2-5
低い二胡の音色が、夜の闇に静かに溶けていく。
実直で無骨な蒼土の宮廷に、風流を解する者は多くない。
繊細で美しい音色の主は、宮廷でも数えるほどしかいない、楽を愛し、奏でることを嗜む男。
雲の皇師、嶺那執忤だ。
幼い頃からこの音に寝かしつけられてきた雲は、普段ならとうに夢の中だったが今夜は違う。
胸が高鳴り、目を閉じても意識が冴えたままだった。
やがて、音が止む。
「太子、そろそろお休みください。
明日に響きますよ」
楽器と同じく、低く落ち着いた声だ。
普段は心地よいが、史書の読み上げともなれば途端に睡魔を呼ぶ、少々厄介な声でもあった。
雲は無理に閉じていた瞳を、ぱちりと開ける。
「師父、興奮して眠れません」
興奮といったが、その実雲の心の大半を占めているのは緊張だった。
澄んだ高めの声に、執忤は困ったように笑う。
「それでも眠っていただかねば。
明日は殿下の晴れ舞台なのですから」
そのとき、扉が無遠慮に開かれた。
「寝れないなら寝なければいいじゃないか!!
そうでしょう、皇師!」
突然の乱入に、執忤は露骨に眉を顰めた。
「岑!」
「士衡」
雲の声はぱっと明るくなる。
だが執忤の呼びかけは反対に低い。
十九になっても岑は落ち着きがなく、大事な教え子に悪戯を吹き込もうとする。
穏やかな執忤を、岑だけは数え切れぬほど怒らせてきた。
「さあ太子殿下、俺と朝まで語り明かしましょう!
そうすれば明日なんてすぐ来ますよ!」
魅力的な提案だった。
雲はすぐにでも頷きたかったが、皇師の手前、黙りこむ。
案の定、岑は首根っこを掴まれ、あっけなく連行されていった。
静寂が戻る。
余計に目が冴えてしまった雲は、それでも大人しく横になる。
先ほどまで流れていた低い旋律を思い出す。
気づけば、眠りに落ちていた。
*****
重厚な白衣は、十二歳の雲には重すぎた。
今日のために一年前から仕立てられたという礼装は、どれも見事な出来栄えだった。
幾重にも重ねられた衣。
礼服には銀糸の刺繍が細密に施され、光を受けて煌めく。
そして何より、銀の冠は精緻な意匠を凝らされ、見る者の視線を奪う。
その下にある少年の顔もまた、息を呑むほどに整っていた。
まだ残る幼さが、かえって神秘性を帯びさせている。
日頃太子を侮る官吏たちでさえ、その容姿にだけは言葉を失っていた。
だが雲は、彼らの視線を気にも止めず先ほど冠を載せてくれた皇師を探していた。
重い衣と冠を揺らしながら視線を巡らせると、執忤は露台に立ち、山間を見渡していた。
「師父!」
振り返った執忤の目が、まぶしそうに細められる。
「走ってはいけません」
しかし優しい表情から出てくるのは常と何ら変わらない厳しい声だった。
雲は駆けるのはやめたが、それでも早足で近づく。
「師父!
私の字は——嶺の字は!」
息を弾ませる雲に、執忤は微笑み、乱れた髪を整えてやる。
「ええ。僭越ながら、私の姓から一字を。
……陛下のご意向です」
最後の言葉は、おそらく嘘だ。
王が息子の名付けに心を砕いたとは思えない。
執忤が考え、形ばかりに国王の意見としただけだろう。
雲にもそれはわかっていた。
むしろ今は大好きな敬愛する師が考えてくれたことの方が嬉しかった。
「ありがとうございます、師父」
執忤は衣を整えながら、額を軽く弾く。
「君主たる者、常に冷静に。
走っ衣装を乱すなど論外です」
そして小さく続ける。
「……私も、嬉しかったのは事実ですが」
雲の頬が綻ぶ。
だが次の瞬間、表情を曇らせた。
「……師父。
やはり、私は君主になるのですか?」
「……ええ。あなたは太子です」
執忤は短い沈黙の後、事実を告げた。
彼はこの少年が、王に向いていないと思っている。
聡明で、優しく、誰よりも澄んでいる。
だが、王には向かない。
本心では自由に生きてほしかったが、それは言えないのだ。
太子の拳が震える。
「成年しても……この声は子供のままです」
雲は重い布に包まれた腕を動かし、自身の喉に触れる。
喉を痛いほどに押す。
執忤はその手を包み込んだ。
「殿下のお声は澄んでいて美しい。
私は、その声が好きですよ」
「……ありがとうございます」
成年したばかりの子供は無理に笑う。
その表情に執忤が何か言いかけた時、雲の背中を小さな衝撃が襲った。
視線を落とすと後ろから白い手が腹へと伸びている。
「兄様!
冠礼は終わったのでしょう?
だったら芙にもそのお姿を見せにきていただきませんと」
雲の背中に抱きついた少女は兄の顔を覗き込む。
やがて体を離すと雲を正面から見つめる。
爪先から頭までじっくりと見たのち、感嘆の声を上げた。
「すごい!綺麗だわ。
真っ白な衣装が兄様によく映えてる」
心底からの称賛に雲は少し恥ずかしそうに視線を逸らした。
「ありがとう。芙」
芙は淡い茶色の瞳を細めて花のように笑う。
「姫君、もう少し慎みを待って行動してください。
来て頂かなくてもこちらから兄君の晴れ姿は見せにまいりましたのに」
執忤の叱責に芙はくるりと振り返り、不満気に頭を傾げた。
「いやね、執忤。
そちらからきてしまったら兄様は母様たちと顔を合わせなくちゃいけないじゃない。
こんな日にまで兄様の耳にあんな人たちの声を入れたくないわ」
「お母君にそんなことを言ってはいけませんよ。
……士衡はどこです。
殿下の警護をさせていたはずなのですが」
執忤が周囲を見渡すと、芙は肩をすくめる。
「岑兄さんなら向こうの屋根の上で寝てたわよ。
木の実を投げてみたけど起きなかったわ」
その言葉に執忤は大きくため息を吐き、「士衡!」と名を呼ぶ。
するとあまり時をおかずに背の高い青年が慌てて3人の前に現れる。
岑はへらりと笑う。
「なんです?皇師」
「なんですも何もないでしょう。
あなたはこんな日にも居眠りですか」
全て知られていると分かった岑は堂々と開き直った。
「こんな日ってよく晴れた昼寝日和だ。
それに縁起のいい明るい日でもある」
岑は笑みを浮かべながら雲に目配せした。
「士衡!」
「皇師〜。
そんなに怒らないでくださいよ。
皇師はいつだって太子殿下のことは目に入れても痛くないほど可愛がってるって言うのに。
俺のことは士衡士衡って!
岑岑って呼んでくれないんですか?」
執忤は強く右手を握りしめる。
「あなたは出会った時から士衡でしたよ。
それに私は殿下のことだって雲雲なんて呼んだことはありません」
岑は執忤に耳をつねられ、芙はその様子に楽しそうに笑い声を上げた。
雲はその様子を呆れつつ眺める。
ほとんど濁っている雲の世界で、この三人だけは常に鮮明に見える大事な家族だった。




