十六年間の想い
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長い家路をようやく帰り着き、自室のベッドに、制服のまま身を投げ出す。カッターシャツやスカートが皺になるのも全く気にならない。不良男たちに掴まれた腕や、突き飛ばされた時にぶつけたお尻の付近がまだ鈍く痛む。そのあたりを軽く擦るようにしながら、時計の音だけが聞こえる空間で、しばらく時の流れに身を委ねていた。
「…………」
目を瞑って一層自由になる。心の底を無常の世界に放り出してしまったような感覚に襲われる。そうして自由になった精神に響くのは、先ほどの友哉の姿と声。友哉もまた、私と変わらないほどに華奢な体躯をしている。言われないと、野球部のエース格の投手などとは思われない外見だ。そんな姿に成長したせいか、昔から喧嘩などのもめ事は、見るのも嫌だという温厚な性格であり続けた。私は何か挑発を受けるとすぐに頭に血が上り、考えるより先に手足が出るタイプの人間だ。合宿前に支倉君たちと喧嘩したことは、その良い例だ。
人間は、自分にないものを他人に求めたがる。ルックスに自信がなければ、容姿端麗な人に対して憧れや羨望の対象にし、時には妬みもする。それと同様に、私は友哉の落ち着いた性格に恋をした。もちろん、昔からずっと一緒にいて、気兼ねなく接することができるから、という理由も大きい。容姿だって、周囲の一般男子と比べれば、整っていると思う。年を経て、心も体も成長していく内に、その想いは膨らんでいった。「like」から始まった異性に対する感情がその最上級に変化するまで、長い時間を必要としたが、一切色あせることなく今まで持ち続けている。
「……今日の友哉は、いつもとはちょっと違ったな」
ヒロインがピンチに陥っているときに、一発拳を入れて相手を黙らせるようなことはしなかった。私個人の勝手な希望としては、そういうのも良いのだが、立場上、それは無理だったのだろう。野球部員が問題を起こしたとなれば、部全体にその汚名は付きまとう。大会の棄権はもちろん、今後の野球生活にも支障を来すことは間違いない。その冷静な判断には素直に感謝する。
だが、どうしても思い出すのは、私の事を彼らに告げようとした時のこと。私にとって友哉は大切な仲間であるが、それ以上の感情を抱いてしまっている。対して、友哉は、私の事をきっと友達としか思っていない。今までの言動がそれを如実に物語っていた。
「本当に、アイツは鈍感なんやから……」
今まで一度も、私のアプローチに気づくことはなかったのだろうか。中学校の時から、さりげなく女を意識させるような行動を勇気を出してしてきたというのに。
「……でも、今日の反応……」
彼にとっての私の存在意義は、もしかしたら簡単に言葉で表せるものではないのかもしれない。今日の友哉の様子からは、迷いの色が見て取れた。自分にとっての真実は喉の下のあたりまで出かかっているのに、それを現実の言葉として表に出すのは、心の底にいる自分が許さないというような。私は友哉ではないので正確なことまではわからないが、私の女の勘が働いていれば、結論はこういうことになる。
「だとしたら、本当に何なんだろう……?」
その変化が恋の方向に動いているのだとしたら、私にとって嬉しいことこの上ない。しかし、可能ならば、あの言葉の続きを自分の耳で確認したい。友哉はきっと恥ずかしがってすぐには答えてくれないだろうが、時が経っても良い。どのような結末であろうが、私たちの青春がハッピーエンドで幕を閉じられるのならば、何年、何十年先でも構わない。いつでもいいから、十六年間の想いを聞きたい。
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翌日、いつものように集合場所に向かうと、今日は珍しく葵が先に待っていた。僕の姿を確認すると、「おはよう」と笑顔を浮かべて手を振ってくれるが、今日はその姿に覇気がない。目の下には隈ができているし、笑顔も張り付けたような、不自然なものだった。
「おはよう、葵。どしたん、その顔?」
僕が訊ねると、葵は眠たそうに目を擦りながら答える。
「うん……全然眠れんくて……。ちょっといろいろあってな……」
「もしかして、昨日の影響とか……あったりする?」
「いや、それは大丈夫。消毒して絆創膏貼ったらすぐに楽になったから」
確かに、カバンを持つ腕も、歩く両足も変わらず健康そうだ。その部分には安心した。
「……昨日はホンマゴメンな」
唐突に謝った僕に、葵がたまげた、といった表情を浮かべる。
