて言ってないけど」

「……お前」


 低い声が落ちる。また、余計なことを言ったらしい。

 けれどダリオはそれ以上追及することなく、眼鏡を外すと、眉間を指で押さえた。


「座れ」

「怒ってる? ちょっと怒ってない?」

「いいから、怒ってねぇから座れ」

「はぁい」


 ニコは笑いながら、見慣れたソファへ腰を下ろした。

 さっきの部屋にも、ソファがあった。

 あちらのほうがずっと柔らかかったのに、今は座った瞬間、背中から余計な力が抜けていくのがわかった。


(教官のにおいがする)


 ニコはそのまま深く凭れ、長く息を吐いた。

 少しして、目の前へグラスが差し出される。


「さっき飲んだよ?」

「もう一杯飲め」

「わかったよー」


 受け取るとき、指先が、一瞬だけ触れた。

 ほんの一瞬、グラスを渡すために必要な、それだけの接触でしかない。


「どうした」

「いや……」


 ニコはグラスを持ったまま、自分の指を見る。当たり前だが、何もない。

 それでも、さっきの部屋で触れられたときのことを、思い出してしまった。肩に、腕に。もっと近いところにも。

 嫌ではなかったのだ。何度考えても、そこは変わらない。

 それでも、さっきはあんなに続けたくないと思ったのに。今触れたのは、ほんの指先だけだったのに。


「……ね。ちょっと手、貸してくれる?」


 もう、机へ戻ろうとしていたダリオを、ニコは呼び止めた。


「何だ」

「いいから」


 怪訝そうな顔をしながらも、ダリオは手を差し出した。

 見慣れた、大きな手だった。引っ張り起こされたことも、包帯を巻かれたことも、熱を出した額に置かれたこともある。

 ニコはその手をしばらく見つめてから、自分の指先を重ねた。


「……ニコ?」

「んー」


 掌を触り、指に触れる。何を確かめているのか、自分でもよくわからないまま、骨張った指の形を辿った。

 ダリオはただ、訝しげにニコを見下ろしている。

 少しだけ、指へ力を込めてみる。やっぱり嫌じゃない。


「お前、何してる」

「わかんない」

「は?」

「俺もわかんないんだって」


 正直に答えると、ダリオの眉間にまた皺が寄った。

 ニコは手首へ、それから袖口を辿って、腕へと触れていく。布越しの硬さも体温も、初めて知るものではないのに、今夜は、ひとつひとつ確かめずにはいられない。

 さっきは、触れられることが嫌になった。今は、自分から触れている。


「……やっぱ平気だ」

「何が」

「教官は、平気」

「何の話だ」

「ん-、さっきさぁ? ……一緒にいた人に触られたんだけど、途中で、なんか嫌になったんだよね」


 ニコは手を離さずに続けた。ダリオは表情を失ったままで、何も言わない。


「その人が嫌いだったわけじゃないよ。嫌なことされたわけでもないし、俺もいいよって言ってついてったし。最初は、ほんとに何ともなかったんだけど」


 話しながら、ニコは自分でも考える。

 何が嫌だったのか。どうして帰ったのか。まだ、答えは出ない。


「途中で、もういいかなってなったんだ。触られるのも、なんか違うなあって」

「それで、帰ってきたのか」

「うん」

「……そうか」


 ダリオの返事はそれだけだった。責めるでも、茶化すでもない。

 ただ事実を受け取っただけの声で、それを聞いていると、ニコは続きを話してもいいような気がした。


「でもさ、教官は平気なんだよね」


 握ったままの手を、少しだけ持ち上げる。重たい。


「こうしてても、別に嫌じゃない。……あんたなら、嫌じゃないのかも」

「……ニコ。お前、自分が何言ってるかわかってるか」

「わかんない。けど、ほんとのことだよ」


 ダリオは答えない。耳が痛くなりそうな、長い沈黙だった。

 普段なら、返事がなければ別のことに気を取られているくせに、今夜のニコはなぜか待っていた。

 やがてダリオは深く息を吐いて、顔を背けた。


「……今日は寝ろ」

「やだ」


 今夜二度目の、明確な拒絶だった。

 さっきは、触れられ続けるのが嫌だった。今は、ここで終わりにされたくない。


「酔ってないよ、まだ眠くもないし」

「……いいから、もう寝ろ」

「なに、何が言いたいの?」


 ニコは、じっとダリオの横顔を見つめた。言葉を選んでいるのではなく、何かを堪えているような沈黙だった。

 長い赤髪と、少し伸びた髭。いつものように、眉間に残った皺。何度も見てきたはずなのに、こんなふうに眺めたことは、なかった気がする。


「俺さ、わかんないんだよね」

「何が」

「なんで帰ってきたのかも。なんであの人が嫌になったのかも。……教官のとこ来たら、平気になったのも」


 自分でも整理できていないものを、ひとつずつ、並べていく。


「最初は自分の部屋に帰るつもりだったんだけど、道間違えてさ。ちゃんと途中で気づいたんだけど」

「本当かよ」

「ほんとだよ。でもまあいっかーってそのまま歩いてたら、ここに来てて。灯りついてるの見たら、なんか……、安心した」

「…………」

「さっきの人は、嫌いじゃなかったよ。誘われたときもいいよって思ったし、部屋行っても平気だった。だから俺も、わけわかんない」


 ニコは首を傾げて少し考え、続けた。


「でも触られたら、やだった。それで、あんたの手触ったら、平気だった」


 平気。本当に、それだけだろうか。

 拾ってくれて、怒ってくれて、いつも自分の世話を焼く人。何度忘れても、また教えてくれて。

 そして今夜、理由もわからないまま、自分が帰ってきてしまった場所。

 胸の奥で、何かが、ゆっくり形を持ち始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。