いいこと思いついた -1-
【今回のお話】
猫に気を取られて足を捻ったニコ。
何から何まで世話を焼いてもらった結果、自分も教官に何かしてあげたいと思いつくお話です。
ただし、思いついた方法には少々問題がありました。
ニコの様子がおかしい。
足を引きずっている、というほど露骨ではないが、右足を踏み出すたびに歩幅がわずかに狭まる。踵をついてから体重を乗せるまでに、ほんの一瞬のためらいがある。
少なくとも、廊下ですれ違っただけの人間なら気づかない。本人が隠そうと思えば、たぶん隠せる。だが、ダリオには別だった。
「ニコ」
「んー?」
背後から低く呼びかけられ、ニコは面倒そうに、肩越しに振り返った。
長い廊下の向こうから、ダリオがこちらへ歩いてくる。夜番本部の薄暗い照明の下でも、その男は嫌になるほど目立った。
もともと人より頭ひとつどころではなく大きな身体に、黒い服をまとっているせいで、歩いてくるだけでも妙な圧がある。
緩くまとめられた赤い髪が揺れ、眼鏡の奥から向けられた視線は、まっすぐニコの足元へ落ちていた。
まずい、と思っても、もう遅い。
「止まれ」
「止まってるよ、なに……?」
数歩で距離を詰めたダリオは、ニコの正面へ立つと、そのまま黙って視線を下げた。
ニコもつられて、自分の右足に目をやる。黒い隊服とブーツは、一見すればいつもと変わらない。
「その足。いつ、何やった?」
「……んと、さっきちょっと捻った」
「さっきっていつだ」
「帰ってくる途中?」
「なんで疑問形なんだ。自分のことだろ」
ダリオの眉間に、みるみるうちに深い皺が刻まれる。
ニコはそれをぼんやり眺めてから、どうせもう逃げられないのだろうと諦めて、小さく息を吐いた。
「段差、あったんだよ。暗かったし」
「お前、夜目利くだろうが」
「よそ見してたのー」
「何見てた」
「猫。かわいかった」
ダリオはそれ以上何も言わず、ニコの肩へ大きな手を置いた。
そのまま、くるりと向きを変えられる。
「え、どこ行くの」
「診るんだよ」
「平気だって」
「猫見ながら段差踏み外した馬鹿の判断を、なんで俺が信用しなきゃならねぇんだ」
「猫かわいかったんだって」
「猫の話はもういい」
肩を押されるまま数歩進んで、ニコはほんの少しだけ顔をしかめ、また右足を庇った。
けれど今度は、真横にいる男がそれを見逃すはずもなかった。
「……痛ぇんじゃねぇか。肩貸してやる」
「ちょっとだよ。いらない」
「じゃあ抱えるぞ」
「それはもっとやだ。だっこされるの好きだけど、職場で子ども扱いするのやめてよね」
「どの口が言ってんだ。……なら掴まれ」
「極端なんだよなあ」
差し出された腕へ渋々手を添えると、そこには自分とはまるで違う身体の厚みがあった。
隊服越しでもわかる硬い腕に指を掛け、ニコは体重を預ける。
そうしてしまえば、歩くのはずいぶん楽になった。
◆
医療棟で診てもらった結果、結局、大した怪我ではなかった。
軽い捻挫と、擦り傷。骨にも異常はなく、数日もすれば痛みも引くだろうと言われた。
その代わりに言い渡されたのが、
「今日はもう余計なことをせず、できるだけ足を休ませておけ」
という、至極まっとうな指示だ。そしてニコにとって不運だったのは、その指示をダリオが隣で聞いていたことだった。
「だから歩くな」
「歩かないと帰れないじゃん」
「俺がいるだろ」
「……あんたがいたら歩かなくていいの? だっこして帰ってくれるってこと?」
何気なく聞いただけだった。
それなのにダリオは黙りこみ、眼鏡の奥の目を細めて、何か言いたげにニコを見下ろした。
「そういう意味で言ったんじゃねぇ」
「じゃあどういう意味?」
「掴まってろって言ってんだよ」
「なーんだ」
そういうことか。ニコは素直に納得して、またダリオの腕へ手を伸ばした。
そうして本部を出て、結局いつものようにダリオの部屋まで帰り着く頃には、ニコはすっかり「今日は安静にしなければならない人間」になっていた。
玄関を上がれば座れと言われ、ソファへ追いやられ、足を少し高くしておけとクッションまで押し込まれる。
その間、ダリオは自分の上着を脱ぎ、眼鏡を外して一度眉間を揉み、また掛け直し、煙草を吸う暇すら惜しむようにキッチンとリビングを行き来していた。
ニコはそれを、ソファへ長々と寝そべったまま眺めていた。
「教官、俺水のみたい」
「そこにある」
ローテーブルの上を指差され、ニコはそちらを見る。
確かにある。手を伸ばせば、届かないこともない。
「教官」
「なんだよ、だからそこに――」
「取ろうとしたら起きなきゃじゃん。安静なんでしょ?」
ダリオが手にしていた包丁を置き、ゆっくりこちらを見る。
ニコはソファに転がったまま、眠たげな目でその視線を受け止めた。
別にふざけているつもりはない。安静にしろと言ったのはダリオだ。だから安静にしているだけである。
「……お前、こういうときだけ言うこと聞くよな」
「俺、いい子だから」
「よく言えたもんだな、おい」
ぶつぶつ言いながらも、ダリオは結局グラスを取ってくれた。
大きな手に持たれたそれを受け取り、ニコは身体を起こさないまま器用に水を飲む。
「ありがとー」
「ああ」
それだけ言って、ダリオはまたキッチンへ戻っていった。ニコはグラスを胸の上で持ち、その大きな背中を見送る。
