変わる心
「……というわけで、次の試合は明後日の西行高校戦だ。西行高校もまた、これまでに甲子園に行ったことがあるだとか、府大会の決勝まで進んだ、とかそんなことはない。ただ、投打のバランスは取れている。出塁すれば手堅く送ってきたり、足を絡めての攻撃を繰り出したりもしてくる。初戦は相手校の乱調もあったが、コールドゲームで突破している高校だ」
その日の放課後、次なる試合に向けての相手高校の話を監督から聞いていた。強さの度合いとしては、前の開門高校とそう大差はないと言えよう。だが、初戦で勢いづいているのは事実だ。僕たちが試合を行った同じ日に西行高校の試合も行われたのだが、表攻撃だった西行高校は十六点差をつけて圧勝していた。正直、これまでの大会では存在感を見せることはほとんどなかったので、驚きを隠せなかった。
「相手のピッチャーだが、速球が持ち味の選手が先発することが予想される。一回戦で先発した投手は変化球を多く使う軟投派の選手だったが……。去年のデータを見る限りでは、あのような大きな変化球は使ってこないと思われる。速球に慣れておくことを重要視してくれ」
西行高校の一回戦のVTRは試合後に見た。背番号一番のエースが先発していたのだが、大きなスローカーブやフォークで打者を惑わすかなり面倒なタイプの投手だった。相手打線も、それに嘲笑われるように凡打の山を築いていた。
「相手校の情報はこれぐらいだ。何か質問はあるか?」
ぐるりと監督が全員を見回す。
「あの、監督。一つ、いいですか?」
谷村先輩が手を挙げる。やや緊張が混じった顔つきだった。
「西行高校戦での俺たちの先発は、野村先輩ですよね?」
監督の脇に立っている野村先輩の表情が僅かに揺れる。
「あぁ、そうだ」
監督は即答した。まるで、それ以外の選択肢など無いとでも言うかのように。
「それが、どうしたんだ?」
「いえ、確認しておきたかっただけです。ありがとうございました」
谷村先輩はそう言って姿勢を戻した。
野村先輩は、きっと俺のことなど今は皆忘れている、と口にしていたが、「みんな」ではないと思う。谷村先輩がいまの質問で何を言いたかったか、少なくとも僕は汲みとることができる。みんなの表情に大きな変化は見られない。誰かが声を出すこともない。ただ、室内に流れる異様に重々しい空気だけが、その現実を物語っているようだった。
「……もうお前らもわかっとると思うけどな」
監督が幾らかさびしそうな声色で続ける。
「野村は三年生やから、この大会が終わったら引退や。最後のお土産に、とかいうわけやないけど、ええ試合、させてやれや」
質の違う沈黙が部室を支配する。肌に直接まとわりつくような、湿気を孕んだ不快感を沸き立たせるような沈黙だ。
「…………」
誰かが何かを言いたげにうずうずしている。僕には見えないのだけれど。
「……よっしっ! こんな辛気臭くなっとってもしゃーないしな! 今日も練習するぞ!!」
第一に大きな声を発したのは野村先輩だった。少し苦しく、哀しく思うような、そんな叫び声だった。
「今日はちょっとハードな練習やったねー」
陽も落ち、少し涼しくなった下校道を歩く。今日は電車で帰るメンバーは、全員固まって駅へと向かっている。
今日の練習は、宣言通り、速球に慣れることを重点的に行う練習だった。ただひたすら速球を打ち返した僕らの腕は、少しばかり痛みを訴えていた。
「にしても、斜陽もお疲れさんやなー。毎回毎回こっちに来てもらって」
「たまには僕らもあっちに行かんとね」
手をぷらぷら揺らしながら、貴浩のぼやきに苦笑いで返す。大通りにはいつものようにたくさんの車が行き交っている。流れるヘッドライトが眩しい。スピーディーに踊るヘッドライトの光をぼやっと眺めていると、やがてそれらに靄がかかったように滲んでくる。目が疲れてきたのだろうか、ごしごしと擦り、再び前を向く。
