名前のない写真 -2-
それから、しばらくして。
部屋の灯りが落ちるころには、二人の間に残っていた仕事の気配も、とうに消えていた。
制服も、隊監と隊員という肩書きも、明日の予定も。
少なくとも今だけは、ずっと遠いところにある。
ダリオの腕が、ニコの背中へ回る。抱き込むように、少し強く。
視線が合った瞬間には、もう唇が重なっていた。
珍しいことではない。何度目かも数えていない。唇の感触も吐息の熱も、すっかり身体が覚えてしまって、身体の力がふっと抜ける。
ニコは自分から、少しだけ口を開いた。舌が絡んで、離れる。息を継ぐ合間に、ニコは笑った。
「する気だったんだ?」
「お前が離れないからだろうが」
「離れたら、しないの?」
「……いや」
正直な返事に、ニコはまた笑った。
こうなること自体は、もう珍しくない。いつからだったか、最初がどんな夜だったか。
それを今ここで思い出そうとも、ニコは思わなかった。どちらからだったのかも、大して重要ではない。
近くにいて、触れたくなって、教官も拒まないなら、それで十分だ。
やがて部屋が静けさを取り戻しても、ニコはダリオから離れなかった。
「……おい、いつまでくっついてる」
「もうちょっと」
呆れた声が、すぐ近くから身体へ響く。
ニコは気にせず、腕を回したまま頬を寄せた。教官が近くにいてくれて、温かい。
耳を澄ませば、身体の奥で鳴っている鼓動まで聞こえそうだった。
首筋へ鼻先を寄せると、肌の匂いに混じって、まだわずかに甘い煙草の残り香がした。
もうずっと嗅いでいる、教官の匂い。
「離れろ、ニコ」
「やだ」
「お前な……」
「だって」
何が、だって、なのだろう。自分でもわからなくて、ニコは少し笑った。
眠くなれば勝手に寝るし、帰りたければ帰る。誰かと一緒にいたって、もういいと思えば離れる。
そういうことを惜しいと思ったことは、あまりない。明日になれば忘れるかもしれないものへ、わざわざしがみつく必要もない。
なのに今夜は、この体温から身体を離すことだけが、妙に嫌だった。
理由を探すほどのことでもない気がしたから、思いついたままを口にする。
「さみしーじゃん?」
返事はなかったが、ダリオはほんの少し顔を上げる。
眼鏡を外した顔は、普段より表情が読み取りやすいはずなのに。そのときだけは、何を考えているのかよくわからなかった。
「なぁに? 変なの」
「誰のせいだと思ってんだ」
「え、俺?」
「……もう寝ろ」
「はーい」
素直に目を閉じると、暗くなった視界の代わりに、触れている場所だけが妙に鮮明になる。
頬の下の熱、回した腕の中にある身体。呼吸に合わせて、ゆっくり上下する胸。
煙草の甘い残り香。
それでも明日の朝になれば、今夜のことだって、どこまで残っているかわからない。
◆
翌朝目を開けたニコは、しばらくぼんやりと天井を見ていた。自室の天井ではないのに、見覚えがある。
白い天井の端に、細いひびがある。窓から差し込む朝の光が、見覚えのある角度で壁へ落ちている。
何度も、見たことがある。
「……んー」
ニコは身体を起こすと、少し重たい頭を振って、周囲を見回した。
ベッド、脇へ置かれた椅子。脱ぎ散らかされた服。自分のものではない上着。
そして、サイドテーブルへ置かれた眼鏡。
そこでようやく、ひとつの答えへ辿り着いた。
「あぁ、教官ちだ」
わかってしまえば、それ以上考えることもない。床へ落ちていた服を拾い、適当に身につける。
(昨日、どうしてここへ来たんだっけ?)
任務だった。一緒に帰ってきて、それから、何か食べさせてもらった気もする。
その先は、ところどころ曖昧だった。
まあいいかと、ニコはぺたぺたと裸足のままでリビングへ出た。朝の光の中で見る部屋は、夜とは少し違って見えた。
テーブルの上には、昨夜のまま写真が散らばっている。
ニコは一枚を拾った。机へ向かっている男。余白には、自分の字で『教官。仕事してる』とだけ書かれている。
「……こんなの撮ったんだ」
撮った瞬間のことは、もう思い出せなかった。
次の一枚には、またダリオが写っている。もう一枚にも、やっぱり教官。
「すごいいっぱい教官いるじゃん」
「誰が撮ったと思ってんだ」
声がして顔を上げると、キッチンには写真の男がいた。
昨夜と同じ顔と、昨夜と同じはずの声。けれど、その昨夜が、もう少しだけ遠くなっている。
ニコは、写真とダリオを見比べた。写真には、名前がない。
どこにも『ダリオ』とは書かれていない。
それでも、今朝は覚えている。この人が誰なのか。この人の名前が、なんなのか。
「おはよ、教官」
「ああ。顔洗ってこい」
「朝ごはんある?」
「ある」
「やった」
それだけで、ニコは機嫌よく写真をテーブルへ戻した。
洗面所へ向かおうと数歩進んだところで、ふと思いついて振り返った。
「ねぇ、今日も泊まっていい?」
「たまには自分ちにも帰れよ」
「じゃあいっかい帰ってから、もっかい来るね」
「そういう意味じゃねぇ」
深い溜息を背に聞きながら、ニコは笑って、今度こそ洗面所へ向かう。
扉へ手をかける直前、何となく、もう一度だけ振り返った。
朝の光が差し込む部屋に、湯気の立つ朝食。テーブルに散らばった、昨日の写真。
その向こうに、教官がいる。
昨夜のことは、もう、少しだけ零れてしまった。
何を話したのか、何を思ったのか。どんな顔をして、何を撮ったのか。
今夜にはもっと、曖昧になるかもしれない。それでも写真には残っている。
どの写真にも、男の名前はない。どうして書かないのかも、ニコはもう知らない。
けれど少なくとも今朝は、誰なのかをちゃんと知っていた。




