花を贈る日 -2-
夕方の空気を連れて帰ってきたニコが、肩で扉を押し戻しながら廊下の先を覗くと、リビングではダリオが書類を広げていた。
灰皿には朝から置かれている吸い殻が一本あるだけで、部屋に染みついた煙草の匂いも、今はそれほど強くなかった。
「ただいまー」
「……お前、また勝手に」
書類から顔を上げたダリオは、何か言いかけたものの、玄関に立つニコの姿をまともに認めた途端、その先を口にすることなく黙り込んだ。
花束は、ニコの細い腕で抱えるには少々大きい。食べ物やら見慣れない雑貨やらを持ち帰ってくることは珍しくないが、これほど立派な花束を抱えて帰宅したことはなかった。
「なに持ってんだ」
「お花!」
「見りゃわかる」
「じゃあ聞かないでよ」
ニコは花束を片腕へ寄せて靴を脱ぐと、包装紙を壁に擦らないよう廊下を抜け、そのままリビングへ入ってきた。
ダリオは椅子に座ったまま、訝しげにそれを眺めている。近づいてきたことで花束の色合いがいっそうはっきりすると、ただでさえ深かった眉間の皺が、わずかに濃くなる。
「……誰かに貰ったのか?」
「ううん。買ってきた」
「お前が?」
「うん。教官にあげる」
ニコは、花束を抱え直して笑った。
ダリオは返事をせず、花束を見て、それを抱えているニコの顔へ視線を移し、何かを確かめるようにもう一度花束へ目を落とす。
冗談を言っている様子はなく、何かの礼をしようとしているわけでもなさそうだ。
「俺に?」
「そうだよ。はい」
ニコは両手で花束を差し出した。
ダリオはしばらく動かなかったが、やがてソファから立ち上がった。長い指が包装紙へ触れ、花束の重さを確かめるように受け取る。
ダリオが花束を持ち上げると、深紅の薔薇が黒い服の胸元で揺れ、それを見たニコは「やっぱり」と思った。
店先で見かけたときから、きっと似合うだろうと考えていた色だった。
深く落ち着いた赤はダリオの髪によく馴染み、青紫の花は黒い服の上で不思議と鮮やかに見える。銀緑の葉が添えられているおかげで、重くなりすぎることもない。
「どうしたんだ、急に」
「んー? 教官に似合いそうなの見つけたから。シルに作ってもらった」
花束を支えていたダリオの指が、そこでぴたりと止まった。
「……シル? 誰だそいつ」
「え? お花屋さん。シルヴァンっていうんだけど、長いからシルって呼んでる」
ダリオは何も言わず、手元の花束へ視線を戻した。
灰色の包装紙は綺麗に折り重ねられ、花の高さや向きにも無理がない。素人が適当に束ねたものでないことは一目でわかる。
もっとも、花屋が仕事として仕立てたものなのだから、それ自体は何もおかしくない。
「ずいぶん親しいらしいな」
「まあ、よく行くしね」
「花を買いにか?」
「見るだけの日もあるよ。お話したりとかさ」
「……そうか」
低い声でそれだけ返したダリオは、花束を持ったまま口を閉ざした。
ニコはその顔を見上げ、首を傾げる。何か気に入らないところでもあったのだろうか。
綺麗に仕上がったと思っているし、シルヴァンも色の取り合わせを褒めてくれたのだから、花束そのものがおかしいとは考えにくい。
そもそも、贈り物をしたところで大袈裟に喜ぶような男ではないことくらい知っているが、それにしたって、受け取ってからずっと難しい顔をしている。
「……もしかして、お花嫌いだった?」
「嫌いじゃねぇ」
「じゃあ、なに? なんか変な顔してる」
「元からだ」
「あは。そうだね」
ニコが思わず笑ってしまうと、ダリオの眉がわずかに動いた。
「お前な……」
「だって、あんたが言ったんじゃん」
ニコはソファへ腰を下ろし、花束を抱えたまま立っているダリオを眺めた。
立ったまま花束を抱えている男は、やはり妙におかしかった。
大抵のことには動じず、厄介な仕事も面倒な人間も相応に扱ってしまうくせに、たった今受け取った花束ひとつをどうすればいいのかわからないらしい。
