アイスを食うな -1-
【今回のお話】
ソファでアイスを食べていただけのニコ。
ところが、それを見た教官は、とある出来事を思い出してしまったようで。
何も知らないニコと、勝手に困っている教官のお話です。
『いいこと思いついた』を読んでいただいているとより楽しめると思います。
玄関の扉を開けたとき、部屋の中は妙に静かだった。といっても、人の気配がないわけではない。
脱ぎ散らかされた靴が一足増えているし、廊下の先には明かりがついている。何より、リビングのほうから時折聞こえてくる衣擦れの音が、ここが出ていったときと同じ状態ではないことを教えている。
ダリオは扉を閉め、重たい息をひとつ吐きながら靴を脱いだ。
今日は本部に詰めっぱなしだった。
現場から上がってきた報告書に目を通し、いくつかの案件について隊長連中と話をし、後回しにしていた書類へようやく手をつけて。
隊監という立場になってからは、現場へ出て身体を使う時間より、机に座って人の報告を聞き、判断し、責任を引き受ける時間のほうがずっと長くなった。
それでも疲れるものは疲れる。首を左右へ倒せば、凝り固まった筋が鈍く軋んだ。
「……ニコ?」
返事はない。寝ているのかと思いながらリビングへ入ると、今日もソファの上にニコはいた。
背もたれへ斜めに身体を預け、細い両脚を座面の上へ投げ出している。着ているのは、どう見てもダリオのTシャツだった。
黒い布地はニコの薄い身体には大きすぎて、肩の位置は落ち、袖口から覗く腕はいっそう細く見える。裾も腰をすっぽり隠して腿まで落ちていて、その格好のまま本人はたいそう寛いでいるらしかった。
もうどちらの服なのかわからない。正確にはダリオのものなのだが、ニコが勝手に着ている頻度を考えれば、いちいち取り返すのも馬鹿らしくなっていた。
「ただいま」
「おひゃえり~」
ダリオは思わず足を止めた。ニコの口に、何か入っている。
白っぽい棒状のアイス。木の棒を指先で持ち、先端を口へ入れたまま、ニコは眠そうな目をこちらへ向けている。
「……何食ってんだ、お前は」
「あいひゅ」
「食ってから喋れ」
ニコは言われたとおり、口からそれを抜き、もういちど答えた。
「アイス」
「見りゃわかる」
「は? 聞いたの教官じゃん」
「……そうだな」
それ以外に言いようがなかった。ダリオはニコから視線を外すと、羽織っていた上着を脱ぎ、いつもの場所へ掛けた。
ただのアイスだ。ニコが勝手に買って来て冷凍庫に入れておき、それを勝手に取り出して食っている。
何もおかしなことはない。おかしいとすればそれは。
「…………」
後ろからしゃり、と小さく、齧る音がした。
ダリオの眉間に皺が寄った。思い出す必要のないものを、思い出したのだ。
少し前、足を痛めて帰ってきたニコが散々世話を焼かせた挙句、本人なりに何を考えたのか、妙に満足そうな顔で口にした言葉。
(――俺、おくちでしてあげよっか)
「…………」
ダリオは眼鏡を押し上げた。
忘れろ。今、目の前にいる男はアイスを食っているだけだ。
ニコという人間は、意図してこちらを困らせようとしているときには、もっとわかりやすい顔をする。
口元をにやつかせたり、わざと目を合わせてきたり、こちらが何か反応するのを待つような間を取ったりする。
だから今は違う。何かを狙っているわけではない。ソファにだらしなく転がって、ぼんやりアイスを食っているだけ。
完全に無罪だった。だからこそ腹が立つ。
ニコにではない。数日前の出来事ひとつで、ただ棒状の菓子を食っている恋人をまともに見られなくなっている自分に、である。
「教官ごはん食べた?」
「まだだ」