「斜陽と言えばさ」
俊介がふと思い出したように口を開く。
「野村先輩、この大会が最後なんやんな。今日監督から知らされるまで忘れとった」
今日の練習は、やや重いムードの中で行うことになってしまった。監督も、わたくしの失敗だ、と悔やんでいる様子だった。しかし、決してそれ自体は間違っていることではないと僕は思う。野村先輩に、少しでも長く高校野球を、グラウンドの空気を触れてもらいたいと考える気持ちを一致させるためには必要なことではないだろうか、と僕は考えている。それに、敗戦後にそれを報告されて、悔やむよりは、先輩の為、と思って全力で戦う方が後味が良いに決まっている。そのようなことを全て含めて、監督の発言は悔やむようなことではないような気がする。
「お前も薄情な奴やな」
貴浩が茶々を入れる。すみません、と俊介が萎れる。
「いや、正直言って、俺も忘れとった。……それぐらいに、あの人は最上級生や、ということを忘れさせてくれてたんや。もちろん良い意味でな。まだまだ一緒に野球やって、マウンドに立ち続けてくれるもんやと、俺らーに勘違いさせてくれとったんや。ホンマ……罪な先輩やな」
苦笑しながら言っているが、哀しそうな色が至る所に見えている。たった数か月とはいえ、共に野球をした仲間だ。必ず来ることとはいえ、辛いことに変わりはないだろう。
「ま、少しでも先輩には長いことマウンドに立ってもらわんとな。そのためには、俺たち打線が、よーけ点取ったらな!」
駅が近づいてきた。
自身に喝を入れるように、貴浩が叫ぶ。それにみんな同調して、それぞれの路線へと散ってゆく。
「……じゃ、行こか」
僕たちを促して、誰もいなくなったコンコースを歩く。僕らの乗る電車はあと十分くらいで発車する。先を歩く貴浩の足取りは、いつもよりもゆっくりに感じられた。
石生駅でいつものように別れ、僕は葵と並んで家路をたどる。周囲は既に藍色の闇が支配し、街灯がないところでは、足元が心許なく感じるほどだ。田舎なんだなぁ、としみじみと思う。今にも消えてしまいそうな蛍光灯の並ぶ下を歩き、改札を抜ける。二人とも、練習の疲れからか、注意力が散漫になっていた。だから、葵が何かにぶつかった時、僕はやや気づくのが遅れた。
「おい、何ぶつかってくれてんねん!?」
間を置くことなく、ドスの効いた声が周囲に響く。
「……あ、すみません……」
驚いた葵がすぐに謝る。だが、相手は運の悪いことに、たまにこのあたりに屯している地元の不良学生だった。いつもは陽が暮れると駅付近には出没しないのに、今日に限ってここで何かをしていたらしい。
暗がりでよく見えないが、二人組のようだ。
「おい、お前らは……常楽のモンか。何でぶつかったんや」
初めに怒鳴った方とは違う男が、不自然に落ち着いた声で問うてくる。しかし、弱者をいびるような獣の目をしていた。
「な、なぜって……。私が周りをあまり見てなくて……」
葵は白い光に照らされているだけとは思えぬほど顔面を蒼白にさせ、たじたじと答えている。そんな葵の様子を見て、不良どもの態度は大きくなる。
「お前が何で疲れとったかなんて知らんけど、人にぶつかるんはええことやないやんなー? ……ただの『ごめんなさい』だけで帰れると思うなよ?」
「――いやぁっ」
腕をつかみ、まるで今からどこかに連れて行こうとするように、不良たちは葵を見下している。葵の助けを求める視線が、僕に突き刺さる。
「……ちょっ――」
僕も怖い。昔から穏便に物事を終わらせようとする性格だったので、誰かを守るための力など持ち合わせていない。必要な時には、貴浩が守ってくれた。しかし、その貴浩は、今は己の家へと向かってこの場所からどんどん遠ざかっていることだろう。
