アイスを食うな -2-
その一言が落ちた瞬間、キッチンの空気が、わずかに変わった気がした。冷蔵庫のモーター音だけが、やけに大きく聞こえる。
ダリオは答えられなかった。眼鏡の奥の目が泳いで、それから、観念したようにニコの顔へ据えられる。
今日一日、散々自分へ言い聞かせてきたはずだった。
ニコは何もしていない。アイスを食べていただけだ。奴に、意図などない。
勝手に記憶を結びつけて、勝手に意識して、勝手に理性を乱しているのは自分のほうだ。
そう何度も自分に言い聞かせて、どうにか飲み込んできたつもりだった。それが今、目の前の男の口から、はっきりと「わざとだ」という答えを突きつけられている。
理性で抑え込んでいた何かが、音を立てて崩れていくのが、自分でもわかった。胸の奥で熱が急速に広がる。
疲れで鈍くなっていた神経が、一気に敏感になる。
ニコもいつもなら、ここで笑って誤魔化すところだ。冗談だよ、とでも言って、話を終わらせる。
けれど今日は、妙に素直な気分だった。あるいは、この男がこんなふうに余裕を失くしているところを、もう少しだけ見ていたいという、単純な意地の悪さだったのかもしれない。
ダリオの喉が小さく鳴るのを見て、ニコはさらに一歩近づいた。
「教官さ。……あのときの俺、どんな顔して見えてた?」
ニコは爪先立ちになって、ダリオの首へ両腕を回した。
熱い肌がシャツ越しに伝わる。耳元に唇を寄せて、わざとゆっくりと囁く。吐息が耳の軟骨を撫で、アイスの甘い残り香が、わずかに混じっていた。
ダリオから、答えは返ってこなかった。代わりに、腰のあたりへ、大きな手が回る。いつもより、ずっと強い力で指がTシャツの生地を掴み、引き寄せる。
「……ニコ」
低く名前を呼ぶ声には、もう、呆れたような余裕は残っていなかった。
喉の奥から絞り出す、掠れた響き。眼鏡の奥の目が、熱を帯びて暗くなっている。
「お前それ、煽ってるつもりか?」
「……そうだけど?」
挑発したつもりだったが、顎を掬われ、強引に唇を塞がれる。
いつものダリオのキスとは違う。角度も、力の入れ方も、余裕のなさが全部伝わってくるような、性急な口づけだった。
舌が割り入ってきて、絡めとられる。息をする暇もないくらい、何度も角度を変えながら、貪るように深く。
ダリオの煙草の苦い残りと、自分の口に残るアイスの甘さが混じり合う。
ニコの背中が、カウンターへ押しつけられ、硬い縁が腰骨に当たって、小さく痛みが走った。それでも、引き離されるよりはずっとましだった。
◆
「……あっつ。さっきまで、せっかく涼んでたのにさ」
力の抜けた声が、ニコの口から漏れた。
ダリオは苦々しい表情で顔を背け、答える代わりに、まだぐったりしている身体を抱え直した。カウンターから下ろし、自分の胸に寄せる。ニコの足は床につかず、すっかり支えられていた。
「教官、あついー。アイス、おかわりしてもいい?」
「好きにしろ」
まだ身体に力が入らず、ニコはそのままダリオの肩へ額を預ける。
明るすぎるキッチンの照明が、二人を容赦なく照らしていた。汗で光る肌も、乱れた髪も、全部が白く映っている。日常の空間が、まだ二人の熱を含んだままだ。
ようやく息が整った頃にも、ダリオはまだニコを腕の中に抱えていた。カウンターから下ろしたあとも、すぐに床へ立たせる気にはなれなかったらしい。
ニコの膝裏を支えていた腕を少し持ち替え、もう片方の手で背中を抱き込むと、そのまましばらくキッチンの壁際に立っていた。ニコもわざわざ降ろしてもらおうとはせず、首へ両腕を回したまま、広い肩へ頬を預けている。
普段なら、こんな場所でいつまでも抱き合っていることなどない。明るい照明の下には、開けかけたままの食材の袋も、夕食の支度を始めるつもりで出しておいた皿も、そのまま残っていた。
冷蔵庫の低い唸りが途切れずに続いている。つい先ほどまで二人が何をしていたのかなど、まるで知らない顔で、日常の音を立てていた。
「……ベッドどころか、ソファにも行かなかったね」
ニコがぽつりと言うと、耳のすぐ近くで、ダリオの息が重たく吐き出された。
「うるせぇ」
「我慢の限界、キッチンだったんだね」
「黙ってろよ……」
珍しく、ばつの悪そうな声だった。
ニコはそれが面白くて、肩へ預けていた頬を少し持ち上げ、至近距離からダリオの顔を覗き込んだ。眉間にはいつもどおり深い皺が刻まれているし、口元も不機嫌そうに引き結ばれているが、耳のあたりにはまだわずかに赤みが残っている。
それを見つけた途端、また笑いが込み上げた。
「教官さあ、ほんとに余裕なかったねえ」
「……誰のせいだと思ってやがる」
「俺?」
「他に誰がいる」
「えー。でも、最初は普通にアイス食べてただけだよ?」
ダリオが答えられないのだろうとわかっているから、ニコはますます嬉しくなってしまう。
普段ならどんなにからかっても、呆れた顔であしらわれるか、適当な悪態を返されて終わることが多いのに、今日は違った。ほんの少し目を合わせるだけでも、その奥にまだ消えきらない熱が残っているのがわかる。