「俺もまだ。なんかある? 教官作って」
「……俺は今帰ってきたんだぞ」
「俺もおなかすいてる」
「話聞いてたか?」
いつもの会話だ。いつものニコ。
ダリオは腕時計を外しながら、できるだけそちらを見ないようにした。
しかし、視界というものは厄介だった。見ないように意識すればするほど、そこにあるものの存在ばかりが鮮明になる。
ソファの端に投げ出された細い脚。大きすぎる自分のTシャツ。片手に持った棒アイスと、それが口元へ運ばれる動き。
「…………」
駄目だ、煙草でも吸おう。そう思ってポケットへ手を入れ、箱を取り出す。
一本咥えて、火をつける。煙を深く吸い込み、ゆっくり吐いた。少しは頭が冷えるかと思ったが、そんなことはなかった。
そもそも自分は冷静だ。頭では、ちゃんとわかっている。
ニコはアイスを食っているだけだ。それなのに身体というものは、時として本人の理性よりよほど馬鹿だった。
目に入ったものと、記憶に残っているものを勝手に繋ぎ合わせ、頼んでもいない連想を引っ張り出してくる。
あの日、ニコが何を言ったのか。どんな顔で自分を見ていたのか。そして最後に、何を言ったのか。
(――教官にしてあげるの、好きかも)
「…………くそ」
「ん? なんか言った?」
「言ってねぇ」
「聞こえたよ? なに怒ってんの?」
「怒ってねぇよ」
即答したものの、自分でも少し怪しいと思った。
ニコはアイスを口にしたまま、訝しそうにこちらを見ている。
その視線を真正面から受けて、ダリオはさらに眉間の皺を深くした。
「……こっち見んな」
「あんたが俺見てたんじゃん」
「見てねぇ」
「絶対見てたよね?」
納得していない顔をしながらも、ニコはそれ以上追及しなかった。
代わりにまたアイスへ視線を戻し、口元へ運ぶ。
ダリオはそちらを見ずに、煙草に集中した。見る必要はない。
ないのだが。数秒後、結局また視線が戻った。
「……ニコ」
「んー?」
「それ、早く食え」
ニコの動きが止まった。
半分ほど小さくなったアイスを手に持ったまま、目だけがダリオを見る。
「なんで?」
「溶けるだろ」
「まだだいじょーぶ。急いで食べたら頭キーンってするじゃん」
「知るか、いいからさっさと食え」
「教官、今日変だよ」
ニコはアイスを見、ダリオを見て、もう一度アイスを見る。
「……教官、アイス嫌いだったっけ? なんでアイスにキレてんの?」
「キレてねぇ」
「キレてるよねぇ」
まったくもって理不尽だった。
ニコは何も悪くない。本人の言うとおり、アイスにも罪はない。
悪いのは、たった数日前の記憶と目の前の光景を勝手に結びつけている自分の頭であって、ニコがアイスを食う速度にまで口を出すのは、どう考えても筋違いだった。
わかっている。わかっているから、なおさら腹立たしい。
「……もういい。好きに食え」
「最初からそうしてるよ。あんた疲れてんじゃない?」
「たぶんな」
ダリオはすべてを諦め、ソファからできるだけ離れた椅子へ腰を下ろし、煙草を灰皿へ押しつける。
身体を預ければ、背もたれが小さく軋んだ。眼鏡を外して、眉間を指で揉む。
「ねぇ、ほんとに大丈夫? 今日ずっと仕事だった?」
「まあな」
「じゃあごはん、俺やろっか?」
意外な言葉に、ダリオは顔を上げた。
ニコはそう言いながら、相変わらずソファに転がっている。
「お前が?」
「なんか簡単なのなら」
「……できんのか」
「失礼だなあ。俺だってなんかできるよ。なんか焼くとか、茹でるとかー、レンジでチンするとかさあ?」
ニコはむっとした顔をして、それから残っていたアイスを見た。
「これ食べたらやるね。疲れてんでしょ」
「お前に台所任せるほうが疲れる」