そんな姿を眺めているうちに、ニコはますます愉快になってきた。
「ねえ。似合うね、それ」
「……俺にか? これが?」
「うん。教官に似合うように作ってもらったんだよ」
ダリオは返事の代わりに、花束を支える手の位置を少し変えた。
花の頭が傾かないよう、包装紙の下から掌を添え直すその動きは、普段の無造作な仕草に比べれば随分慎重だ。ニコは自分が思っていた以上に、この男が花を大切に扱ってくれていることに気づいた。
「……その花屋は、お前のことをよく知ってるのか」
「んー?」
「何度も行ってるんだろ」
「まあね」
「いつからだ」
「いつからだろ。忘れた」
ダリオは花束について、ほとんどニコに聞いてこない。
どんな花が使われているのか、どうしてこの色を選んだのか、いくらしたのかといったことにはまるで関心を示さず、代わりに尋ねてくるのは、花屋の男と自分がどれほど親しいのかということばかりだった。
ニコは膝の上で指を組み、ダリオの顔をじっと見つめた。
不機嫌そうな表情は、いつもと大して変わらないが、先ほどから質問の仕方が妙に回りくどい。気になっていることがあるなら素直に聞けばいいのに、どうやらそれを口にするのも面白くないらしい。
そのことに思い至った途端、ニコの口元が自然と緩んだ。
「……教官? もしかして、シルのこと気になる?」
眼鏡の奥で、ダリオの目がニコへと向いた。
「別に」
「そう? ……ふーん」
ニコはソファの背凭れに肩を預け直し、わざと少しだけ口角を上げた。
「……もしかしてさぁ、やきもち?」
「違ぇよ。その顔やめろ」
「あはは」
ニコが声を上げて笑うと、ダリオは面白くなさそうに鼻を鳴らした。
やっぱり、と思う。教官はこういうところが案外わかりやすい。
ニコは、シルヴァンとはそれなりに長い付き合いがあるし、店先で顔を合わせれば他愛もない話をすることだってある。
だが、そんなことをいちいち説明したところで、目の前の男が納得するかどうかは怪しかった。
「シル、いいひとだよ? お花に詳しいし、優しいし」
「そりゃそうだろ、花屋なんだからな」
「あと背ぇ高い」
何気なく付け加えた途端、ダリオの目がわずかに細くなった。
「……どれくらいだ」
「教官と同じくらいかな。百九十二センチ? とかだったと思う」
「俺は百九十二・五だ」
ニコは一瞬、何を言われたのかわからなかった。
それから、花束を抱えて真面目な顔をしている男と、その口から出てきた数字とを頭の中で結びつけ、堪えきれずにゆっくり笑い始めた。
「……そこ、そんなに大事?」
「笑うな」
「笑ってないよぉ」
「笑ってんだろうが」
口元を手で隠したところで、肩が揺れるのまではどうにもならなかった。
たった五ミリ。そんなところで張り合うなんて思ってもみなかったし、何より、当の本人が至って真面目な顔をしているのがいけなかった。
教官は本当に時々、どうしようもなく、しょうもない。
そう思いながら笑っていたニコだったが、ふと、ダリオがまだ花束を抱えたままでいることに気づくと、少し姿勢を正した。
「俺、教官にあげたくて買ってきたんだけどな。シルが誰とか、そんなに大事?」
店先であの花を見つけたときのことを思い出すと、ニコは少しばかり惜しいような気持ちになった。
店に並ぶ花を眺めているうちに、ふと赤い髪を思い出して、これなら似合うんじゃないかと考えた。シルヴァンがいなければ、ニコひとりではここまで上手に選べなかったかもしれない。
けれど、「教官にあげたい」と思ったのは、紛れもなくニコ自身だった。
「俺さ、これ見て教官に似合うなって思ったんだよ」
「……ああ」
「で、教官にあげたら喜ぶかなって」
ダリオは黙って聞いていた。 包装紙の端を押さえている指が動き、花の重みで折り目が開きかけた部分を、元の位置へ戻す。
「……喜んでねぇとは、言ってねえだろ」
しばらくして返ってきたのは、いかにも不機嫌そうな声だった。
