命令違反にはお仕置きを。 -1-
【今回のお話】
任務中、教官を守ろうとして命令違反をしたニコ。
無事に帰ってはきたものの、どうやら教官はかなり怒っているようです。
恋人になったあとの二人のお話。
任務中に降り始めた細い雨が、石畳を黒く濡らしている。
ニコは、少し前を歩く、ダリオの大きな背中を眺めていた。見慣れているはずなのに、今日は妙に余計に大きく感じる。
濡れた黒い外套。広い肩。後ろで束ねられた赤い髪。
いつもなら隣まで追いついて、どうでもいい話のひとつくらいする。
けれど今日は、なんとなく声をかけられなかった。
ダリオが、一度も振り返らないからだ。
「…………」
怒ってるなあ、たぶん。いや、間違いなく。
ニコは、ぽりぽりと鼻の頭を掻いた。雨に濡れたくすんだ淡金の髪が、額へ鬱陶しく張りついている。
帰還してからここまで、ダリオは必要なことしか喋っていない。
負傷者の確認をして、報告をまとめて。装備の損耗を確認して。
ニコの射撃記録も、もちろん見た。
その間、一度も叱られなかった。
だから一瞬だけ、もしかしたら、そこまで怒っていないのかもしれない、なんて思った。
それでも、彼と長く一緒にいるニコは知っている。
教官は、本当に怒っているときほど静かになる。
「…………やだなぁ」
小さく呟いても、前を歩く背中から返事はなかった。
◆
家へ入ると、いつもの匂いがした。木と、紙と、少しだけ残った煙草。
ニコのカメラや、現像済みの写真が置かれた棚。
脱ぎっぱなしにしていた上着。この前勝手に使って、そのままにしていたマグカップ。
見慣れた部屋だった。ニコが勝手知ったる顔で歩き回っても、もう誰も不思議に思わない場所。
普段なら玄関を入っただけで、身体から力が抜ける。
今日も、そのはずだったのに。
背後で、扉が閉じる。かちりと鍵の音がしただけで、妙に空気が変わった気がした。
ニコは靴を脱ぎながら、ちらりと後ろを見る。
ダリオはまだ、何も言わない。
濡れた外套を脱ぎ、いつもの場所へ掛ける。
一本ずつ指を抜き、やたらゆっくりと手袋を外し、それから、眼鏡を外した。
(…………うわ)
ニコは、なんとなく目を逸らした。
眼鏡を外したから、怖いわけではない。
ただ、考え事をするときや疲れているとき。
そして、本気で何かを話すとき。
ダリオはよくそうする。
外した眼鏡が、テーブルの上へ置かれる。
小さな音だったのに、妙にはっきり聞こえた。
「ニコ」
「……はい」
「こっち来い」
やっぱり。
ニコはソファの端へ腰を下ろしたばかりだった。
じり、とわずかに身を引き、そこからダリオを見る。
「ここで聞いてる、から」
「こっち来い」
「ここでも聞こえるよ?」
「三度言わせる気か?」
どうやら、逃げようとしても無駄らしい。
ニコはしぶしぶ立ち上がると、わざとゆっくり歩いた。
一歩、二歩と距離が縮まるほど、見上げる角度が大きくなる。
ニコが目の前まで来ると、ダリオは腕を組んだ。
黒いシャツの下で胸板が持ち上がり、ただ立っているだけなのに、ニコの視界のかなりの部分を塞いでしまう。
(こういうときばっかりさ。……この身長差、ずるくない?)
