いいこと思いついた -2-
ダリオはしばらく何も言わず、言葉の意味は理解したうえで考えていた。
こいつは今、自分がどれほどくだらないことを言っているのかわかっているのだろうか、と。
「……お前な。穿けりゃ何でもいいだろうが」
「やだ。今日はそれじゃないの」
「何が違うんだよ」
「気分?」
疑問形で返されても困る。
そもそも、下着を穿くのに気分も何もあるものか。外から見えるわけでもなし、誰かに披露する予定があるわけでもない。少なくともダリオは、生まれてこの方、下着の柄ひとつでその日の気分が左右されたことなどなかった。
しかし、目の前の男にとっては、それなりに重要な問題であるらしい。
「お願い、教官。違うのがいい」
そう言って、ニコはへらりと笑った。
悪びれた様子など微塵もない。自分がいま、怪我の手当てから食事の支度、風呂の世話まで散々させた相手に、さらに下着の交換まで要求しているという自覚が、果たしてどれほどあるのか。
ダリオは眉間を揉みたい衝動に駆られたが、片手は下着を持っているし、もう片方はニコの身体を支えている。
結局、できたのは深い溜息を吐くことだけだった。
「……じゃあ、何がいいんだ」
「んー。さくらんぼのやつ」
「最初からそう言え」
「今そうしようって決めたんだよ」
「……お前、本当にかわいくねぇな」
ダリオは手元の下着を畳み直すと、ニコを一度壁へ寄りかからせ、転ばないよう念を押してから収納へ向き直った。
引き出しの中には、ニコの衣類が当たり前のように収まっている。下着も靴下も、本人がその辺へ脱ぎ散らかしたものをダリオが洗い、乾かし、畳んでしまったものがほとんどだった。
いちご、アヒル、白熊、ピザ。どういうわけか、ニコの下着には食べ物か動物の柄がやたらと多い。
星や惑星が散らされたものもあれば、妙に陽気な花柄もあり、何を基準に選んでいるのかは、長年付き合ってきた今でもよくわからなかった。
もっとも、いまさら驚くようなことでもない。何度洗ったかわからないし、何度畳んだかもわからない。
くたびれてきたものを処分するよう言い渡したこともある。知らないうちに新しい柄が増えていて、また余計なものを買いやがってと思ったこともある。
いずれにせよ、ニコの下着が妙な柄ばかりであることなど、ダリオにとってはとうに見慣れた日常の一部だった。
さくらんぼ柄がどこにあるのかも、わざわざ探す必要はない。自分で畳んで、そこへしまったのだから。
「ほら、これだろ」
白地に小さな赤いさくらんぼが散らされた一枚を取り出して振り返ると、ニコは途端に嬉しそうな顔をした。
「あ、そうそう。それ!」
「最初から自分で持ってこい」
「だって足痛いんだもん」
「口は元気そうだな」
「まぁね!」
元気よく返事をするな。
ダリオは喉元まで出かかった言葉を飲み込み、もう一度ニコの足元へ膝をついた。
「それ好きなんだよね。かわいいでしょ」
「……ああ、それは結構なことだな」
「教官は? さくらんぼ、好き?」
「別に」
「えー、かわいいのに。俺が履いてるの見るのは好きでしょ?」
「ふざけんな」
ダリオはかわいいかどうかで下着を選んだことなどないので、答えようがなかった。
もっとも、このさくらんぼ柄をニコが気に入っていることくらいは知っている。洗濯物の中でもよく見かけるし、風呂上がりにろくに服も着ず、その辺をうろうろしているときにも何度か目にした。
引き出しの奥へしまっておいても、気がつけばまた洗濯籠の中に入っているのだから、よほど好きなのだろう。
「……お前、こればっか穿いてるだろ」
「そうだっけ? よく覚えてるねえ」
「洗濯してんの誰だと思ってんだ」
「教官」
「即答してんじゃねえ」
ダリオの眉間の皺が、一段深くなる。ニコはそれを見て口角をすこし上げ、目を細めて笑った。
「だって、いつも洗ってくれるじゃん。乾いたら畳んでしまってくれるし」
「……お前がなんもやらねぇからだろうが」
「脱がすのもあんただよね」
ダリオの手が止まった。
下着を広げたまま、ゆっくりと顔を上げる。
「……余計なことを言うな」
「えー、でもほんとのことだよね?」
この男は、どうしてわざわざ話を面倒な方向へ持っていこうとするのだろう。
実際、ダリオがニコの服を脱がせる機会は少なくないし、下着の柄など、本人が思っている以上に目にしている。今さら何を隠すような間柄でもなかった。そうだとも。
だからといって、そんなことを嬉しそうに指摘される筋合いもない。
「……いいから黙って、足上げろ」
「はいはーい」
ニコはまだ少し笑っていたが、ようやく素直にダリオの肩へ両手を置いた。
右足を通すときには、傷のある箇所へ布が擦れないよう慎重に角度を調整し、足首の下へ掌を差し入れて支える。
ニコの身体は、こうして手を添えるたびに、改めてその細さを思い知らされるほど軽かった。大きな掌でふくらはぎを支えれば、余計な力を込めずとも足の向きを変えられる。
