だれでもよくない -2-
「教官、こっち来て?」
「……何のために」
「わかんない。でも、ちょっとでいいから」
ニコは、掴んでいた手を引いた。
ニコの力で、ダリオが本気で抵抗すれば動くはずもない。それでも彼は、わずかな間を置いてから、仕方ないというようにソファの端へ腰を下ろした。
座面が沈む。大きな身体が隣へ来ただけで、狭くもないソファが、急に小さく感じられる。
ニコは少し身体を傾けて、肩を触れさせた。もう少しだけ、と体重を預けてみても、ダリオの身体はびくともしない。
「……ニコ」
「ん?」
「眠いなら寝ろ。重い」
「俺が寄りかかったくらいで、重くなんかないでしょ」
ニコは少し笑って、額を肩へ寄せた。
革と、紙と、煙草の残り香。外気の匂い。それから、馴染んだ、この人自身の匂い。
さっきの部屋にも、人の匂いはあった。あれが嫌だったのだろうか。けれど今まで、そんなことを気にしたことはなかった。
なら、何が違う。
目を閉じて、考える。肩に触れて、腕が隣にあって、脚が少し当たっている。
さっきと同じくらい、人が近くにいるのに、身体のどこにも、あの薄い膜は生まれなかった。
むしろ、もう少し近くてもいい。
そう気づいた瞬間、ニコは目を開けた。
「……あ」
「今度は何だ」
ダリオが、呆れたように見下ろしてくる。ニコはしばらく、その顔を見ていた。
そしてようやく、本当にようやく、自分の中にあるものへ、ひとつだけ言葉を与えた。
「教官だったら、いいかも」
「……何が」
わかっているくせに。わかっていてダリオは聞いていると、ニコは気付いていた。
だから今度は、曖昧にしない。
「さわられるの」
時計の針の音まで聞こえそうな、長い沈黙。
ダリオは手も伸ばさず、距離も詰めずに、ひどく困った苦しそうな目で、ニコを見ていた。
「……教官は、嫌?」
「俺が嫌だとか、……そういう話じゃねぇ」
「じゃあ何?」
「今、お前が混乱してるだけかもしれねぇだろ」
「そうかも。……でも、今思ったんだよ」
「明日になっても同じなら、そのとき考えろ」
「忘れたら? 俺、すぐ忘れるじゃん」
冗談のつもりで、いつものように、軽く言っただけだった。
けれどダリオは笑わない。その目を見ているうちに、ニコの笑みも、少しずつ消えていく。
これまでなら、忘れてしまってもそれでよかった。忘れたら写真を見て、記録を見て。残っていなければ、それまでだ。
けれど、今夜のこれは。
ニコは自分でも不思議に思いながら、続けた。
「……でもこれは、忘れたくないな」
忘れたくないと口に出したとたん、その言葉は、胸の奥へ重く沈んだ。
ダリオがふっと息を止めたのがわかって、ニコは視線を落とした。
自分から重ねた、ふたりぶんの手。握り返してはくれないから、もう少しだけ、指を絡めた。
「教官」
「……何だ」
「俺、帰ってきたよ。教官のとこに。なんでかわかんなかったけど、帰りたかったんだと思う」
ニコは少し、眉を下げて笑った。いつもの、誰かとの距離を埋めるための笑みとは、どこか違った。
ただ、この人がこんな顔をするのを見たことがなくて。なんとなく、触れたくなった。
空いている手を伸ばして頬に触れると、無精髭の感触が指先に引っかかった。少しざらついているそれが妙に面白くて、親指で幾度か撫でる。
ダリオは逃げもしないが、自分から近づいてもこない。最後のところだけは、ニコに任せているようだった。
だからニコは、自分から少しだけ身体を寄せた。「別にいいよ」と誰かが近づいてくるのを待つのではなく、自分が距離をなくしていく。
呼吸が近くなる。触れようと思えばもう、すぐ触れられるところで、ニコは一度止まった。
