鏡の向こう
【今回のお話】
いつも教官をからかってばかりのニコが、思わぬところで自分の弱点を発見してしまうお話。
そして、それを見逃してくれるほど、教官は甘くなかったようです。
ダリオの家の浴室は、ニコがこれまで使ってきたどの風呂よりも広かった。
壁と床は濃い灰色の石目調で統一され、洗い場には大人が二人並んでも窮屈にならないだけの余裕がある。
浴槽に至っては、百九十センチを超えるダリオが、脚を伸ばして浸かれるほどの大きさがある。
洗い場の壁には横幅のある大きな鏡が据えられ、その下には、浴室用品を置くための、厚い石造りのカウンターが設けられていた。
設備のひとつひとつが頑丈で、余計な装飾もなく、照明も落ち着いた暖色に整えられているあたり、いかにもこの男が選びそうな風呂だった。
ニコにとっては少しばかり大きすぎるが、別に不満はない。
むしろ、二人で入っても狭くならないのが気に入っていた。
「教官、あらってー」
洗い場の椅子に腰掛けたニコが、背後を振り返って両腕を伸ばした。
ダリオはシャワーの温度を確かめていたところだったが、その声を聞くと、いつものように眉間へ皺を寄せた。
「自分で洗え」
「背中届かないもん」
「届くだろうが」
「あんたに洗ってもらったほうがきもちいいんだよ」
「……お前は、本当に」
文句を言いながらも、結局はシャワーを置いて背後へ回ってくれるのだから、ニコも遠慮する理由がない。素直に前を向き、膝の上へ両手を置くと、泡立てられた柔らかな布が、肩甲骨のあたりへ触れるのを待った。
大きな手が、背中を滑っていく。
肩から脇腹へ、背骨の両側を辿って腰まで下り、また首の付け根へ戻る。
力加減はしっかりしているのに、骨の浮いたところへ無遠慮に圧をかけることはなく、ニコが少し身体を傾ければ、それに合わせて手の位置を変えてくれる。
「……んー、きもちい」
「風呂くらいひとりで入れよ」
「いーじゃん、たまには一緒に入ったってさ」
ダリオは呆れたように息を吐き、背中に残った泡をシャワーで流してやった。
温かな湯が肩を伝って流れ落ち、ニコは気持ちよさそうに目を細めたが、ふと正面へ顔を向けたところで、壁に取り付けられた大きな鏡が目に入った。
湯気の薄くかかった鏡の中に、自分とダリオが並んで映っている。
「……ねえ、教官さ?」
「何だ」
「鏡で見ると、ほんとでっかいねえ」
「今さら何言ってんだ」
「だってさ、俺、すっぽり隠れちゃうじゃん」
ニコは面白がって、身体を左右へ傾けた。
背後に立つダリオの肩は、座っている自分の頭よりずっと高いところにあり、腕も胸も、鏡越しに見ると改めてその大きさがよくわかる。
自分の細い肩の両側から男の身体が覗いているのが妙におかしくて、ニコは何度か位置を変えてみた。
「……遊んでねぇで、前向いてろ」
「向いてるよー」
「じっとしてろっつってんだ」
そう言いながら、ダリオはニコの濡れた髪を後ろへ払った。
大きな掌が頭を包み、指が髪の間を通っていく。ニコはされるがままになっていたが、鏡の中でふとダリオと目が合い、何とはなしに笑いかけた。
ダリオも、ニコを見ていた。いつもなら見上げなければわからない表情が、鏡の中では自分の顔のすぐ上にある。
少し伏せられた目も、濡れた髪を払うときの手つきも、妙にはっきりと見えた。そして、その視線が向けられている自分の顔まで。
ニコは、なぜだか急に落ち着かなくなった。
「どうした」
「んー? ……べつに。なんでも、ない」
「そうか?」
ダリオはそれ以上追及せず、シャワーを手に取った。ニコも気にしないことにして、再び前を向く。
けれど、鏡に映る自分の顔が、どうにも視界から離れなかった。
いつもなら、ダリオがどんな顔をしているのか見たくて、何度でも覗き込む。相手の目を見て、笑って、好きだと言って、困った顔をさせるのも楽しいものだ。