「じゃああんたがやって、俺が手伝うのは?」
「……それならいい」
「やった」
ニコは嬉しそうに笑った。その顔を見てしまえば、さっきまで何に苛立っていたのかすら馬鹿らしくなる。
こいつは、本当に何もしていない。自分が疲れていると思って、珍しく食事を用意しようとまでした。それを相手に何を一人で勝手に振り回されているのだ、とダリオは心の中で自分へ悪態をついた。
やがてニコは最後のひとかけらを口へ入れて、木の棒だけになったそれを眺める。
「ごちそーさま」
ソファから身体を起こし、ゴミ箱へ棒を放り込む。
ようやく終わった、とダリオは思い、それ以上は考えないことにした。
ダリオはもう一度眼鏡を外し、親指と人差し指で眉間を強く揉んだ。
「教官やっぱ疲れてんの? 今日早く寝たら?」
「ああ、そうだな」
「ごはんも適当なのにしようよ。俺なんでもいいし」
「お前のなんでもいいは信用してねぇ。出したあとで肉がよかったとか言うだろ」
「じゃあ肉がいい」
「ほらな」
ニコの笑い声を聞きながら、ダリオは眼鏡を掛け直した。
これでいい、もう終わった。アイスもなくなって、余計なことを考える理由もない。
「じゃあ俺、お皿出すね」
「お前が台所入ると邪魔だから、あとで呼ぶ」
「えぇ? わかったよー」
ニコは素直にソファへ戻った。
ダリオも立ち上がり、キッチンへ向かおうとする。
その背中へ、何気ない声が飛んできた。
「でも教官、さっきほんと変だったよね? 俺なんかした?」
振り返れば、ニコは本当にわかっていない顔をしていた。
眠たげな薄い色の目をこちらへ向け、大きすぎるTシャツの裾を弄りながら、ただ答えを待っている。
ニコは何もしていない。アイスを食っていただけだ。
勝手に思い出したのは自分で、勝手に意識したのも自分で、勝手に苛立っていたのも自分だった。
ダリオは、大きな溜息とともに答えた。
「……してねぇよ」
「そっか。じゃあやっぱあんたが変だったんじゃん」
「うるせぇ」
「へへ」
笑うニコを残し、ダリオは今度こそキッチンへ向かった。今夜はさっさと飯を食わせて、さっさと寝ようと決めた。
少なくとも、もう余計なことを考えずに済むはずだった。
――ニコが、自分が何をしたのかに気づかなければ。
冷蔵庫の中を覗き込んでいたダリオの背後で、それまでソファに座っていたニコが、ふと黙り込む。
何かが引っ掛かったらしい。
さっきまでのダリオの視線、妙に早く食べろと急かされたアイス。
数日前に、自分が言ったこと。
「…………あ」
「なんだ」
ダリオは振り返らない。冷蔵庫から漏れた冷気が、腕に触れている。
「教官、……もしかして」
「なんだ」
「さっきのアイス?」
十分すぎるほどわかりやすい沈黙に、ニコの顔へ、ゆっくりと嫌な笑みが広がる。
「えー。だって俺、普通にアイス食べてただけだよ?」
「わかってる」
「なんにも考えてなかったよ?」
「わかってるっつってんだろ」
「なのに? 教官、あれ見て思い出してたの?」
「言うな」
ニコはとうとう声を上げて笑った。
ダリオは冷蔵庫の扉を閉めると、ひどく疲れた顔で振り返る。
「お前は何もしてねぇ。俺の問題だ。だから忘れろ」
「ふぅん。……やだ」
「ニコ」
ソファから降りたニコが、今度はもう何も知らなかった先ほどまでとは違う顔で、ゆっくりこちらへ歩いてくる。
素足の音が、床に小さく響く。大きすぎるTシャツの裾が、歩くたびに腿を擦る。
「じゃあさ、教官」
「……なんだ」
目の前で止まり、ニコは少しだけ首を傾けた。眠たげな目が、故意に細められている。
「今は?」
「何が」
「今は、俺がわざとやってる」