胸の奥を探してみても、あの薄い膜はない。嫌だと思うものは、どこにもない。
それどころか、もう少し、とさえ思った。
「わかった」
「何が」
「さっきと違う。俺が、こうしたいんだって」
その一言で、ダリオの目が変わった。
初めて見る目だった。いつもの教官としての目線も、保護者としてこちらに向けてくる視線とも違う。その目を向けられていることが、どこかニコの胸の奥を擽る。
ニコは、残っていたわずかな距離を、自分からなくした。
唇が触れるだけの、浅い口づけ。すぐに離れたそれを、ダリオは追ってこなかった。
「……嫌じゃない」
「ニコ」
「ううん、嫌じゃない、じゃなくて」
言いかけて、ニコは口を閉じた。さっきまで使っていた言葉が、急に足りなくなる。
教官なら、嫌じゃない。
教官だったら、いいかも。
どちらも本当なのに、いま胸にあるものには届かない。
言葉を探して、探して。ニコは、ゆっくり口を開いた。
「教官なら、じゃなくてさ」
「……」
「俺、……教官が、いい」
ダリオの手が、止まった。
重ねられていただけの手が、握り返そうとして、途中で止まったのがわかる。息が詰まる音が、すぐそばで聞こえた。
視線が逸れて、床のあたりへ落ちて、それから、ためらうようにニコへ戻ってくる。
ずっと欲しかったものを、突然差し出されたような、そんな顔だった。そして、それを受け取っていいのかを、まだ迷っている顔でもある。
ニコには、そこまではわからない。ただ、この人がこんなふうに言葉を失うのを見たことがなくて、胸の奥に、じわりと何かが滲んだ。
「俺が、誘導したわけじゃねぇぞ」
「うん。俺が言ったの」
「明日、……後悔しても」
「しないよ、大丈夫」
ダリオが目を閉じ、長く、深い息が落ちる。それからゆっくりと、重ねた手が動いた。
長い指が、ニコの指を包む。それだけでニコは、胸の奥がいっぱいになるような感覚を覚えた。
「あとで、知らねぇって言うなよ」
低い声が落ち、ニコは少し考えて、笑った。
「忘れたら、教官が覚えててよ」
「……お前は」
「だって教官、覚えてるでしょ?」
何でも。自分が忘れてしまったことまで。
ダリオは何か言いかけて、結局、やめた。
代わりに、もう片方の大きな手が、ニコの頬へ触れた。いつもの手当てとは違う。熱を測るためでも、汚れを拭うためでもない。それを、ニコはすぐに理解した。
それでもやっぱり、嫌ではなかった。
掌へ、自分から頬を預けて、目を閉じる。指が髪へ触れ、耳のそばをゆっくり辿る。そのたびに、身体の内側へ、小さな感覚が落ちていった。
同じ「触れる」なのに、まるで違う。どうして違うのかは、まだうまく説明できない。
けれど、これならいいではなくて、これがいい。その違いだけは、もうわかった。
目を開けると、すぐ近くにダリオの顔があった。ニコはもう一度、自分から顔を寄せた。
今度の口づけは、さっきより、少しだけ長かった。
触れて、離れて、また触れる。
三度目に、ダリオのほうから唇を開いた。
舌先が、下唇をそっとなぞる。慎重で、ニコが逃げないかを、確かめるような動きだった。少しだけかさついた唇に、ゆっくりと押し広げられていく。
(……あれ)
キスなんて、これまでにいくらでもした。誘われて、頷いて、朝には手を振って。
だから、こんなことで慌てるほうがおかしい。
それなのに、頭の芯がぼうっとして、息の仕方がわからなくなる。手が勝手に、ダリオのシャツを握りしめていた。
(知ってるはず、なんだけどな)
唇が離れたときには、視界の縁が水を張ったように滲んで、まだ熱が残っていた。ダリオの吐息が、ニコの額へと落ちていく。