なのに今日は、その視線を受けている自分の顔まで見えてしまう。
それが、思っていた以上に恥ずかしかった。
「……ね、こっち見ないで」
「なんでだよ」
「なーんかやなんだって」
ダリオは鏡越しに眉を寄せた。
「何が違うんだよ」
「なんか、違うの」
自分でもうまく説明できず、ニコは困ったように笑った。ダリオの大きな手が、細い肩へ触れる。
答えはすぐに出た。本当は、嫌なわけがない。
ダリオと一緒にいるのも、触れられるのも、こうして鏡の中で二人並んでいるのも、全部好きだった。
「……なんか、はずかしいだけ」
そう言ってしまった途端、今度こそ自分の顔を見ていられなくなった。
ニコは俯き、膝の上で指を組んだ。
ダリオはしばらく黙っていたが、やがてニコの肩へ回していた手を緩め、濡れた髪を一度だけ撫でた。
「……ほう。なるほどな」
その声が、静かな浴室に低く響いた。普段なら気にも留めないはずの反響が、今日は妙に耳へ残る。
ニコはそっと顔を上げ、鏡の中のダリオを見た。
相変わらず眉間に皺を寄せているくせに、こちらを見る目は少しも怖くない。
「……ねえ? お風呂ってさぁ、声、響くんだね」
「そりゃそうだろ」
「そっかあ……」
そうして答えた自分の声まで、思っていたよりはっきり返ってきて、ニコはまた俯いた。
◆
髪を撫でる手を止めないまま、ダリオはニコの反応を鏡越しに観察していた。
恥ずかしい、というひとことで片付けるには、いささか大仰な反応だったが、それでも理由は見当がついた。
寝室で向かい合うときには、ニコはいつでも相手の顔ばかりを見ている。こちらがどんな表情をしているか、興味津々で覗き込んでは、満足そうに笑うのが常だった。
けれど今は、自分が見られる側でもあることに、改めて気づかされたのだろう。
見るだけだった行為が、見られてもいるという事実に反転した瞬間、こいつはこんな顔をするのか。
そう思うと、普段からあれほど素直に欲求を口にする男が、妙に歯切れ悪く俯いている姿が、腹の底にじんわりとした悪戯心を呼び起こした。
「なあ、ニコ」
「ん、……なに?」
「もう一回、鏡見てみろ」
声をかけると、ニコは肩を強張らせたが、逆らわずに顔を上げた。
湯気で薄く曇った鏡面の向こうに、俯きがちな自分と、その背後に立つダリオの姿がもう一度映り込む。
ダリオは濡れた髪をかき上げながら、その視線がどこへ向かっているかをじっと見極めた。ニコの目は一度こちらの顔を捉えたものの、すぐに自分自身の表情へ引き戻され、そこで動かなくなった。
耳の先がうっすらと赤らんでいるのが、湯のせいだけではないことは、今やはっきりしていた。
「……や、だから、こういうの」
「見てろ」
短い命令に、ニコは息を詰めた。
いつものダリオなら、こんなふうに有無を言わせない言い方で何かを強いることは少ない。
だからこそ、その声の低さが、普段とは違う重みを持って耳の奥まで届いた。
逆らう理由を探そうとしたが、背後から回された大きな掌が、濡れた鎖骨のあたりを撫で下ろし始めると、そんな余裕はあっという間に押し流されていった。
◆
荒い呼吸のまま崩れ落ちそうになった身体を、ダリオの腕が後ろからしっかりと支えた。ダリオは力の抜けたニコを抱き留め、足元を確かめながら、すぐ後ろに置かれていた椅子へゆっくりと座らせる。
「立てるか?」
「……む、り」
「だろうな」
呆れたような声の下に、気遣うような響きが隠れていた。ダリオはシャワーのヘッドを取り、湯の温度を確かめてから、ニコの身体へゆっくりと湯をかけ始めた。
泡と汗で湿っていた肌が流されていくたび、ニコは目を閉じ、肩に伝う湯の重みに身を任せる。
「……もう俺……鏡、見ない」
「無理だろ、そんなもん」
