光
10
翌日の西行高校戦までの一夜は、異様なほどに早く感じられた。心に抱えている悩みはあるはずなのに、気分は意外と良く、朝の陽ざしを気持ちよく浴びることができた。
集合時間が早いため、いつもよりも早い時間に葵と合流し、駅で良太や貴浩、今日は瑠璃とも合流。四人で今日の試合に不安や期待を感じながら、電車に揺られる。特に今日は、野村先輩が先発だ。少しでも長くマウンドに立ってもらえるよう、そして今後もまだまだ現役で投げてもらえるように、僕たち野手陣が気を張っていかなければならない。それはわかっているはずなのだが……。
福知山駅に到着し、学校へもすぐに辿り着く。まだ先生すらも来ていない校内は、燦々と照りつける日光だけが主張をしており、それ以外には何も無いように感じられた。
「……まだ誰も来てへんのやな」
葵がぽつりと呟く。何気なく発せられたことなのだろうが、それだけで僕の意識は去年のあの日へと吸い寄せられる。後輩に訊ねられた時も、僕がそう思っていた時だったのだ。誰もいないからか、気を緩めていた僕に声がかけられたのだった。
「ん? 友哉、どうしたん? 神妙な顔つきして」
大きな瞳を瞬かせ、僕の顔を覗き込む。唐突なことに驚いた僕は、思わず視線を逸らす。
「い、いや、なんでもないよ。ちょっと考え事しとっただけ」
そう答えると、葵は何となく察したのか、無言で退いてくれる。集中しなければならないと頭では分かっているのだが、体が、そして何よりも心がついてこないのだ。こんな状態では今日の試合に影響を及ぼしかねない。
「なに、友哉悩んどるんか。何やったら俺が相談に――」
「あ、わしも――」
そう手を挙げて近づいてくる二人を葵が適当なことを言ってごまかしてくれる。僕は三人に苦笑いだけを浮かべて近くのベンチに座った。監督たちがやってくるまでは時間があるはずだ。僕の心を蝕むような強い光を浴びせ続ける太陽を視界から追いやり、青い空だけを眺めて僕は思考を巡らせる。
だが、気づけば球場へと向かうバスの中にいた。一時間弱ほどの記憶がない。バスの揺れを感じた時に隣にいた良太に説明を求めたのだが、全て葵がやってくれたと言う。だから、葵に訊いた方が早いと。
葵は僕たちが座っている場所の二列前に瑠璃と共に座っていた。通路を挟んだ隣の席には、斜陽の桧山と西野という組み合わせが座っているが、葵の後ろは空席だった。僕は監督に見つからないよう密かに前列へと移動し、シートとシートの隙間から手を出す。
「うわっ! 誰やと思たわ……」
突如として伸びてきた指にさすがに驚いたか、葵が少し大きな声を上げる。バスの中では眠っていることが多い瑠璃も今日は起きていて、僕の姿に驚いていた。
「ど、どうしたの、友哉くん……? 葵ちゃんに用事?」
隙間から目だけをのぞかせ、そのまま頷く。瑠璃がそのことを伝えてくれたのか、次は葵が僕の前に現れる。
「僕、学校で一人になってからの記憶がないんやけど、葵が助けてくれたん?」
僕が訊ねると、葵は一瞬何のことかわからない、と言いたげに瞬きを繰り返していたが、やがて真顔に戻る。
「助けた、っちゅーほどのことではないけど……。友哉を一人にした後、私らーは準備とかしたりしながら適当に過ごしとったんやけどな。ほかの路線のメンバーとか、斜陽の人らーが来ても全然姿をみせんから戻ってみたら、あっついところでぼけーっとしとる友哉がおったんや」
そうだったのか。日陰の場所を選んで考えていたはずなのだが、暑さに体が負けていたのかもしれない。
「慌てて駆け寄って対処したんやで。熱中症とかにはなってへんかったけど、だいぶ疲れてそうやったからアクエリ渡したら、ゆっくり飲んどったわ。……もしかして、それも覚えてへんの?」
やや不気味なものを見るような目で問われるが、僕にその記憶はない。まるでマンガやアニメにあるような、変な実験の実験台になった後の主人公のように、一部の記憶だけが綺麗に抜けている。それほどまでに深く考えていたのだろうか。
「それでもまだ足取りとか覚束なかったからさ……。私が肩貸して歩かせたの。全く、世話が焼けるんやから……」
声では呆れたようなことを言っているが、その顔は満更でもないようなものだった。はは、と苦笑いを浮かべ、横目で窓の外を見つめている。
「そっか……。まぁ何にせよ、ありがとう、葵」
「瑠璃ちゃんも手伝ってくれたんやで」
ずっと聞くまいと、イヤホンを差し込んでいた瑠璃を指し、笑顔で言う。急に自分の話になった瑠璃はビクリと跳ね、おろおろした瞳をこちらに向けた。
「い、いや、手伝った、っていうほどでもないよ。さっき葵ちゃんが言ってたアクエリを持ってきたぐらい、だよ……?」
片手でイヤホンをポケットにねじ込ませながら、困ったような声音で僕と向き合う。
「いや、それでも。ありがとうね、葵、瑠璃」
僕は精一杯の感謝を込めて笑顔でお礼を言う。葵は「気にすんな」と体現しているような笑顔で、瑠璃は戸惑いながらもはにかむような笑顔を見せてくれた。そんな笑顔が見れただけでも、僕の心はすっと軽くなり、同時に微かな熱さも感じる。
「友哉、友哉」
意識を元に戻すと、葵が僕の名を呼んでいた。再び音楽を聞き始めた瑠璃には気づかれないようにか、さっきよりも小声になっている。
「学校で何か考えとったのんって、やっぱりあの事についてなんやろ? 私は、その……早い回答を待っとるわけやないから。焦らんといてな。変に焦らせて友哉自身の事を崩していってる、って思ってしまったら、私が辛くなるから……。だから、落ち着いて。ね? 今は、これからの試合の事だけを友哉は考えとってな」
軽いウインクを残して葵は姿を消した。時折僕を襲う振動が、僕の内面の揺れを増強させるかのように重く響く。
葵はこう言ってくれたが、やはりそれは難しい。早く結論を出してしまいたいという一人の僕と、ゆっくり考えるべきだというもう一人の僕が、拮抗している。
それから僕は元の席へと戻った。良太が僕を見て何か言いたそうにしていたが、結局たわいのない会話だけに終わった。バスは照りつける太陽の如く輝く球場へ向けて、その足を着実に前へと進ませていた。




