好きなわけあるか -2-
洗濯物を干し終えたダリオがリビングへ戻ると、ニコはまだソファにいた。
先ほどまで眺めていた雑誌は腹の上に伏せられ、代わりに片手で何かを弄んでいる。
近づいてみれば、古い写真の束だった。いつ撮ったものなのか、ニコ自身も覚えていないらしく、一枚ずつ裏返しては、何かを確かめるように眺めている。
「お前、あの派手な下着はどうした」
「派手なって? どのやつ?」
「花のやつだ」
「あー……あれは、えっとねぇ……」
ニコは少し考えるように目を泳がせ、それから何かを思い出したらしく、ぱっと表情を明るくする。
「あ、思い出した思い出した。あれねえ、捨てちゃった」
「捨てた?」
「うん。ゴムが伸びちゃって。なんかずるずるするから。流石にさ、俺の意志に関係なくおしりが出ちゃうのはちょっとねー」
「……そうか」
それなら仕方がない。下着など消耗品だ。
傷んだものをいつまでも穿いているほうが問題であるし、実際、ニコには以前から、気に入ったものを必要以上に長く使い続けるところがあった。
ダリオはそれで話を終えるつもりだった。
ところが、ニコは写真を膝の上へ置くと、こちらを見上げたまま、ゆっくりと口元を緩めた。
「……なに? 教官、あれ好きだった?」
「好きなわけあるか」
考えるより先に答えていた。
ニコは一瞬きょとんとした顔になり、それから、いかにも楽しそうに笑い出した。
「あははっ、そっかあ」
「何がおかしい」
「だって、なくなったの気づいたんだ?」
「洗濯してりゃわかるだろ」
「ふうん」
その返事が、妙に含みを持って聞こえた。
ダリオは眉間の皺を深くしたが、ニコはまるで気にした様子もなく、膝の上の写真をまとめて脇へ置くと、ソファからするりと立ち上がった。
素足が床を踏み、細い身体がこちらへ近づいてくる。
ダリオの前まで来たところで、ニコは顔を上げ、少しばかり背伸びをするようにして、彼の胸元へ両手を添えた。
「教官ってさあ? 俺のこと、よく見てるよね」
「お前があちこちで妙なことするからだろ」
「ぱんつも?」
「…………」
ニコが笑う。その笑い方は、昔から変わらない。
十歳の頃から、こいつはこうだった。こちらが何かを言えば、その言葉の端をつまみ上げて、面白がるように振り回す。
叱られれば口を尖らせ、呆れられれば笑い、こちらが本気で困っているときに限って、妙に嬉しそうな顔をすることがある。
もっとも、あの頃と今とでは、変わったことも多い。
背丈は伸びたし、声も変わった。幼い頃にはなかった身体の線が服の下に生まれ、こちらを見上げる目にも、かつてとは違う色が宿るようになった。
そして今では、こうして何のためらいもなく、ダリオの胸へ触れてくる。
ダリオはその手を払いのけることもなく、ただ、近すぎる距離にあるニコの顔を見下ろした。
「……洗濯の話だろうが」
「うん」
「なら、余計なこと言ってねえで――」
「俺ね、あれ、あんたが選んでくれたから結構好きだったんだよ」
言葉が一度途切れ、ニコは続けた。
「でももう古くなっちゃったし。今度また、一緒に買いに行こうね」
そう言って笑った顔はただただ嬉しそうで、こちらを困らせようとする気配が、もうほとんど残っていなかった。
たかが下着の柄を覚えていたくらいで、何をそんなに喜ぶことがあるのか。
ダリオには、やはりよくわからない。
けれども、ニコの手が胸元から離れようとしたとき、彼は無意識にその細い手首を掴んでいた。
「……教官? どしたの」
「買い物なら、夕方に行くぞ」
「え?」
「洗剤も切れそうだからな」
「うん!」
ニコが瞬きをし、ぱっと笑ったのを見届けて、ダリオは手を離して台所へ向かった。
背後から、ニコが楽しそうに何かを喋り始める。今度はピンク色のいちごもいいだの、さくらんぼもかわいいだの、以前見かけたアヒル柄がまだ売っているかもしれないだの、聞いているだけで頭が痛くなりそうな話だった。
ダリオが返事をしなくても、ニコは喋り続ける。そのことに、もうすっかり慣れてしまっていた。
◆
その日の夕方、二人は予定どおり買い物へ出かけた。
洗剤と食料品を揃え、最後に立ち寄った衣料品売り場で、ニコは予想どおり、下着の棚の前にしゃがみ込んだ。
ダリオは少し離れたところに立ち、腕を組んで待っていた。やがてニコが、何かを見つけたらしく顔を上げる。
「教官! これ!」
差し出されたのは、白地に真っ赤なさくらんぼが散りばめられたボクサーパンツだった。
ダリオはそれを見下ろし、ゆっくりと眉間へ皺を寄せた。
見覚えがある。ありすぎるほど、ある。確か、あれは何週間か前のことだった。
休日の朝、寝室で下着が見つからないと騒ぎ始めたニコに、散々付き合わされた。挙げ句、ベッドと壁の狭い隙間へ腕を突っ込んで、ようやく引っ張り出したのが、まさしく同じ柄のものだった。
あのとき、どうしてそんな場所に落ちていたのかと問えば、ニコは悪びれもせずに、ゆうべ教官が脱がしたんじゃん、と言ったのである。
否定はできなかった。実際、脱がしたのはダリオ本人だ。ただ、そのあとどうしたのかまでは、覚えていなかった。