自分のために、食事を作ってくれている。いつものことといえば、いつものことだった。
腹が減ったと言えば何か出てくるし、帰れば飯を食ったのかと聞かれるし、怪我をすればこうして手当てをされる。ずっと前から。
だから今日も、何も考えずに甘えていられる。
「教官」
「今度はなんだ」
「おなかすいた」
「今作ってるだろ。……大人しく寝てろ」
「はーい」
素直に返事をして、ニコは目を閉じた。
こうしていれば、何もする必要がない。ダリオがいてくれる。
◆
「俺、風呂入ってくるね」
「待て。その足で入る気か」
食事を終え、腹も満たされ、しばらくソファでだらだらしていたニコが立ち上がろうとしたところで、ダリオの声が飛んできた。
「うん? ……だって汚いし」
「傷、濡らすなよ。あと滑るな」
「はぁい」
「……やっぱ待て」
「なんで?」
ニコは片足を床につけたまま、振り返る。
ダリオは、深く息を吐きだしてニコを見た。ひどく嫌な予感がすると、顔に書いてある。
「お前、一人で入ったら絶対いつも通り動くだろ」
「動かないよ。じゃあどうすんの?」
「身体だけ拭け」
「え、頭も洗いたい」
「明日にしろ」
「やだ」
「ニコ」
「やーだ」
しばらく睨み合う。正確には、睨んでいるのはダリオだけだった。
ニコはいつもの眠そうな顔で、ただじっと見返している。
やがて、その目がゆっくり細められた。何かを思いついたときの顔だった。
「わかった。じゃあ教官が洗って」
ニコは両腕を少し広げ、ダリオに向かって差し出した。
「あらって。足濡らしちゃダメなんでしょ」
「自分で洗え。上半身は洗えるだろ」
「背中届かない」
「届くだろ」
「いや? 今日はなんか、届かない感じする」
けらけらと愉快そうに笑うニコに、ダリオは眉間に深く深く、皺を刻んだ。
それでも結局少しして、ダリオの家の広いバスルームには、二人分の声が響いていた。
「教官、そこ」
「どこだよ」
「もうちょい右」
「自分でやれ」
「届かないんだってー」
ダリオはずっと不機嫌そうに眉を寄せ、心底面倒そうな顔をしていた。
けれどもその大きな手は、ニコの細い肩を乱暴に扱うこともなく、傷のある足へ湯が流れないよう気をつけながら、泡を落としていく。
ニコの身体は、こうして並べばなおさら薄い。濡れた髪が額や頬へ張りつき、細い首から落ちた水滴が、鎖骨の窪みを伝って流れていく。
肩も腕も余計な肉がなく、ダリオの掌なら、その二の腕など簡単に一周してしまいそうだった。
「動くな」
「あんたがくすぐったいとこ触るからだよ。もっと優しくして」
「洗ってやってんだろ。これ以上どうしろってんだ」
そういうところだった。ダリオは口では面倒だと言い、文句も言う。
馬鹿だの、じっとしてろだの、勝手なことをするなだのと、昔から何度聞いたかわからないほど言われてきた。
それでも最後には、こうしてやってくれる。ニコが自分でできることまで。
「教官」
「なんだ」
「ありがと」
「……わかったから、頭下げろ」
「ん」
ニコが言われるまま素直に頭を差し出すと、大きな指が、濡れた髪の中へと差し込まれる。
わしゃわしゃと洗われながら、ニコは目を閉じた。気持ちがいい。
誰かに頭を洗われるなんて、本来ならずいぶん子どもじみたことなのかもしれない。けれどやっぱり、なかなかいいものだ。
「眠そうな顔すんな。寝るなよ」
「寝ないよぉ」
「溺れるぞ」
「教官いるじゃん」
呆れた溜息が降ってきて、ニコは目を閉じたまま、また少し笑った。
風呂から上がったニコは、結局、自分の服へ着替えることすら面倒になったらしい。
濡れた身体を拭いてもらい、傷のある右足だけは余計なところへぶつけないよう気をつけながら、脱衣所の壁へ寄りかかっていた。
かと思えば、ダリオが適当に引っ張り出してきた黒いTシャツを頭から被り、そのまま裾を引っ張って、もうこれでいい、とでも言いたげな顔をした。よくなどない。
ダリオの身体に合わせた服は、ニコが着れば肩の位置からして合わない。半袖のはずの袖は肘近くまで落ち、裾も細い腰を通り越して、腿の半ばまで届いてしまう。
「下着もさっさと着ろ」
「あとで」
「今だよ。今」
「だって俺、足上げるの痛いんだよ?」
「……調子乗りやがって」
ダリオは床へ膝をついた。ニコはすっかり世話をされるつもりでいるらしく、ダリオが引き出しから持ってきた下着を広げても、受け取ろうともしない。
代わりに、目の前へしゃがみ込んだ大きな男の肩へ遠慮なく手を置き、怪我をした右足へ余計な力を掛けずに済むよう、身体の重みを預けてくる。
その態度にひとつ文句を言ってやろうかとも思ったが、どうせ言ったところで聞きやしない。そもそも、安静にしていろと言い渡したのは自分なのだから、ここで無理に立たせて怪我を悪化させるわけにもいかなかった。
ダリオが諦めて下着の片側を広げ、まず怪我をしている右足から通そうとしたところで、頭上から間の抜けた声が降ってきた。
「あー、それじゃない」
「あ?」
ダリオが顔を上げると、ニコは自分の足元へ視線を落とし、今まさに穿かされようとしている下着を眺めていた。
「今日、それの気分じゃないんだよね」
「…………」
「別のにして?」