そんなことを考えても、口には出さなかった。
もし今そんなことを言ったら、余計に怒られるのは目に見えている。
「今日の命令、言ってみろ」
低い声が、ニコの頭上から落ちてくる。
「……待機。状況が変わるまで撃つな」
「聞こえてたんだな、理解もしてた」
「してた」
「なのに撃ったわけだ」
「…………うん」
言葉がひとつずつ置かれていく。逃げ道を塞ぐように。
ニコはいつの間にか、床を見ていた。
「顔上げろ、ニコ」
ニコは仕方なしに、上を見た。
怒鳴られているわけでも、睨みつけられているわけでもない。
むしろダリオの表情は冷静だった。だからこそ、余計に嫌だったのだが。
「何で撃った」
「……だって夜喰いがさ、教官のほう、行ったから」
「それで? 俺が対処できないように見えたのか」
「違うよ」
ニコはそれだけ、反射的に答えた。声も、さっきまでより大きくなる。
「教官が強いのは知ってるよ」
「なら待てたはずだよな。指示が出るまで」
教官が正しい。何も言えない。あのときだって、頭ではわかっていた。
照準の向こうで、建物の隙間を這っていた夜喰いは、まだこちらには気づいていなかった。
射線は通っていたけれど、撃つなと言われていたから、指は引き金へ添えたまま、じっと待っていた。
ちゃんと、良い子で待っていたのだ。あれが進路を変えるまでは。
黒い身体が別の路地へ向いて、その先に見えた赤い髪。
考えるより早かった。
照準を合わせて、引き金を引いた。
命令のことなんて、その瞬間には頭から消えてしまった。
ニコが唇を尖らせ、ぽつりと零す。
「……やだったんだもん、教官のほう行くの」
ダリオの眉が、わずかに動いた。
ニコはその変化に、本当に少しだけ、胸の奥が緩んだ。理由を聞けば、わかってくれると思った。
「だから撃ったんだよ、ちゃんと当てたし」
その一言で、ダリオの表情が変わった。
「そういう問題じゃねぇ」
ニコの肩がびくりと動く。
声量は変わっていないのに、ダリオの声はさっきよりずっと重かった。
「当てたからいい。俺が無事だったからいいって? そういう話をしてるんじゃねぇんだよ」
「……はい」
「あの場にはお前以外の隊員もいた。お前が撃てば、標的の動きが変わる。配置も変わる。お前の発砲を合図だと誤認して動く奴が出る可能性もある」
「…………」
「結果が良かったから正解だった、で済ませるな」
「……はい」
ニコはもう、笑っていなかった。
普段なら、このあたりで一度くらい「わかったって」と言ってしまう。あるいは曖昧に笑って、教官の怒りが過ぎるのを待つ。
それでも今日は、できなかった。ダリオの言っていることが、全部正しいとわかっているからだ。
索敵と記録を中心としているけれど、ニコだって夜番だ。
知らなかったわけじゃない。知っていて破った。
だから、言い訳のしようがない。ニコは耐えきれなくなって、ちろりと唇を舐めた。
「俺が、何に怒ってるかわかるか」
「命令、聞かなかったから? ……みんなを、危なくしたかもしれないから?」
「それから?」
それ以上は、ニコにはすぐには思いつかなかった。
視線を落とすと、大きな手が伸びてきて、顎へ指がかかる。
乱暴な手つきではなかったが、俯くことは許されなかった。
「お前自身もだ。射撃位置を晒しただろ」
「あ」
「あ、じゃねぇよ。反撃されてたらどうするつもりだった」
ダリオの声に、次第に苛立ちが混じる。
「俺を守るためなら、自分が危険になってもいいと思ったのか」
「そんなこと……」
言い返そうとして、唇が止まる。違う、と言い切れなかった。
あの瞬間、自分の位置が割れるかもしれないなんて、考えもしなかった。
教官のほうへ行かせたくない、それだけだった。
ニコの口元が緩む。重たくなった空気から逃げるための、これ以上考えなくて済むようにするための、いつもの癖だった。
笑ってしまえば、少しだけ楽になる。
「ニコ、笑って誤魔化すな」
「誤魔化してないって」
「なら俺を見ろ」
見てるって、と言おうとした。けれど、いつの間にか視線が横へ逃げていたことに気づいた。
伏せていた淡い青緑の瞳が持ち上がり、眼鏡のないダリオの目と、真正面からぶつかった。
間違いなく怒っているが、それだけではないと、ニコはようやく気づいた。
「教官……、もしかして、心配した?」
「した」
「そっか」
ニコは自分でも馬鹿だと思ったが、嬉しかった。これだけ怒られているのに、それでも、嬉しいものは嬉しい。
また口元が緩みそうになる。
「お前な、嬉しそうな顔すんな」
ダリオが眉間を押さえた。いつもの仕草を見た途端、ニコの身体から少しだけ力が抜けた。
いつもの教官だ、そう思った。だから、次の一言を間違えた。
「反省してるってぇ」
「なら次は、命令を待てるな」
「…………教官のほう行かなかったらね」
口にした瞬間、空気が死んだ。今度こそ、本当にまずい。
ダリオはしばらく、何も言わなかった。
怒鳴られるほうがまだよかった。やがて、ゆっくりと眼鏡をテーブルの奥へ押しやる。
「……そうか、よくわかった」
全然、よくない声だった。ニコは反射的に一歩後ろへ下がった。
「教官。……待って。もうちょっと話し合お?」
「これ以上か」
「教官、えと、あのさ……。怒ってる?」
「……ニコ」
ダリオがゆっくり息を吐き出し、腕を取られる。
そこで初めて、ニコは本格的に(――あ。これ、いつもの説教だけじゃ終わらないやつだ)と理解した。