「え? 何で謝るん?」
「いや、昨日、葵があいつらに捕まって助けを求めとんのに、僕は何もできんくて……。結果的に大人の力もあって助けることはできたけど、僕は何の力にもなれてへん。葵がずっと怖い思いしてたっつーのに、男の僕が怖気づいとったから……。男らしいこと何もできんくて、ごめん」
苦しさと悔しさを混ぜ合わせたような不愉快な気分を、体中で感じながら吐露する。葵はしばらく固まっていたが、やがて口をきっと結び、僕と同じ速さで歩き始めた。それはあまりにもいつも通りすぎて、僕の方が躊躇うほどだった。
「じゃあ、さ……」
そんな葵が口を開いたのは、十分ほど歩き、駅の姿が見え始めた時だった。
「もしホンマに責任を感じとるんやったら、昨日の言葉の続き、教えて」
「昨日の、言葉?」
問い返したが、すぐに葵の言わんとしていることはわかった。しかし、今は言える状態ではない。
「僕が言おうとした、『葵の事』、やんな。……ごめん、悪いけど、それも今は無理」
実は昨日、家に帰ってからずっとそのことを考えていたのだが、答えらしい答えはまだ見つかっていない。考えが堂々巡りしてしまい、結論が生まれることはなかった。
「やっぱり」
葵が落胆したような声を上げる。
「でも……でも、約束する。言えるときが来たら、絶対に葵には言う。今は僕もまだ考え中で、答えとか出せへんけど、近いうちにわかると思う。そしたら、すぐに葵に言うから」
僕の言葉に、葵は少し思案する表情を浮かべた。だが、それはすぐに柔和な笑みへと変化し、僕に一言だけ返した。
「うん、待っとる」
その日、僕と葵は会話を交わすことがなかった。これまでは、昼休みにはもちろん、授業の合間の休み時間でも一言二言ぐらいは会話をしていた。だが、今日はなんとなくお互い気まずかったからだろうか、どちらからともなく距離を作ってしまっているようで、少しもどかしさを感じた。良太たち男子メンバーとは相変わらずくだらないことで盛り上がることができるのだが、葵はその渦中には入ってこず、瑠璃やその他の仲の良い同姓のメンバーと話に花を咲かせていた。
俊介や亮輔は僕らの作り出している違和感に気づいている感じはなかったが、それにいち早く気付いたのは瑠璃だった。残すところ、授業も一時間、という休み時間に、遠慮がちに僕の席にやってきて話しかけてきた。
「友哉くん、その……。葵ちゃんと何かあったの?」
葵の方をちらちら窺いながら、小声で訊ねてくる。
「今日の葵ちゃん……というか、二人がいつもとちょっと違うような気がして……。あたしの思い過ごしならいいんだけど……。もしかして、喧嘩とかした?」
素直な瞳を向けられる。常に輝いているようなそれに、僅かばかりの影が差しこんでいるような気がした。
「いや、そんなことはないよ。ちょっと事情があってね。でも、別に喧嘩とかはしてへんから」
「ほんとに? じゃあいいけど……。何か悩みとかあるんなら、いつでも相談してね。二人が気まずいと、その……こっちも調子狂っちゃうから」
最後には笑顔も浮かべ、僕の席を離れる。
今、僕は確かに悩んでいる。家族同然に過ごしてきた一人の少女の存在が、僕の心の中で少しずつ変わりつつあるかもしれない、というこの現実に対して。それを認めたくない気持ちや、関係が変わってしまうことへの恐怖心が、僕の思考を滞らせている。いっそ、女子の意見も聞いてみようかと思ったが、変に勘ぐられるのも厄介だ。瑠璃ならそんなことはしないだろうが、万が一のことを考えると、実行に移すのは、少々憚られた。それに、これは自分の問題だ。自分の気持ちの問題なので、誰かの力を借りて出した答えなど、純粋な答えであるはずがない。
「葵、か……」
誰にも聞かれぬよう、心の中でそう呼んでみる。特に変化があるようには思えない。
「……やっぱり、何も変わってへんのかな」
喧騒の中で僕の心は、異様なほどに静かだった。
そのまま放課後を迎え、明日の試合に備えた練習をするために、グラウンドへ向かう。その途中で、何やら、騒いでいる女子たちがいた。
遠くにいても充分聞こえるほどの声量だったので、話題が何なのかはすぐに分かった。どうやら、一人の女子が、好きな男子のことについて話しているらしい。クラスの女子だったが、あまり話したことのない子だったし、その子が好きな人もまた、僕と面識がない先輩らしい。特に興味を持つこともなく通り過ぎた。
しかし、その声が聞こえなくなって、ふと脳内に蘇るものがあった。それはまだ中学生の時、後輩に指摘されたあの言葉。
僕がまだ、答えを出せずにいる問い。
『先輩、顔赤くしてどうしたんですか?』