あれほど大きく、強く、何をするにも余裕のある男が。たった一本のアイスをきっかけに、自分のことで頭をいっぱいにしていたのが、嬉しい。
「今度からアイス食べるとき、教官の反応見とこうかな」
「やめろ」
「えー、なんで」
「また妙なこと考えるだろ、お前は」
「妙なこと考えるのは教官もでしょ?」
苦々しげに顔を顰めたダリオを眺めながら、ニコは首へ回していた腕に力を込めた。抱えられた身体がわずかに持ち上がり、胸と胸が近づく。
「俺、教官のこと揺さぶっちゃった?」
「調子乗んな、んなわけねぇだろ」
「ほんとかなぁ?」
ニコは笑いながら、ダリオの頬へ鼻先を寄せた。いつもなら、こんなことを聞いたところでまともな返事は期待できない。呆れた顔であしらわれるか、適当な悪態を返されるか、それで終わりだろう。
けれど今日は、どうしても確かめたかった。自分がこの男の余裕を奪ったことも、ずっと我慢していたという言葉も、全部本当だったのだと、もう一度だけ。
ダリオはしばらく黙っていたが、やがてニコの背中へ回した腕に少しだけ力を込めた。
「……揺さぶられたなんてもんじゃねえだろうが」
「そんなに?」
「二度も言わせんな」
それきり口を閉じたダリオに、ニコはしばらく何も言えなかった。
からかうつもりで聞いたのに、こんなふうに答えられてしまうと、今度は自分のほうが困ってしまう。
いつもは自分ばかりが好きだの欲しいだのと騒いでいるから、ダリオの内側にあるものを、こうして直接聞かせてもらえる機会は案外少ない。
「……へへ」
「何だよ」
「ううん。なんでもない」
ニコは緩んでしまう口元を隠すように、ダリオの肩へ顔を埋めた。
それから、ふと思いついて顔を上げる。
「ねえ、次からさ、ごはん作るとき思い出しちゃうんじゃないの?」
ダリオの眉間に、また深い皺が刻まれた。
ニコはそれを見て、とうとう声を上げて笑った。
「あはは! だって俺がアイス食べてたの見て、あんなに困ってたんだよ。今度はここに立つたび思い出しちゃったりして」
「ニコ」
「なーに」
「いい加減にしろ」
低い声で凄まれても、少しも怖くない。
むしろ、そう言いながらも自分を降ろそうとしないことのほうが、ニコにはずっと愉快だった。腕の中で身じろぎをすると、ダリオは反射的に膝裏を支え直し、身体が傾かないように背中を引き寄せた。
そういうところなのだ。
呆れているくせに、手はいつだって優しい。悪態をついているくせに、抱きしめる腕は緩まない。
ニコは笑うのをやめ、今度は自分からダリオの首へ両腕を回し直した。
「ねえ。俺、あのときしてあげてよかったな」
「お前な」
「だって、あんたがこんなに覚えててくれると思わなかったもん」
ニコは肩へ預けていた顔を上げ、ダリオの目を覗き込んだ。
「俺はさ、教官が気持ちよかったらいいなーって思ってたんだよ。あのとき」
あのときのニコは、怪我をした脚を庇いながら、それでも何かしてやりたいのだと笑っていた。こちらが呆れるようなことを平然と言い出し、いざとなれば少しも物怖じせずに手を伸ばしてくる。
ニコ自身はそれほど大げさに考えていなかったのかもしれないが、ダリオにとっては違った。
自分を喜ばせたいと、あんなにも当たり前の顔で言われたことが、妙に頭から離れなかった。何かをしてやることには慣れていても、何かをしてもらうことには、どうにも慣れない。そのくせ、あの日のニコの顔や声を、何度も思い出してしまう。
そして今日、ただアイスを食っているだけの男を見て、とうとう我慢が利かなくなったのだ。
「十分だった。今さら言うな」
「ふふ。教官、かわいいね」
「……落とすぞ」
「あはは。やだぁ」
笑いながら、ニコはダリオの頬へ唇を押しつけた。
少しだけ離れてから、今度は口元へ触れる。ダリオは眉間に皺を寄せたまま、それを拒まずに受け止め、離れようとしたニコの後頭部へ大きな掌を添えると、もう一度だけ唇を重ねた。
今度の口づけは、先ほどとは違っていた。ただ互いの唇の柔らかさを確かめ、少しずつ息を分け合うようにして、長く触れている。
ニコが鼻から小さく息を吐くと、ダリオの指が髪の間へ沈み、耳の後ろをゆっくりと撫でた。
やがて唇が離れたあとも、ニコはすぐには顔を上げなかった。
広い肩へ頬を寄せ、首筋に残る馴染んだ匂いを吸い込む。煙草と石鹸と、いつものダリオの匂いだった。
「教官、好き」
「……ああ」
「いっぱい好き」
「知ってる」
「またしてあげるね」
ダリオは溜息をひとつ漏らすと、抱えている身体を少し持ち上げ、腕の中へ深く収め直した。細い背中へ回された掌がゆっくりと動き、肩甲骨のあたりを一度撫でてから、腰へ戻る。
ニコはその手つきに目を細め、何も言わずに身体を預けた。
キッチンには、まだ食事の支度が残っている。
腹も減っているし、明日も仕事がある。いつまでもこうしているわけにはいかないことくらい、ダリオもわかっていた。
それでも、腕の中の男を床へ降ろすまでには、もう少し時間が必要だった。