「……はぁ、っ」
「息しろよ」
「してるよ……」
「してねぇだろ」
呆れた声なのに、ニコの濡れた唇の端を拭ってくれる親指は、ひどく丁寧だった。
その指が顎をなぞり、喉へ降りて止まり、脈を測る。親指の下で、血管が激しく脈打っているのがわかった。ダリオの目が、その感触を確かめるように細くなる。
「……速いな」
「あんたのせい、でしょ……?」
ダリオの視線がニコの瞳から離れて、また戻ってくる。何かを言いかけてやめて、触れようとして手が一度、宙で止まる。
この人が、迷っている。
拾って育てて、叱って、守ってくれた人が、自分に触れることを、迷っている。この人が自分のために立ち止まっているのが愛おしくて、同時に、ひどくもどかしい。
「ねぇ」
「……何だ」
「ここじゃなくてもさ、いい? ソファじゃ、なくて」
ダリオがゆっくりとニコを見て、壁に落ちた影が、わずかに動いた。
ニコは、自分が何を選んだのかだけは、もうはっきりとわかっていた。
◆
身体を丁寧に拭われて、水を飲まされて、毛布を掛けられて。
ニコは、されるがままだった。指一本動かすのも億劫で、身体のあちこちが、ふわふわしている。
ニコは隣に横たわったダリオの胸へ、頬を押しつけた。
ためらいがちに、腕が背中へ回る。髪を撫でられて、ニコの瞼が重くなってくる。
「ねえ、教官」
「ん?」
「俺たぶん、ちゃんとした言葉、まだわかんないよ」
「……ああ」
「でも、忘れたくないって思った」
ダリオの腕に、少しだけ力がこもった。
ニコはくすくすと笑って、それから、声がふっと細くなる。
「……明日、忘れてたら、ちゃんと教えて」
「わかってる。今夜のことは、書く。……全部は、書かねぇけどな」
「教官、意外と意地悪だよね」
「バカか。全部書いてもいいのかよ」
「俺は、いーよ。べつに……」
ニコの笑い声が少しずつ小さくなり、やがて、規則正しい寝息に変わった。橙の光が、ニコの睫毛に小さな影を落としている。
ダリオは指で前髪をそっと払い、ニコの小さな額に唇を落とした。
◆
ダリオはしばらく、その寝顔を見つめていた。
睫毛の長い影。まだ少し赤い目尻。無防備に開いた唇。前髪を指で梳いても、ニコは目を覚まさなかった。
拾ったときから、ずっとそばにいた。誰と寝ても、誰と笑っても、それを止める資格は、自分にはないと思っていた。止めたいと思うこと自体が、間違いなのだとも。
だから、待ったこともない。選んでほしいと願ったこともない。
それなのに、この夜こいつは、自分の足で帰ってきた。
ダリオはそっとベッドを抜け出して机へ向かい、引き出しから日誌を一冊取り出す。開けば、見慣れた自分の字が並んでいる。
ダリオは眼鏡をかけ直して、ペンを取る。
夜明けまでは、まだ遠い。その間にも、世界のどこかで、誰かが何かを落とし続けている。
ペン先が、紙の上で、しばらく止まった。
書くべきことは、いくらでもあった。けれど、最初に書く一行は、決まっていた。
『ニコが、帰ってきた』と、それだけ書いて、ダリオは小さく息を吐いた。
零れたものは、何度でも拾えばいい。ペンを置いて、玄関のほうへ目をやる。
鍵は、とっくの昔に与えてあった。
この扉は、ずっと開けていた。閉じこめるためではなく、いつでも帰ってこられるように。
ベッドの上で、ニコがむにゃりと何か呟いて、寝返りを打った。ダリオは日誌を閉じ、静かに立ち上がって、その隣へ戻る。
すり寄ってくるニコに溜息をひとつつき、小さな頭の下に、腕を差し入れた。
夜が明けたら、もしかしたらニコは、忘れているかもしれない。
それでもいい。朝になったら最初から、話してやればいいのだから。




