二つの痛み
「よく来た」
ザイロスはもう一度言った。
黒瀬はマグナムを構えたまま、ザイロスを見た。街を燃やし、日野原たちを人質にした男が目の前にいる。怒りが湧いてくるはずだった。
しかし——湧いてこなかった。
代わりに、神城の言葉が蘇った。
(あいつも——かつてお前たちと同じだった)
「一つだけ聞かせてくれ」
黒瀬は静かに言った。
「なぜ——こんなことをした」
ザイロスは黒瀬を見た。その目に、僅かに何かが動いた。
「理由を聞いてどうする」
「理解したい」
ザイロスは黒瀬の言葉を聞いて、少しの間黙っていた。
やがて口を開いた。
「お前は——大切な人を失ったことがあるか」
黒瀬は答えなかった。
「俺にはいた」
ザイロスは木を見上げた。黒い幹に触れるように、手を伸ばす。しかし触れなかった。
「家族がいた。友人がいた。将来を約束した人がいた。ごく普通の、何でもない日常だった。それが——全てだった」
黒瀬は黙って聞いていた。
「パワーバランスが崩れた日、異世界に亀裂が入った。俺の目の前で——全員が、その亀裂に吸い込まれていった」
ザイロスの声は静かだった。感情を押し殺しているのではなく、何度も反芻して、もう痛みさえ麻痺してしまったような静けさだった。
「助けようとしたが、間に合わなかった。手を伸ばしたが、届かなかった。それだけだった」
黒瀬の胸に、鈍い痛みが走った。
「それから俺は——メカニズムを解明するために全てを費やした。何年もかけて、ようやく分かった。大切な人たちは現代に流出していると」
「……だから現代を」
「現代があるから、俺の世界に亀裂が入った。現代があるから、大切な人たちは消えた」
ザイロスは黒瀬を見た。
「お前たちを憎んでいるわけではない。しかし——俺の世界が消えるくらいなら、現代を征服する以外に選択肢はなかった」
黒瀬はザイロスを見ていた。
怒りはなかった。しかし悲しみがあった。
この男は——ただ、大切な人たちを失いたくなかっただけだ。その一心で、全てを賭けた。それが黒瀬には——痛いほど分かった。
「俺も——守れなかった人がいる」
黒瀬は静かに言った。
ザイロスの目が、僅かに動いた。
「日野原さんという人だ。あの木の中にいる。俺のせいで、守れなかった」
黒瀬はマグナムを下ろした。
「お前の痛みは——分かる気がする。大切な人を失う恐怖も、取り戻したいという気持ちも」
ザイロスは黒瀬を見ていた。
「だから——一緒に考えたい。どちらの世界も失わずに済む方法を」
沈黙が落ちた。
木の枝が、微かに揺れた。果実が淡く光っている。
ザイロスはしばらく黒瀬を見ていた。その目の奥に、複雑な色が揺れていた。
やがて口を開いた。
「お前が——本気でそう思っているとしたら」
「本気だ」
「証明してみせろ」
ザイロスの魔力が、静かに高まり始めた。
「俺に勝ってみせろ、黒瀬陽翔。それができたなら——お前の言葉を聞く」
黒瀬はザイロスを見た。
その目に、敵意はなかった。しかし——試されていた。言葉だけでは届かない。力で、その本気を示せということだ。
黒瀬はマグナムを再び構えた。
「分かった」
ザイロスが動いた。
「ここでは——狭い」
ザイロスは片手を上げた。空間に亀裂が入り、裂け目が広がる。その奥には、広大な荒野が見えた。
「来い」
ザイロスは裂け目に入った。
黒瀬は日野原の果実を一度だけ見た。
(待っていてくれ)
そして裂け目に踏み込んだ。
荒野に出た。
地平線まで続く、赤茶けた大地。空には2つの月が浮かび、風が低く唸っている。遮るものは何もない。
ザイロスが数十メートル先に立っていた。
「来い」
黒瀬は地を蹴った。
炎を全身に纏い、マグナムを構える。引き金を引いた。炎の弾丸が一直線に飛ぶ。
ザイロスは片手でそれを弾いた。
「それだけか」
黒瀬は答えなかった。
連射した。7発、8発、9発——全てザイロスに弾かれる。しかし黒瀬は止まらなかった。走りながら撃ち続け、ザイロスとの距離を詰めていく。
ザイロスが初めて動いた。
黒い魔力が右腕に集中し、黒瀬に向かって放たれた。
黒瀬はかわしきれず、腕で受けた。衝撃が走り、後方に吹き飛ぶ。
しかし空中で体勢を整え、着地した。
「……速くなったな」
ザイロスが言った。
「お前が街を燃やした日とは——別人のようだ」
「まだ終わってない」
黒瀬は炎を右手に集中させた。
あの日、グラウンドで生まれた炎を呼び起こす。乱れない。揺れない。日野原への約束を、ザイロスへの理解を——全て込めて。
「神城さんに教わった」
黒瀬は走り出した。
「感情を力に変える方法を」
ザイロスは黒い魔力を展開した。広範囲に広がる漆黒の波動が、黒瀬を飲み込もうとする。
黒瀬は炎を爆発させた。
漆黒の波動と蒼い炎が、荒野の中心でぶつかり合った。
衝撃波が広がり、大地が揺れる。赤茶けた土が舞い上がり、2つの月が一瞬かき消される。
煙が晴れた。
2人は向き合って立っていた。
黒瀬の腕から血が滲んでいた。ザイロスの肩に、小さな焦げ跡があった。
ザイロスは黒瀬を見た。
「お前の炎は——変わっている」
「どう変わっている」
「怒りではない。しかし——冷たくもない」
ザイロスは黒瀬の炎を見つめた。
「何を込めている」
黒瀬は答えた。
「理解しようとする気持ちだ。お前のことも——この世界のことも」
ザイロスはしばらく黒瀬を見ていた。
その目の奥で、何かが揺れた。
やがてザイロスは再び構えた。
「まだ終わらないぞ」
「知ってる」
黒瀬はマグナムを構えた。
荒野に、2人の魔力が再び高まり始めた。