ニコはそれを聞くと、もう一度ダリオの顔を見上げて微笑んだ。
「うん。じゃあ、よかった」
教官が喜んでくれたなら、それで十分だったし、そもそもこの男が花束を抱えて大袈裟に礼を言うところなど、想像しただけで少しおかしい。
ダリオも何か言い返すことはせず、しばらく花束を見下ろしていたが、やがて片腕へ持ち直すと、テーブルの上に残していた書類を一瞥してから台所へ向かった。
「……花瓶、あったか」
「ないの?」
「知らん。お前がどっかから持ってきた瓶ならあるかもしれねぇが」
「ああ、あの青いやつ? いいじゃん。あれに入れようよ」
ダリオは台所の戸棚を開け、普段ほとんど使わない食器の奥を探り始めた。
やがて取り出されたのは、少し口が広く、胴の丸い青い硝子瓶だった。
以前ニコがどこからか持ち込んだものだ。底のあたりに厚みがあって、形も少々不格好。けれど手に持って確かめてみると重さは十分にあり、花を挿しても簡単には倒れそうになかった。
ダリオは瓶を流し台の脇へ置き、花束の包装を解き始めた。
包装紙の内側には、小さな紙片が添えられていた。ダリオはそれを取り上げ、眼鏡の奥で文字を追う。
茎を斜めに切ること。水は毎日替えること。
葉が水に浸からないようにすること。できれば、近くで煙草は吸わないこと。
最後の一文を読んだところで、ダリオはわずかに眉を寄せたものの、紙を捨てることはせず、流し台の水がかからない場所へ置いた。
それから袖を少し捲り、戸棚から取り出した鋏を使って、茎の先を整え始める。
ソファに座っていたニコは、いつの間にかその背中を眺めるのに夢中になっていた。
ダリオはもともと器用なほうだ。仕事で細かな作業をすることもあるし、何より、ニコの身の回りのことをあれこれ世話しているうちに、面倒なことを手早く片づけるのには慣れている。本人が望んだかどうかはともかく。
それでも、花を扱う姿は少し新鮮だった。
流し台へ向かってわずかに身を屈め、長い指で茎を一本ずつ取り分けている。水に浸かりそうな葉を取り除くときも、花の頭を傷めないよう持つ場所を変え、切り終えたものから順番に青い瓶へ挿していく。
その手が普段どれほど力強いかを知っているだけに、ニコにはなおさらおかしかった。
「教官、気に入ったんだ?」
「……せっかくだからな、すぐ枯らすわけにもいかねぇだろ」
「ふふ。そっかー」
ダリオは水を入れた瓶へ花を挿し、薔薇の向きが揃いすぎないよう位置を変えている。
どうやら、適当に突っ込んで終わりにするつもりはないらしく、いったん手を離して全体を眺めたあと、一本だけ飛び出していたリンドウの茎を持ち直した。
ニコはその様子をしばらく眺めていたが、やがてソファの脇に置いていた鞄へ手を伸ばし、中からインスタントカメラを取り出した。
ファインダーを覗くと、台所に立つダリオの大きな背中と、その手元にある花束がちょうどよく収まった。
少しだけ角度を変えて、シャッターを切る。
小さな機械音に続いて吐き出された写真を受け取り、ニコは現れ始めた像を眺めながら、膝の上でマジックペンの蓋を外した。
『教官とお花。シルのお店で俺が買ってきた』余白へそう書き込んでから、もう一度写真を見る。
花束を贈った相手の顔は写っていない。けれど、少し身を屈めて花の世話をしている大きな背中は、いかにもダリオらしい。
ニコは満足そうに笑い、写真をテーブルの端へ置いた。
ダリオはようやく花の位置を決めたらしく、青い瓶を両手で持ち上げている。その手つきは、最後まで丁寧だった。
◆
翌朝、ニコはリビングの窓辺で、見慣れない花を見つけた。
昨夜のうちに誰かが置いたものらしい。ニコは窓辺へ近づき、花を覗き込んだ。
「……あれ」
どこか見覚えのある組み合わせだった。赤い薔薇の花弁が幾重にも重なっている様子や、その脇に添えられた青紫の花の形を眺めていると、昨日どこかで同じものを見たような気がする。
