境界線 -2-
煙草を灰皿へ押しつけ、火種が潰れる。焦げた匂いが鼻についた。
ニコは二十一だ。もう子供ではない。
そんなことは、わかっている。
いつまで経っても子供扱いしているから苦しいのではない。むしろ、とうに一人の男として見てしまっていたから、苦しい。
そのことを、どうしても認めたくなかっただけだ。
自分が拾い、自分が教えた。
自分を信用するようになったニコは、自分が呼べば来る。
叱れば、不満そうな顔をしながらも聞く。困ったときには、当然のようにこちらを見る。
その信頼を。昨夜、自分はどこまで都合よく解釈した。
ニコが自分を求めたことは疑っていない。
ほかの誰でもなく、自分がよかったのだと。昨夜のあいつは、確かにそう言った。ただ、その言葉を、明日も明後日も変わらない約束のように抱えていていいのかが、わからない。
今が、どれほど大切なものかは知っている。だからこそ、その先まで欲しがることが、ひどく身勝手なことに思えた。
胸の奥に、鈍いものが沈んでいる。
自分より、ずっと軽い身体を思い出す。いつも馬鹿みたいに大きな服を着ているせいで、わかりにくい。
飯を食えと何度言ってもろくに食わないことも、手首が細いことも。
任務から戻るたび身体のどこかに新しい傷を作っていることも。
全部知っていた。
(――やめろ)
思考を切り、ダリオは新しい煙草へ手を伸ばした。箱を振ってみれば、残りは少ない。
舌打ちして一本抜き取り、火をつけようとしたところで、寝室から足音が聞こえた。軽く迷いがない、聞き慣れた足音だった。
ダリオの大きなTシャツだけを身に着けたニコが、寝室から顔をのぞかせる。
「あ、起きてたんだ。おはよぉ」
「勝手に俺の服を着るな」
「えぇ? いいじゃん今さら」
「……お前その下、何も穿いてねえんじゃねえだろうな」
「どっかいっちゃったんだもん」
乱れた髪。耳元に散らばるピアス。眠そうに垂れた目。
昨日までと、何も変わらない。
変わってしまったのは、自分だけなのではないかと思うほどに。
「おなかすいた、なんかない?」
「知るか、自分で探せ」
「教官なんか作ってよ」
「……俺はお前の飯係じゃねぇ」
「え、ちがうの?」
ニコは口を尖らせた。そしてあまりにも自然な、躊躇のない足取りで、こちらへ歩いてくる。
ダリオの前まで来ると、卓上を覗き込み、それから伏せられた写真に気づいた。
「あ。それ俺の?」
「置いてったんだろ」
「ふうん。そうだっけ?」
ニコは笑って、そのまま、椅子に座るダリオの肩へ片手を置く。
昨日までなら何も考えなかっただろうし、もちろん払いのけることもしなかった。
今は、その手の重さひとつで身体が強張る。
その強張りに、ニコは敏感に気づいた。
「……なに? なんか変」
「変じゃねぇ」
「そう?」
「ああ」
淡い色の目が、こちらを覗き込んでいる。近い。
まただ、こいつはいつもそうだ。
人が引いた線を見つけると、まるでそこに線など存在しないかのように踏んでくる。
越えていることすら、わかっていないのかもしれない。
「教官? ……怒ってる?」
「怒ってねぇ」
「じゃあ、なんで怖い顔してんの」
「元からだ」
「あは、そだね」
何が面白いのか知らないが、また笑う。
ダリオは、肩へ置いた手を離さないニコの、その細い手首を見た。
両手をまとめたって、簡単に掴めると知っている。知ってしまった。
昨夜以前とは、違う意味で。喉の奥に苦いものがせり上がる。
「ニコ」
「ん?」
「昨日のことだけどな」
言った途端、ニコが瞬きをした。
それから、何か思い当たったように、少しだけ口角を上げた。
「……俺、ちゃんと覚えてるよ」
「……そうか」
「うん。覚えててよかった」
ニコは昨夜、忘れたくないと言ったのだ。だというのに自分は今、何を言おうとした。
