名前のない写真 -1-
◆今回のお話
仕事帰り、今日も当然のように教官の家へついていくニコ。
本人の家は反対方向です。
ごはんを食べたり、写真を眺めたりする、恋人になったあとの二人のお話。
夜番の詰所を出たときには、日付が変わっていた。
ニコは詰所の扉を閉めるなり、大きく伸びをした。細い身体をいっぱいに反らすと、伸ばした背骨が小さく鳴った。
「つかれたー」
「お前は途中で二十分寝てただろうが」
すぐ隣から、ダリオの低い声が返ってくる。
並んで立てば、ニコは嫌でも首を反らすことになるほど背丈が違う。夜の薄明かりの下で、ダリオの赤い髪が鈍く色を残していた。
ニコは淡い青緑の瞳で、ちらりとダリオを見てから、首から下げたカメラを持ち上げる。
黒い筐体には、今日一日ぶんの細かな傷と汚れがついていた。
任務中、壁に擦ったのかもしれない。どこだったかは、もう覚えていない。
「たったの二十分しか寝てないじゃん」
「勤務中に寝るなって話をしてんだよ」
「あは」
一晩で、何枚撮っただろう。
任務先の路地。割れた窓。夜喰いが消えたあとに残っていた黒い染み。
詰所の机に誰かが置きっぱなしにしていた、飲みかけのカップ。
それから、教官も何枚か。
何を撮ったかなんて、もう全部は覚えていない。
明日の朝になれば、もっと覚えていない。今夜のことは、夜が明ければまた少し薄くなる。
さっきまで鮮明だった誰かの声が、朝には輪郭を失っていることもある。
何を食べたのか。誰と話したのか。どこで笑ったのか。
写真を見て、初めて知ることもある。
それでいいと、ニコは思っていた。
忘れるものは、忘れる。残るものは、たぶん勝手に残る。
全部を抱えていなくたって、生きていけないわけじゃない。
「腹は」
「んー?」
カメラを弄っていた、ニコの手が止まる。
夜気に晒されて、褪せた灰色を帯びた淡い金髪がさらりと揺れる。耳元にいくつも連なったピアスが、かすかな金属音を立てた。
「飯食ったのか」
「いつ?」
「今日」
ニコは少し考えた。
ダリオが、眼鏡の奥からじっとこちらを見ている。ああいう目をしている時の教官は、適当なことを言っても、大体見抜いてくるから厄介だ。
「食べた気がする。なんか」
「何時に何を食ったのか言え」
「きょーかん、なに? 尋問?」
「食ってねぇな?」
「や、食べたってば。うんとね」
ニコは懸命に記憶をたどる。食べたのだ。確かに、何かを口に入れた。
しばらく考えて、ようやくひとつ見つかった。
「飴もらったから舐めたよ。ふたつ」
「……それを飯に数えるな」
「でもお腹には入ったよ?」
「そういう話じゃ、…………もういい」
ダリオは溜息をつくと、そのまま歩き出した。ニコも、あとについて歩き出す。大きな歩幅に置いていかれないようにすることには、もう慣れていた。
ダリオのほうも、ニコに合わせているつもりはないのだろうが、気づけばいつも、少しだけ歩みが遅い。
しばらく並んで歩いたあと、ダリオが横目だけを寄越した。
「お前、どこまでついてくる気だ」
「どこまでって?」
「お前の家は反対方向だろ」
「あ」
言われて、ニコは振り返った。
確かに、自分の部屋は反対方向にある。詰め所を出た時点で、逆の道へ出なくてはならなかった。
「ほんとだね」
「……ほんとだねじゃねぇよ」
けれど、ニコは戻ろうとはしない。
足を止めたのはほんの一瞬で、少し先へ行ってしまったダリオの隣へ、また追いつく。
「まあいいや。今日、教官ち行く」
「今日も、だろ。昨日もいた」
「そうだっけぇ?」
「お前なぁ……」
呆れた声が、ニコの頭上から落ちてくる。
それでも帰れとは言われなかったので、ニコはそのままついていった。
◆
鍋の中では、鶏肉と白い豆、それから大きめに切った根菜が、淡い色のスープの中で煮えていた。昨夜の残りらしい。
火にかけ直されてしばらくすると、香草と肉の匂いが、冷えていた部屋へゆっくり広がっていく。
ダリオはそれを深めの皿へと移し、トーストし直したパンと一緒にニコの前へ置いた。
「ありがとー」
「熱いからな」
「はぁい」
ニコは、返事をしたそばから口へ運ぶ。