だからこそ、不用意に動かして痛ませることのないよう、気を遣う必要がある。
「痛ぇか?」
「ん……、ちょっと」
「だから動くなって言ってんだ」
「でも、足動かさないとぱんつはけないよね?」
「生意気言うんじゃねぇ、一言多いんだよ」
「あんたが聞いたんじゃん」
口の減らない男だと思う。それでもダリオの手は、言葉ほど乱暴にはならなかった。
左足を通し終え、ニコの腰を支えながら布を引き上げると、細い身体がわずかに傾く。咄嗟に背中へ腕を回せば、ニコは何のためらいもなくこちらへ体重を預けてきた。昔から、こういうところだけは妙に素直だ。
口では散々生意気なことを言うくせに、支えてやれば当然のように寄りかかり、手を貸せば何の疑いもなく身を任せてくる。相手が自分を落としたり、怪我をさせたりするはずがないと、最初から決めてかかっているような態度。
その信頼を嬉しいと思うより先に、少しは遠慮というものを覚えろ、と言いたくなる。もっとも、今さら覚えられても、それはそれで調子が狂うのだろうが。
大きなTシャツの裾を下ろしてやれば、さくらんぼ柄の下着も、長すぎるTシャツに隠れてしまって見えない。本人があれほどこだわったところで、結局、誰に見せるわけでもないのだ。
「終わったぞ」
「ありがと、教官」
ダリオはもう何も言わず、その細い身体を支えるために脇へ腕を差し入れた。ニコは面倒になったのか、ほとんど全部の重みをこちらへ預けてくる。
「自分でも歩け」
「でもさ、安静、っていわれてるからなぁ」
「便利な言葉覚えやがって」
「教官が言ったんだよ」
それはそうなのだが。
ダリオは深く息を吐き出し、ニコを抱えるようにして、寝室まで連れていった。
◆
「髪乾かすぞ」
「だいじょぶだよ、自然に乾くよ」
「そのまま寝る気だろ、お前」
「え? うん」
「……駄目だ」
短く言い切られて、ニコは抵抗するでもなく、ベッドの端へ座ったまま少し前へ身体をずらした。
背後でドライヤーの音が鳴り始める。温かな風が後頭部へ当たり、まだ水気を含んでいた淡い髪がふわりと揺れる。
そこへダリオの指が差し込まれ、根元に残った湿り気を探るようにゆっくり掻き分けていった。
風呂の中でも思ったが、ダリオの手は大きいと、ニコは改めて実感していた。
頭を洗われれば頭蓋ごと包まれてしまいそうだし、こうして髪を乾かされていても、一度指を広げられれば、耳の上から後頭部まで簡単に覆われてしまう。
その大きな手が、濡れた髪を持ち上げ、風を通し、時折耳に掛かった毛先を避けていくたび、ニコの首は少しずつ前へ傾いていった。
「寝るなよ、頭落ちてんぞ」
「あたまが、……おもいんだよ、教官持ってて……」
「なんでだよ、お前の頭だろ」
そう言いながらも、後頭部へ掌が添えられた。
支えられた途端、ニコは本当に力を抜いた。
「あー、らくちん」
「俺は楽じゃねぇ」
「でもやってくれちゃうんだもんねぇ」
返事はないのに、髪を乾かす手も、頭を支える手も離れない。
ニコは、こうして頭へ触れる手の大きさを知っている。自分の名前を呼ぶ声も知っている。
面倒そうな顔をしながら、結局最後までやってくれることも、知っている。
「……ね、教官」
「ん?」
「今日さぁ、俺、なんもしてないね」
ドライヤーの音に紛れそうなほど、なんでもない調子で言った。
ダリオの指が、一度止まった。
「怪我人なんだから当たり前だろ」
「そっか」
それきりニコは黙ったが、頭の片隅には、今までならそのまま通り過ぎていたはずの小さな引っ掛かりが残った。
今日の自分はずっと、してもらう側だった。だったら自分も何か、ダリオにしてやれないだろうか。
◆
「終わったぞ」
「んー、ありがとう」
温かな風が止まり、急に静かになった部屋の中で、ニコは頭を上げた。
乾いた髪はいつもより少し膨らみ、あちこち好き勝手な方向へ跳ねている。
ニコはへらっと笑い、それからベッドの上へ身体をずらして、枕へ背中を預けた。
右足だけはクッションの上へ乗せられている。
「今日はもう動くなよ」
「はーい」
呆れた声を残して、ダリオが立ち上がる。ようやく自分のことをするつもりなのだろう。
眼鏡を一度持ち上げて眉間を揉み、今日一日で溜まった疲労を吐き出すように、長く息を吐く。ニコはそれを、ベッドの上からなんとなく眺めていた。
さっき頭へ浮かんだことが、まだ消えずに残っていた。
何かしてあげたい。
ダリオは別に、見返りが欲しくて世話をしているわけではないのだろうし、ニコだって、してもらった分だけ返さなければならないなどと、今更思いはしない。
そうではなく単純に、自分ばかりがしてもらっているのが、今日はなんとなく気になった。
教官にも、何かしてあげたい。自分がしてもらったときみたいに、少しでも気持ちよくなったり、楽になったり、嬉しくなったりするようなことを。
そこまで考えてふと、ニコの視線が止まった。
「教官」
「なんだ」
「……あのさ、今日さ、したい?」
「はぁ?」




