いいこと思いついた -3-
ダリオは明らかに嫌そうな顔で振り返った。
否定はしないが、何言ってんだこいつ、と言いたげなのがありありとわかる。
だからニコは少しだけ首を傾けた。
「したくない?」
「そういう話をしてんじゃねぇ」
「じゃあ、したいんだ」
「今日は何もしねぇぞ」
「なんで?」
聞いてから、答えに気づく。
ダリオの視線が、クッションの上へ乗せられた右足へ落ちたからだ。
「……お前な。お前が怪我してるからだろ」
「ああ。でも教官は怪我してないじゃん。ね?」
「何が『ね?』だ。そういう問題じゃねぇよ」
本気で呆れているらしいダリオを見ながら、ニコはひとまず、もう一度考えた。
自分は怪我をしている。今日は安静にしていなければならない。右足へ負担を掛けてはいけない。
だから、いつものようなことはしない。そこまではニコにもわかった。
なら、足を使わなければいいのだ。
「あ」と声が出て、ダリオの眉間に、反射的に皺が寄った。
「……なんだ」
「俺いいこと思いついた」
「ろくなことじゃねぇだろ。顔でわかる」
「まだ何も言ってないじゃん。ひどいなあ」
ニコは唇を少し尖らせたが、すぐに機嫌を直したらしい。ベッドの上で身体を起こすと、名案を思いついた子どものように、瞳を明るく輝かせた。
「じゃあさ」
「なんだよ」
「俺、おくちでしてあげよっか」
「…………」
今度こそ、ダリオは完全に沈黙した。何も言わずに眇められた眼鏡の奥の目が、じっとニコを見る。
ニコも、ダリオを真正面から見つめ返した。
「……足、使わないよ? ね?」
「お前は、なんでそうなる……」
「なんでって」
眉間に手をやったダリオに、ニコは首を傾げ、細い指先で自分の右足を指した。
「教官、足使うな、安静にしろって言ったじゃん」
「言った」
「だから、足使わないやつならいいかなって」
「そういう意味じゃねぇ、バカ」
低い声が部屋へ響いた。
ニコはびくりともせず、ただ目を瞬かせた。
「でも条件は守ってるよ?」
「屁理屈こねんな」
「屁理屈じゃないよ。俺、ちゃんと考えたもん」
「考えた結果がそれなのが問題なんだよ」
「なんで?」
「なんでじゃねぇ……」
まるで話が通じない。
ダリオは片手で顔を覆い、そのまま額から顎までをゆっくり撫で下ろした。
けれどニコにとっては、別にふざけているわけではなかった。
もちろん、ダリオが困るだろうとわかっていて、少し面白がっている部分くらいはある。
それでも根っこにあるものは、もっと単純だった。
「だってさ。今日、俺ばっかだったじゃん? してもらうの」
「…………」
「足見てもらって、連れて帰ってもらって。ごはん作ってもらって、水も取ってもらったし、お風呂でも洗ってくれたし、髪も乾かしてくれた」
「怪我人なんだから当たり前だろ」
「うん。でも」
ニコは一度、言葉を止めた。
自分が何を言おうとしているのか、自分自身で確かめるように、少しだけ視線を落とす。
何かをしてもらったから返さなければならない、ではない。
借りを作りたくないわけでもない。
この男との間で、そんなことを数えたことなど一度もなかった。
ただ、今日は妙に思ったのだ。
自分に何かをしてくれるダリオを見ながら、自分もこの男に、何かをしてやれたらいいのに、と。
「俺も。教官になんかしてあげたいなって、思って」
ぽつりと落ちた声は、先ほどまでのふざけた調子より、ずっと大人しかった。
その声に、ほんの少しだけ、ダリオの表情が変わる。
眉間に刻まれていた苛立ちが消えたわけではないが、すぐに怒鳴り返すことはしなかった。
「……別に、返さなくていい」
「違うよ、してあげたいの。俺が」
ニコは、自分でも妙な気分だった。
相手がしたいなら、相手が喜ぶなら。嫌じゃないから。これまでなら、そんな理由はいくらでも口にできた。
けれど今は、自分がしたい。自分が、この男にしてやりたい。
ダリオはしばらく黙っていたが、やがてベッドの縁へ腰を下ろすと、大きな身体をニコのほうへ傾けた。
「ニコ。俺がしたそうだから、じゃねぇぞ」
「うん」
「今日俺に世話されたから、その分返さなきゃいけねぇって話でもねぇ」
「それはわかってる」
「じゃあ、お前はどうしたい」
ニコはゆっくりと瞬きをひとつして、少しだけ笑った。
「俺がしてあげたい」
「……そうか」
「うん」
ニコは、いつも自分へ向けられている大きな手へ自分の手を重ねながら、どこか満足そうに目を細めた。
今日はずっと、してもらっていた。だから今度は、自分がしてやりたい。
その方法だけが、どう考えても妙な方向へ飛んでいることについては、最後まであまり理解していないようだった。
そう決めてしまうと、あとは行動に移すだけだった。