「あふ、あ、あっつ」
「言っただろうが」
「でもうまい」
「飲み込んでから喋れ」
ニコは頬を膨らませたまま、ふと皿を見た。
「これ、教官が作ったの?」
「昨日な」
「へえ」
「お前も食った。……覚えてねぇのか」
「んー、忘れたっぽい。おいしいからもう一回食べられて得したね」
悪びれもせず笑って、またスプーンを口へ運ぶ。
いつも「たいしたものじゃない」と本人は言うけれど、ニコには、そのたいしたものと、たいしたものではないものの境目がよくわからない。
温かいし、腹に溜まるし、味がする。自分で用意しなくていい。それで十分だ。
自分の部屋へ帰っていたら、たぶん何も食べずに寝ていた。
冷蔵庫に何が入っていたかも覚えていない。そもそも、食べられるものが残っていたかどうかも怪しい。
ここへ来れば、腹が減っていれば飯が出てくる。眠ければソファがある。
服を脱ぎ散らかせば怒られるし、風呂へ入らず寝ようとすれば起こされるし、任務で無茶をすれば長々と叱られる。
くだらないことを喋れば「うるせぇ」と言うくせに、完全に無視されたことはほとんどない。
そういう場所だった。
だから、好きだ。教官の家も、教官も。
食べ終えるころには、身体の芯に残っていた夜の冷えも、ずいぶん薄くなっていた。
ニコは食器をそのままにして立ち上がり、当然のようにソファへ移動する。
「おい、皿」
「あとでやるー」
「お前の『あとで』を信用したことは一度もねぇよ」
「ひど」
「事実だろ」
背後で食器の触れ合う音がする。
結局片づけてくれるんだよなあ、と思いながら、ニコは制服のポケットへ手を突っ込んだ。
出てきた写真を、テーブルの上へ一枚ずつ並べる。
濡れた路地、割れた窓、黒い染み。見覚えのない誰かの後頭部、詰所のカップ。
ニコはそのなかの一枚を摘み上げる。
「教官、ほら」
キッチンから戻ってきたダリオへ、写真を向ける。
詰所の机に積み上げられた書類。その向こうで、眉間に皺を寄せながら紙面へ目を落としている男。
ダリオは受け取った写真を、しばらく見ていた。
「いつ撮った」
「んー? ……わかんない」
「勝手に撮るな」
「いいじゃん。減るもんじゃないし」
ニコは聞き流しながら、マジックをポケットから取り出した。
写真の下、白く残った余白へ、慣れた手つきで文字を走らせる。
『教官。仕事してるところ』
それだけ。
ダリオ、とは書かなかった。教官を撮った写真に、その名前を書くことはない。
いつからそうしているのかは、覚えていなかった。
書かない理由も、どこにも書き残していないから、今のニコは知らない。ただ、そうするものだと思っている。
「あ、これも教官」
次の一枚にも、彼はいた。詰所の壁際で、誰かと話している。
「これもー」
「お前、今日何しに仕事行った?」
「仕事ですけど」
「写真見る限りじゃ俺の観察だろうが」
「あはは」
ニコは笑った。何枚目かで、とうとうダリオが写真を取り上げる。
別に惜しくはないので、抵抗もしなかった。
「そんな俺ばっか撮ってどうすんだ」
「どうもしないよ?」
「じゃあなんで撮る」
「撮りたかったからじゃない?」
答えてから、自分でもそれ以上の理由を探してみたけれど、見つからなかった。
目についたから、撮りたいと思ったから、だから撮った。
今日のダリオがどんな顔をしていたのか、明日にはもう曖昧になっているかもしれない。
何を話したのかも、どこにいたのかも。
だったら、一枚くらい残っていてもいいではないか。
どうやら、一枚どころではなかったらしいけれど。
ダリオは、写真とニコの顔を交互に見た。何か言いたそうだった。
それでも結局何も言わず、写真をテーブルへ戻した。長い指先が写真の端をわずかに押さえて、離す。
「風呂。先入れ」
「えぇ?」
「えぇじゃねぇ。任務帰りだろ。汚ねぇだろうが」
「一緒に入ればいーじゃん、洗ってよ」
「ガキか。いくつだよお前」
「にじゅーいっさい」
「だったら一人で入れ」
ニコが今何歳かなんて、ニコよりも知っているくせに。ニコはけらけら笑った。
そうやって笑えば、教官がまた眉間へ皺を寄せることも知っていた。