寝室の壁際へ下着を放り投げた記憶などないし、そもそもあの夜、自分がそんなことにまで気を回していたとは到底思えなかった。
ニコの身体を抱き寄せ、唇を重ね、何度も名前を呼ばれて、そのたびに腕へ力がこもったことは覚えているのに、脱がした布切れをどこへやったのかという、どうでもいいことだけが、綺麗に抜け落ちていた。
その結果翌朝になって、大の男が、床へ片膝をつき、ベッドの下を覗き込みながら、小さなさくらんぼ柄の下着を探す羽目になったのである。
あれは、できれば二度と思い出したくない光景だった。
「……それは持ってるだろ」
「うん。でももう一枚あってもよくない?」
「同じものを二枚買ってどうする」
「穿くよ? お気に入りなんだよぉ、これ」
「そういうことじゃねえ」
ニコは首を傾げ、それから、さくらんぼ柄を胸元へ引き寄せたまま、にこにこと笑った。
「じゃあ、こっちは?」
今度差し出されたのは、紺色の生地に、小さな白いアヒルが整列したものだった。
ダリオはしばらくそれを眺めた。
アヒルはどれも同じ方向を向いていたが、どういうわけか、一羽だけ反対を向いている。
「かわいいでしょ」
「……好きにしろ」
「やったあ」
ニコは満足そうに、アヒル柄を籠へ入れた。
ところが、それで買い物は終わりかと思えば、今度は同じ棚へ手を伸ばし、まったく同じ柄のものをもう一枚引っ張り出してきた。
「何してんだ」
「教官のぶん」
「いらねぇよ」
「えー。おそろいにしようよ」
「しねぇっつっただろうが」
以前にも似たようなやり取りをした覚えがある。
あのときは確か、馬鹿みたいに大きな花が咲いた下着だった。今回はアヒルである。どちらがましかと問われれば、答える気にもならない。
ニコはそんなダリオの心境など知る由もなく、手元の包装をひっくり返して、何やら真剣に確かめ始めた。
「……あ、でも教官のサイズないかも」
「なくていい」
「いちばん大きいのでも小さいかなあ」
「だから、俺は買わねぇっつってんだろ」
「そっかあ。残念」
心底残念そうな声だったので、ダリオは思わず、その顔を見下ろした。
ニコは相変わらず、アヒル柄の下着を二枚持っている。片方は自分用で、もう片方は、どうやら本気でダリオに穿かせるつもりだったらしい。
いったい何がそんなに嬉しいのか。同じ柄の下着を穿いたところで、何かが変わるわけでもあるまい。
そもそも、普段は服の下に隠れているものだ。二人並んで見せびらかすような機会があるはずもなく、仮にあったとしても、ダリオは御免だった。
けれど残念そうに眉を下げ、口を半開きにしたその表情は妙に愛らしい。ダリオは思わず頭のひとつでも撫でてやろうと手を伸ばしかけて、現状の馬鹿らしさを思い出して引っ込めた。
「ねえ、教官」
「……今度は何だ」
「じゃあさ、俺が教官とおそろいのやつ買おっか?」
「は?」
「教官がいつもはいてるやつ。あれなら俺もはけるよね?」
ダリオは返事をしなかった。
たしかに、自分の下着はほとんどが無地で、似たような色のものばかりだった。ニコが同じものを買おうと思えば、別に難しい話ではないだろう。
だが、それでは話が違う。
いや、そもそも何の話だったか。
「お前が穿くもんまで、俺が決める必要はねぇだろ」
「やった。じゃあ今度買おうね」
「今度って何だよ」
「教官と一緒に選ぶの」
ニコはそう言って、へらりと笑った。
まったく、どうしてこいつは、下着を一枚買うだけのことを、そんなに楽しそうに話すのだろう。
ダリオには理解できなかった。
ただ、ニコが手にしていた二枚目のアヒル柄を棚へ戻すのを見届けてから、何となく、次に下着を買い足すときには、こいつも連れてくることになるのだろう、と思った。
笑みを浮かべてアヒル柄を眺めるその横顔を見ながら、ダリオは、また妙なものが増えた、とだけ思った。
どうせ数日もすれば、あれも洗濯籠の中から出てくるのだろう。小さな下着を広げ、皺を伸ばし、ほかの衣類と一緒に干して、乾いたら畳んで引き出しへしまう。
そうしたことを何度も繰り返しているうちに、アヒルの数も、向いている方向も、いつの間にか覚えてしまうのかもしれない。
そのことが、少々腹立たしい。それを嫌だとも思わない自分も。
「教官、今度はなくさないでね? 俺のぱんつ」
「……お前な」
「だって、またベッドの裏に落ちちゃったら困るじゃん」
「俺が落としたとは限らねえだろ。お前が蹴り飛ばしたんじゃねぇのか」
「えー? そうかなあ」
ダリオは深々と息を吐き、買い物籠を持ち直した。
結局、あのさくらんぼ柄をいつどうやって、どこへやったのか、今も思い出せない。
ただ、次に同じことが起きたとしても、おそらく自分はまた、床へ膝をついて探すのだろうということだけは、妙にはっきりとわかっていた。
ニコが困った顔で、教官、と呼ぶなら。たとえそれが、たった下着一枚のことであっても。
「もう行くぞ」
「はあい」
ダリオが歩き出すと、ニコは小走りにその隣へ並んだ。
買い物籠の中では、洗剤の詰め替え袋と卵のパックの隣に、白いアヒルが一羽だけ、反対を向いていた。