意を決して、一歩前へと出る。
「あん? 何や、お前」
二人のうち、初めに怒鳴った方が俺を見る。狼に睨まれる兎の気分だ。感じたことはないが、弱肉強食の世界では、動物はこんな思いを頻繁にしているのだろうか。
「お前、こいつの彼氏か?」
親指で葵をぞんざいに扱うように差しながら、挑発を止めない口調で僕を追い詰めようとしている。しかし、なぜか今、僕の恐怖心は少し薄れた。
「……いや、その子は僕の彼女とかじゃない」
ほぅ? と見下す男。細い一本道を抜けた先にある道を走る車の音が、BGMとなって僕を覆う。
「と、友哉……」
暴れることもできない葵が、涙目で僕を見る。荒事にはしたくないが、今は後のことを考えている暇はない。
「その子は……」
大切な友達だ、と宣言すればいい。それだけで不良たちが葵を開放するとは思えないが、嘲笑を浮かべている間に何か一撃を加えることができれば、きっと葵を救うことができる。だが、その言葉が僕の口からは、簡単に漏れることはなかった。葵が大切な存在でないはずがない。昔から苦楽を共有し、仲間と一緒につるんできた。僕たちの中では紅一点の存在だが、それを気にせぬフランクな、そしてボーイッシュな性格で僕らの中に馴染んできた。
何を思い返しても、葵は常に僕の心の中心人物であった。だから、大切なはずなのだが……。
「おい、どないしたんや。この子は……何やねん」
視線を落とす。男と、葵が視界から消えた。明りの少ないコンクリートに、ほの白い月明かりだけが儚く落ち続けている。
そして、答えがわからない自分に対する怒りのような感情が湧き上がってきた。理不尽なものだ。自分の都合で相手を殴るのだから。一歩、また一歩と男に近づく。そのたびに粘度を上げる怒りだけに身を任せ、奴らを殴ろうとした。
「おい! 何をしてるんだ、君たち!」
不意に、誰かの怒鳴り声が聞こえた。巡回していた警察の人だろうか。やべっ、と葵を離して逃げていく不良たち。思い切りしりもちをついた葵は、痛そうにその場に蹲っている。
「お、おい。大丈夫か、君たち」
普通の服を着ているので、警官ではないだろう。その男性は僕たちを心の底から心配に思う気持ちを携えて、見つめてくれる。だが、今の僕にそんな感情など不必要だった。
「はい。大丈夫です」
無感情のままに答え、男性を帰らせる。まだ地面に座ったままの葵に手を差し出す。
「ほら、立てるか?」
葵は無言でその手を握り、立ち上がる。
「……帰ろうか」
いつもと同じ景色の中を、歩き出す。
「ねぇ、友哉。さっきの続き……何で言わへんかったん?」
大体予想はついたんやけど、と葵は訝しんだ表情で訊ねてくる。
「うん……。きっと葵が考えていることを、僕も言おうとしとったんや。でも……なんていうんかな、言う寸前に、違和感を覚えたんだよ。何か違うな、って」
「それって……」
不安そうに僕を見上げる葵。僕は慌てて釈明する。
「いや、葵を大事に思ってない、とかそんなことはないよ。そういう方向やなくてね……。もっと違う意味で、葵はそんなんじゃないって思ったんよ」
僕が言っていることは、果たして葵に通じているのだろうか。通じていても通じていなくてもいい。ただ、これが僕の本音なのだと気付いてほしかった。僕自身もこの違和感が何なのかわかっていないが、きっと葵にとってとても重要なことになり得るはずだから。
「……そっか」
葵はまた顔を下げて歩く。
不意に、きゅっと僕の制服の裾が掴まれた。
「葵……?」
「うん、ごめん。まだちゃんと歩けへんの。しばらくこうさせて」
僕はうなずき、ゆっくりと歩く。
時々吹く風に、田んぼの稲が揺れる音が聞こえる。中途半端な、生暖かい風だった。




