境界線 -1-
【今回のお話】
ニコに手を出したことを、ひとりでモヤモヤしているダリオの話。『だれでもよくない』の翌朝です。
最初に火をつけた一本目の煙草が、いつのことだったのかは、もう覚えていない。
窓を細く開けた部屋には、早朝の冷えた空気が絶えず流れ込んでいた。それでも煙の匂いは抜けきらず、薄暗い天井のあたりに白く滞留している。
指に挟んだ煙草の先が、呼吸に合わせて赤く灯る。灰が伸びて、落とさなければと思いながら、ダリオはしばらくそのまま眺めていた。
やがて耐えきれなくなった灰が、音もなく灰皿へ落ちる。
「……何やってんだ、俺は」
声に出したところで、答える者はいない。
答えが欲しくて言ったわけでもないのだから、当然のことだ。自分でわかっている。だから、始末が悪い。
椅子の背へ深く身体を預けると、古い木材が、ダリオの体重を受けてわずかに軋んだ。いつものように結い上げず、そのままにしていた長い赤髪が、広い肩に散る。
卓上には飲みかけの水と灰皿。外した眼鏡。いつだったかニコが置いていった、端の折れ曲がった写真が一枚。
ダリオはそれを、何とはなしに手に取った。暗い路地が写っていて、何を撮りたかったのかよくわからない。
画面の半分は煉瓦壁で、もう半分には誰かの肩が入り込んでいる。構図も何もあったものではない。
ニコの写真には、こういうものが多い。
あいつは何でも撮る。忘れる前に必死で残そうとしているのかと思えば、本人はそうでもないらしい。
聞けば笑って『撮りたかったから』と、それだけで済ませる。
だからこそ昨夜の「忘れたくない」という言葉が、いつまで経っても耳から離れない。
あのニコが。昨夜のことだけは、自分との時間だけは失くしたくないと言った。
嬉しかったという、その事実を認めれば良いだけなのに、なぜこうも難しいのだろう。
ニコは自分の中から何かが零れ落ちていくことに、妙に頓着がない。
物はすぐ失くすし、食事をとるのもしょっちゅう忘れる。
なぜついたのかわからない傷を作って帰ってくる。昨日まで覚えていたことを、次の日には忘れている。
それで困った顔でもすればまだかわいげがあるのに、ニコはいつもヘラヘラと笑う。仕方ないね、とでもいうように。
そのたびに、拾うのは自分だった。
忘れたなら教えた。食っていなければ食わせた。怪我をしていれば手当てをした。
危ないことをすれば叱って、何度言っても直らなくても、何度でも言った。
飯を食わせることも、怪我の手当てをすることも、あいつの帰りを待つことも。全部、拾った人間の責任だと言ってしまえば、それ以上を考えずに済んだ。
実際ダリオには、そういう責任がなかったわけではないのだから。
ただ、いつからだったのだろう。 あいつが帰ってくることを、義務でも責任でもなく、ただ自分のために望むようになったのは。
昨夜は、その答えを突きつけられた気がした。
ダリオは写真を伏せた。
指先に挟まれた煙草が、また短くなっている。吸った記憶が、ほとんどない。
肺へ落とした煙を、長く吐いた。白い靄が窓から入る外気に崩され、形を失っていく。
――手を出すべきじゃなかった。
だが、昨夜のことを思い出すたび、真っ先に浮かぶのは罪悪感よりも、ニコが自分を見上げた顔だった。長い付き合いだというのに、まだ知らない顔があることに驚いた。
してはならないことをしたのだと考えようとするたび、記憶の中のニコが邪魔をする。
何度も考えた。ニコとの距離がおかしくなり始めた頃から、考えなかった日はない。
肩へ凭れて、腕へ絡みつく。
『緊急時のためだ』と、散々口を酸っぱくして伝えた合鍵。それを入り浸るために使い、勝手に部屋へ入って、眠ければ隣で寝る。
名前ではなく、いつまで経っても教官と呼ぶ。
そのくせときどき、教え子が教官へ向けるものとは思えない目をする。
最初は、気のせいだと思った。そう思うことにした。
ニコには距離感というものがない。昔からそうだ。人懐こく、気に入った相手には男だろうが女だろうが、すぐに距離が近くなる。
昨日知り合ったばかりの人間と酒を飲みに行くことにも、そのまま帰らず朝を迎えることにも、たいした違いを見出していない。
誰かと親しくなることに理由を求めず、親しくなったその先に何があったところで、それを関係の名前へ結びつけようともしない。
そういうところがあることを、ダリオはずっと前から知っていた。
知らないふりをしていただけだ。
帰りが遅かった夜もある。
見覚えのない上着を羽織って戻ってきたこともあれば、首筋に自分の知らない痕をつけて、何食わぬ顔で腹が減ったと言ったこともある。
どこにいたと聞けば、知り合った奴のところ。と答える。
誰だと聞けば、名前なんだっけ、忘れちゃった。と首を傾げる。
そこで、それ以上を聞かなかったのはダリオだった。
ニコはもう子供ではないし、嫌なことを嫌だと言えない男でもない。何をして、誰と過ごして、誰を自分の身体へ近づけるのか。それを決めるのはニコ本人で、自分ではない。
そう思うことにしていたけれど、本当に、それだけだったのか。
煙草を持つ指に、わずかに力が入った。
誰といた。
何をした。
そいつのことが好きなのか。
次も会うのか。
聞こうと思えば、いくらでも聞けたはずだった。
それを一度もしなかったのは、答えを聞く資格がないと思っていたからなのか、それとも、ただ聞きたくなかったからなのか。今となっては、どちらでも同じだった。
ニコにとって、誰かと身体を重ねることは、ダリオが考えているほど重い意味を持たない。
その夜が楽しかった。その相手が嫌ではなかった。今この瞬間は、相手のことが好きだった。
それだけで、ニコには十分なのだ。
ダリオはそれを知っていた。
知っていたくせに。都合よく、見なかった。
けれど、昨夜のニコは違った。
忘れたくないと言った。もし忘れてしまったら、教えてほしいと。
自分と過ごしたことを、自分を選んだことを。
そこまで考えたところで、ダリオは奥歯を噛み締めた。
深い意味などない。そういう奴だ。
だから、自分がその意味を与えてはいけない。何度も、そう言い聞かせてきたのに。
昨夜、ニコは逃げなかった。それどころか、自分からこちらへ来た。
それを嬉しいと、自分が選ばれたのだと、ほんの一瞬でも思ったことを思い出し、ダリオは眉間を押さえた。
「……クソ」
忘れてしまえばいいと思えない。なかったことにしたいとも思えない。それが何より気に入らない。
あの時間を間違いだったと切り捨てるには、自分は、あまりにも。