「忘れろ」とでも? 違う。
「もうしない」それも違う。
「悪かった」何に対して。
口にすべき言葉が、どれも正しくない気がして、ダリオは黙った。
ニコはしばらく待っていたが、やがて首を傾げた。
「昨日のことが、なに?」
何でもない、と。そう言えば済む。
だが、それでは何も変わらない。
「……お前」
「うん?」
「後悔してねぇのか」
ようやく出た言葉は、情けないほど直接的だった。
ニコは青緑色の目を丸くした。
「なんで? 俺、なんか後悔するようなことした?」
「なんでって」
「だって俺、教官がよかったんだけど。それは今日になっても変わんないよ」
ニコがあまりにあっさりと言うので、ダリオは言葉を失った。
本気だった。こいつは、本気でわかっていない。
いや、わかっていないのは自分だ。ニコは自分とは違う場所に立っている。
教官だから、保護者だから。こいつを拾って、育てたから。
そんな線を何本も、何本も必死で引いて、その内側へ自分を押し込めているのはダリオだけだ。
ニコは最初から、その線を見ていない。
「教官は?」
不意に問われ、心臓がどくんと重く打った。
「……何がだ」
「後悔してるの?」
軽く声をかけてくるくせに、目だけは逸らさないニコに、ダリオは言葉を詰まらせた。
手を出したことは、後悔している。
するべきではなかった、もっと考えるべきだった。ニコの信頼に、自分の欲を混ぜるべきではなかった。今もそう思っている。
けれど、もし昨夜へ戻れるとして。あの瞬間のニコを前にして、今度こそ何もせずにいられるのかと問われれば、答えは出なかった。
「もしかして、嫌だった?」
その声を聞いた瞬間、ダリオは顔を上げた。
「違う。……嫌だったわけじゃねぇ」
「……そっか」
考えるより先に、声が出た。それだけは違うと、自信をもって真っ直ぐに返せる。
ニコは目を丸くして、少しだけ口元を緩め、それで済んでしまうことに、ダリオはまた苦しくなった。
自分はまだ、何ひとつ説明できていない。なのにニコは、たったそれだけの言葉で、こちらを信じようとしている。
「……飯」
「え?」
「食うんだろ」
「あ、うん」
「座ってろ」
ダリオは立ち上がりながら考える。自分は今、ニコから逃げた。自分でもわかるほど露骨に。
それでも、ニコは追及しなかった。
「はーい」
呑気な返事が背中へ飛んでくる。
数歩進んでから、ダリオは足を止めた。
「ニコ、写真片づけろ」
「教官が持ってたんじゃん」
「お前のだ」
「じゃあ教官にあげる」
「いらん」
いつものやり取り、いつもの声。
何も変わっていないように聞こえるそれが、少しだけ救いで。同時に、どうしようもなく苦しかった。
キッチンへ向かいながら、ダリオは額を押さえた。
何を作ってやればニコが喜ぶか、そんなことを考えている自分に、乾いた笑いすら出ない。
あいつが帰ってくる場所に、自分がいたい。
保護者という言葉を使わなくなっても。あいつがもう、自分の世話を必要としなくなったとしても。
それでも、ここへ帰ってきてほしい。
保護者。
自分で決めた、便利な言葉だった。そこにいれば、間違えないと思っていた。
その言葉の内側なら、どれだけニコを気にかけても、どれだけ目で追っても、どれだけ失いたくないと思っても。全部、説明がついたのだ。
けれど昨夜、自分でその境界を越えた。越えてしまったあとで、まだ同じ言葉へ戻ろうとしている。
「……馬鹿か、俺は」
誰にも聞こえない声で吐き捨てながら、それでも足はキッチンへと向かっている。
腹を空かせたニコが待っているのだから、まずは食わせる。話は、それからだっていい。
そうやってまた先延ばしにしているだけだと、わかっていた。
わかっていて、ダリオは棚から、二人分の皿を取り出した。