ただ事実を述べるようなあっさりとした声に、ニコは目を細めた。そして答えの代わりに、背後の身体へ重心を預けた。
湯船に浸かる頃には、ニコもようやく落ち着きを取り戻していた。
広い浴槽の中でダリオが背中を壁へ預け、その前にニコが収まっている。
二人で入ってもまだ余裕のある風呂なのに、ニコはわざわざダリオの脚の間へ座り、厚い胸板へ背中をくっつけていた。
「そっち空いてんだろ」
「ここがいいのー」
「狭いだろ。……まぁいい、好きにしろ」
ダリオは短く答え、ニコの肩へ湯をかけてやる。
ニコはその手を捕まえると、自分の胸元へ引き寄せ、指先を弄びながらぼんやりと天井を眺めた。
浴室の照明はいつもと同じだ。濃い灰色の壁も、大きな浴槽も、洗い場の鏡も、何ひとつ変わっていない。なのに、少しだけ違って見える。
「……さっきさ、俺、変な顔してた?」
少し俯いて問いかけてくるニコに、ダリオは少し目を見開いたが、すぐには答えなかった。
ニコが振り返ろうとすると、肩へ回した腕に軽く力を込め、そのまま前を向かせる。そして、唇に意地の悪い笑みを浮かべて返した。
「自分で見ただろ?」
「そういうことじゃなくてぇ……」
「変じゃねぇって言ったろ」
「ほんと?」
「ああ」
ニコは少し考えてから、捕まえていた手を自分の頬へ押し当てた。
「あんたには、あんなふうに見えてたんだね。……俺の顔」
「まぁな」
ダリオは親指で、ニコの頬を一度撫でた。それがなんだか嬉しくて、ニコは目を細め、満足したように笑い、もう一度、広い胸へ背中を預けた。湯が小さく揺れ、浴槽の縁へ触れる音が、浴室に響いている。
ニコは水面にぼんやり映った二人の輪郭を眺め、ふと、思い出したように口を開いた。
「……教官、やっぱでっかいねえ」
「だから、今さら何なんだよ」
「んー。好きだなあって」
ダリオは呆れたように息を吐き、ニコの濡れた髪をゆっくりと撫でる。
ニコはその手に頭を預け、頬を緩めて目を閉じた。
◆
それから数日後。一人で風呂に入っていたニコは、湯船の縁へ両腕を預け、ぼんやりと浴室を眺めていた。
ダリオはまだ、本部から戻っていない。一緒に入ろうと待っているつもりだったが、今日は帰りが遅くなると聞いていたので、先に済ませてしまうことにしたのだった。
広い浴室は、一人で使うには少しばかり持て余す。
浴槽も、洗い場も、何もかもが大きい。ダリオの身体に合わせて選ばれたのだろうその造りは、ニコが一人で使うと余計に広々として感じられる。
ダリオと入れば背中にあるはずの体温がないことも、なんとなく物足りなかった。
「……んー」
ニコは湯の中で脚を伸ばし、足先をゆらゆらと動かした。
その拍子に、ふと、壁の鏡が目に入った。
洗い場の向こうに据えられた、大きな鏡。湯気に曇った表面には、浴室の照明がぼんやりと滲んでいる。
「…………」
あの日、そこにはニコだけではなく、ダリオも映っていた。
背後から包み込むように回された腕も、肩越しに覗く顔も、鏡の中で目が合ったときの、あの妙に落ち着かない気持ちも。
それから。
「…………っ」
思い出した途端、頬が熱くなった。ニコは、湯の温かさのせいだと思いこむことにした。
誰もいないのに、今さら何を恥ずかしがっているのだろう。そう思えば思うほど、あのとき鏡に映っていた自分の顔も、肩越しにこちらを覗き込んでいたダリオの目も、妙にはっきりと思い出されてしまう。
(――良い顔してるなぁ? ニコ)
ニコは思わず、両手で顔を覆った。
「……もぉ」
小さく呟いた声が、浴室に反響した。
それすらも、余計なことを思い出すきっかけになってしまう。
しばらく黙っていたニコは、とうとう耐えきれなくなったように息を吸い込んだ。
膝を抱えて身体を丸め、そのまま湯の中へ顔を沈めると、ぶくぶくと、小さな泡が浮かんだ。