◆
「ねえ、教官」
「……なんだ」
「気持ちよかった?」
ニコは少し首を傾げ、返事を待った。今日一日、何もかもしてもらっていた自分が、ようやくこの男のためにできたことなのだから、ちゃんと喜んでもらえたのかどうかは知っておきたかった。
「……ああ」
「ほんと?」
「嘘ついてどうすんだよ」
「へへ。そっかぁ」
嬉しそうに目を細めたニコの頭へ、大きな手が置かれる。乱暴に掻き回すのではなく、指を髪の間へ差し込んで、後頭部をゆっくりと撫でるような手つきだった。
「いい子?」
「そうだな」
「ちゃんといい子って言って」
「……ああ、いい子だよ、お前は。いい子だとも」
とうとう根負けしたような返事だった。
ようやく欲しかった言葉をもらえたニコは、満足そうに目を細め、それから隠しきれない嬉しさをそのまま頬へ浮かべた。
だらしなく表情を緩めたニコを見て、ダリオは呆れたように鼻を鳴らしたが、頭を撫でる手はそのままだった。
「……ありがとな」
「ん? どーいたしまして。でも、俺がしたかったんだよ」
「そうか」
それだけ言うと、ダリオはニコの細い身体を引き寄せ、怪我をした右足に負担が掛からないよう、背中へ腕を回して支えた。ニコは満足そうに目を細め、まだ少し痺れの残る顎をさすりながら、ダリオの隣へ身体を預けた。
◆
カーテンの隙間から差し込んだ光が、薄暗い寝室の床へ細長く落ちていた。
ニコはしばらく布団の中で丸まっていたが、やがて喉の渇きに耐えかねたように目を開けると、枕元へ片手をつき、まだ半分眠った身体を起こそうとした。
「……いった」
右足へ力を掛けた瞬間、鈍い痛みが走った。顎の関節も、未だにどことなくだるい。
「動くな」
すぐに低い声が飛んでくる。
ニコは動きを止め、眠そうな目だけを声のほうへ向けた。
「……教官」
「なんだ」
「水」
「そこに――」
ダリオが言いかけて、止まった。
昨日の自分の言葉でも思い出したのだろう。小さく舌打ちすると立ち上がり、グラスへ水を注いで戻ってくる。
「ほら」
「ありがと」
ニコは両手で受け取り、何口か続けて飲んだ。乾いていた喉が潤い、ようやく少し目が覚めてくる。
ダリオはその間にクッションの位置を直し、ニコの右足が楽になるよう置き直していた。
朝になっても、やっていることは昨日と変わらない。
「ねえ、教官」
「なんだ」
「昨日、よかった? 俺、ちゃんとできてた?」
ニコはグラスの縁から、ダリオをじっと見た。
その視線に射抜かれて、ダリオの手が止まる。
「……朝っぱらからその話すんな」
「だって気になるじゃん」
「昨日も言っただろ」
どうやら、昨日と同じ言葉をもう一度聞かせてくれるつもりはないらしい。
ニコは少し考えて、それからことりと首を傾げて、もうひとつ尋ねた。
「じゃあ、またしてあげよっか?」
「まず足治せ」
「治ったらいいの? じゃあ、治ったらまた聞くね」
「聞かなくていい」
「なんでぇ」
「朝からうるせぇな、お前は」
ダリオの大きな手が、ニコの頭をぐしゃりと掴んだ。
「いだだ、昨日はいっぱい褒めてくれたくせに」
「誰のせいだ」
不機嫌そうなダリオを見て、ニコはくすくす笑いながら、残っていた水を飲み干した。
それからグラスをダリオへ返し、言われたとおりベッドへ身体を沈める。
しばらく天井を見ていたが、やがてまた眠気が戻ってきたのか、瞼がゆっくり下がっていった。
「……でも俺、教官にしてあげるの、好きかも」
「朝から余計な発見すんな」
「へへ」
満足そうに笑って、ニコは目を閉じた。その顔を見下ろしながら、ダリオは深く、長く息を吐く。
足を怪我した。だから安静にしろと言った。
たったそれだけの話だったはずなのに、どうしてこいつは毎度毎度、誰も想定していない方向へ話を転がしていくのだろう。
もっとも。当たり前のように「してもらう」側へ収まりがちな男が、自分から「してあげたい」などと言い出したことを、悪い変化だとはどうしても思えなかった。
方法については、もう少しどうにかしてほしいところだったが。
目を閉じたまま、ニコが小さく呼ぶ。
「きょーかん? おなかすいた」
「……さっきまで寝そうだっただろうが」
「おなかすいたら言えって、教官が言ったんじゃん。朝ごはんなに?」
ダリオはしばらく黙っていたが、やがて諦めたように立ち上がった。
「卵でも焼いてやる」
「パンもある? あったかいスープは?」
「わかったから寝てろ」
「はーい。やったぁ」
返事だけは、いつだって素直だった。
ダリオが寝室を出ていく気配を聞きながら、ニコはもう一度布団へ頬を埋め、今度こそ安心したように目を閉じる。
結局今日もまた、してもらうほうが多くなるらしい。