けれど、いつ、どこで見たのだったか。
花屋へ行ったのかもしれないし、誰かが持っていたものを見かけただけなのかもしれない。記憶の中にあるはずの出来事を辿ろうとしても、肝心なところが抜け落ちていて、どうにもはっきりしなかった。
ニコはそのことをさほど気にすることもなく、花瓶の隣に置かれた小さな紙片へ目を向けた。
『水は毎日替えること』
整った文字で書かれたその下に、別の筆跡で短い言葉が付け足されている。
『ニコから』
自分の名前を見つけ、ニコは目を瞬かせた。
すぐ横には、写真が一枚置かれていた。手に取ってみると、そこには花束と、それを扱っている背の高い男の後ろ姿が写っている。黒っぽい服に広い肩、少しだけ前へ傾いた赤い頭は、顔が見えなくても誰なのかすぐにわかった。
写真の余白には、見慣れた自分の字が残っている。
『教官とお花。シルのお店で俺が買ってきた』
ニコは紙片と写真を見比べた。
シル。その名前を見たことで、花屋の店先に並んでいた色とりどりの花や、見上げるほど背の高い店主の姿が、ぼんやりと頭に浮かんできた。
そうだ。昨日、花屋へ行き、シルヴァンにこの花束を作ってもらったのだった。
「……ああ。俺が教官にあげたんだっけ」
「そうだ」
背後から聞こえてきた低い声に、ニコは振り向いた。
ダリオがリビングの入口に立っていた。
眼鏡をかけ、片手には珈琲の入ったカップを持っている。赤い髪には寝起きの名残があったが、眉間の皺だけはいつもどおりだった。
「おはよ。お花、綺麗だね」
「お前が買ってきたんだろ」
「うん。……あれ、教官喜んでくれた、よね?」
ニコは花から目を離し、ダリオを見上げた。
確か、喜んでもらいたくて買ったはずだった。
花束を選んだときのことはよく覚えていないけれど、この色が教官に似合うと思ったことだけは、今でも不思議と残っている。だからこそ、実際に渡したときの反応がはっきりと思い出せないのは、少しだけ惜しかった。
「ああ」
短い返事だった。
けれど、ニコはそれを聞くと、安心したように笑った。
「そっか。よかった」
それだけ言って、ニコはまた花を眺めた。
昨日のことは、少し曖昧になってしまった。昨夜零れたのは、どうやら生まれたての、その記憶だったらしい。
思い出せないことはいくつもある。けれど、自分の気持ちは写真にも文字にも残っているし、何よりこうして花が大切に飾られている。
「ねえ、教官」
「なんだ」
「この花、教官に似合うね」
ダリオは、昨夜も、まったく同じことを言われたことを思い返していた。
似合うと思ったから買ってきたのだと、あれほど嬉しそうに笑っていたくせに、今朝になれば、花を贈ったときのことさえ曖昧になっている。
それでもニコは、目の前にある花を見て、また同じことを言う。
「……そうかよ」
それだけ返してカップを口へ運ぶと、ニコはまた楽しそうに笑った。
教官は時々、こうして妙に照れくさそうな顔をする。昨日もそうだったのかもしれない。
覚えていないのは少し残念だけれど、また見られたのだから、まあいいか。
そんなことを考えながら、ニコは花瓶の隣に置いた写真を指先で揃えた。
ダリオはその様子を横目に見ていたが、やがてカップをテーブルへ置くと、昨夜から花瓶の傍らに置いてあった紙片を手に取り、窓辺の光で文字を確かめた。
水は毎日替えること。それを読み終えて、ダリオは花瓶へ手を伸ばした。
「水。替えるぞ」
「あ、俺やろっか?」
「いい。お前はそこ退いてろ」
「はあい」
ニコが素直に身体を引くと、ダリオは青い硝子瓶を持ち上げ、花の重みで傾かないようもう片方の手を添えて、台所へ向かった。
その背中を見送ってから、ニコは窓辺に残された写真をもう一度手に取った。
昨日の自分が撮った、教官と花束の写真。
ニコは写真の中の大きな背中と、台所に立つ本物の背中を見比べ、ひとりで小さく笑った。
やっぱり、教官はかわいいところがある。




