2ー6
6歳の秋に雲は高熱を出した。
熱は三日三晩続き、下がった頃に雲の世界はおかしくなった。
ずっと必死に看病をしてくれていた母の顔が靄の向こうにあるようにぼやけて見えた。
意識を取り戻した息子に喜ぶ母の手を思わず振り払った。
まるで汚いものを払うようにされた母はひどく傷ついたような顔をした。
自分でも自身の行動を理解できず困惑しているうちに母は静かに部屋を去った。
その後は侍女たちが世話をしてくれたが彼女たちの顔もみな一様に曇っており自分の目がおかしくなってしまったのではと恐ろしかった。
人の顔が見えにくくなることは以前にもあった。
相手が強い感情を現した時にそう見えることもあったが、こうもずっとなのは初めてだった。
侍女たちも様子のおかしい雲を訝しがり、王妃の手を振り払った姿も見ていたため、雲にあまり近寄りたくないようだった。
手を払ってしまった後も王妃は何度か雲のもとを訪れたが、正面から目を合わせる勇気が湧かないようで、雲の方もどうしたらいいのかわからず母子の関係はギクシャクしていた。
完全に熱が下がって1週間後、誰もいない部屋で雲は耐えきれなくなって小刀を自身の目に向かって構えた。
世界が曇って見えるなら、自身の目がおかしくなったのだ。
母を傷つけ、正面からその顔を見れないのなら狂ってしまった目など見えなくなって仕舞えばいい。
そう思い、刀を握る手に力を込める。
覚悟を込めてそれを振りきり後少しで瞳を刺すというところで手が震えた。
それ以上近づけることができず涙が溢れた。
「太子!」
その時執忤の焦った声が聞こえた。
彼は慌てて雲のそばまで駆け寄るとその小刀を奪い外に投げた。
雲の肩を強く掴む。
「太子殿下!何をしているので、……」
雲の突拍子もない行動を叱りかけた声は途中で途切れた。
雲は両目を大きく見開き、執忤の顔をしっかり正面から見据えていた。
その視線の色は尋常じゃなく、執忤は言葉を失った。
やがて雲は執忤の胸に飛び込み大声をあげて泣いた。
全てが濁った世界で、その師父だけが鮮明に見えたのだ。
落ち着いた後、雲は彼が来るまでの7日間に何があったのかを話した。
聞いた後執忤はしばらく黙り込んだが、居住まいを正して雲を見据える。
「殿下、私はその原因を知っております」
「ほんと!本当なの?!」
雲の顔がパーと明るくなる。
だが。執忤はゆっくりと首を振った。
「理由がわかるだけです。
残念ながらおそらくそれは解決しない」
「どうして?理由が分かるならどうにかできるかもしれないでしょう?
師父!早く話して!」
執忤は躊躇いがちに口を開いた。
「それは、蒼土の霊獣のせいです」
「れいじゅう?」
執忤の言葉を雲は不思議そうに繰り返す。
「はい。
蒼環二章に出てくる霊獣を覚えていますか?」
「うん。
二尾の岩狐でしょ。
ご先祖様をこの地に導いたという」
「ええ、そうです。
しかしそれは作り話でして、本来は霊獣は姿を持たないのですよ」
「じゃあどうやってご先祖様を導いたの?」
「初代王の中に霊獣はいたのです。
ある日、彼は何かに憑かれた。
それが彼の頭に語りかけこの地に導いたのです。
神話性を高めるために蒼環ではそれを二尾の狐としましたが。
本来は霊獣と呼ぶのが正しいのかも分かりません」
執忤の語りに雲は首を傾げる。
「そんなの僕は今まで聞いたこともないよ。
本当に合ってるの?」
雲の言葉に執忤は静かに頷いた。
「聞いたことがあるはずがございません。
この話は蒼土十二族の中でも我々嶺那だけが知っているお話なのですから。
……建国以来約800年の間で霊獣をその身に宿した者はおりません。
しかし、いつかくるその日にそれを支えることを使命としたのが我々嶺那なのです。
殿下の症状はまさに言い伝えられてきたものと同じです」
そこまでいうと執忤は体を雲に近づけ、その両手を包み込んだ。
「殿下、その目は殿下を今後も苦しめるでしょう。
しかし、それに気を狂わされてはなりません。
そして、それを他に知られてもなりません」
「どうして…」
雲は言いかけたが、執忤の真剣な目を見てだまりこむ。
「どうしてもです。
それが殿下のためなのです」
執忤の手に力が入る。
雲はその強い視線をうけて、ゆっくりと頷いた。
以来どこに行っても人が見える限り雲の見る世界は曇っている。
しかし、なぜか執忤と芙と岑の顔だけははっきりと見えた。
自然と雲は外に出ることを嫌い、彼ら3人以外とはあまり関わろうとしなくなった。
加えて一度目を潰そうとした時の恐怖からか刃物を持つことが怖くなり剣の修行もしなくなった。
結果として大量の書物を読み漁り、鏃は平気だったため弓の腕だけを磨くのが日課となった。




