第三十三話「セルドの農地を、歩いた」
三十三話目です。
セルドに残った一か月の話です。川が戻り始めてから、凪は農地を歩き始めました。竜の問題が解決したら終わり、ではなかった。川が戻っても、土は五年分の傷を受けていた。
カナが来ます。ミアと一緒に動く二人の記録係が、この話で大事な役割を持ちます。
では、どうぞ。
川が増え始めてから、一週間が経った。
水位は、まだ完全には戻っていなかった。
でも、毎日少しずつ増えていた。
川沿いに住む人たちが、岸に来て、水を見ていた。
朝、川を見に行くと、必ず誰かがいた。
「見に来るんですね、みんな」とミアが言った。
「五年間、減っていくのを見ていたから」
「増えていくのを見たくて、来ている」
「そうだと思います」
川の音が、大きくなっていた。
最初に来た日より、ずっと大きかった。
◇
カナが来たのは、川が増え始めてから八日目だった。
オルトが使いを出してから、思ったより早かった。
「すぐ来ました」とミアが言った。
「急いでくれたんですね」
カナが、都の入口で私を見て、少し手を上げた。
「久しぶりです、凪さん」
「久しぶりです。早かったですね」
「竜の話を聞いたら、来ないわけにいかなかった」
「竜が目当てですか」
「記録係として、この話は現地で見ないと、嘘になります」とカナは言った。きっぱりと言った。
ミアが、カナを見て、少し目を輝かせた。
「先輩」
「ミア、ちゃんとやってたか」
「やっていました。記録、見てください」
カナが、ミアの記録帳を受け取った。
少し読んだ。
「よく書けている」
「ありがとうございます」
「竜との会話の部分、特に良い。言葉ではない会話を、こう書いたか」
「不完全かもしれないですが」
「不完全でいい。完全に書こうとすると、嘘になることがある」
カナが記録帳を返した。
ミアが、大事そうに受け取った。
◇
翌日から、カナとミアと一緒に、川沿いの農地を歩いた。
オルトが案内してくれた。
最初の農地は、川から一番近い場所にあった。
土を触った。
固かった。
水が減っていた五年間で、土が乾燥して固まっていた。
「どうですか」とカナが聞いた。
「固いです。水が届いていなかったから、土の中の生き物が減っています」
「生き物が減ると、どうなりますか」
「土が固くなります。固くなると、また水が染み込みにくくなる。悪循環が起きています」
「川が戻っても、土はすぐには戻らない」
「そうです。水が来ても、固い土には染み込めない。まず、土を柔らかくする必要があります」
カナが、土に手を当てた。
自分でも確認していた。
「乾き方が、通常の乾燥とは違いますね」
「そうです。急に乾いた土と、長期間乾き続けた土では、固まり方が違います。ここは、五年間かけて固まっています」
「どうすれば、戻りますか」
「いくつかの方法があります。落ち葉や草を積んで、土の表面を覆う。植物の根が入ることで、少しずつほぐれる。時間をかければ、戻ります」
カナが、記録帳に書いた。
「どのくらい時間がかかりますか」
「早くて一年。しっかり戻るには、三年から五年かもしれないです」
「川が戻っても、農地が戻るのはもっと先、ということですね」
「そうです」
カナが、農地の向こうを見た。
「農民の人たちに、説明しますか」
「説明した方がいいと思います。川が戻ったのに、作物がすぐに戻らなかったとき、理由が分からないと、また別の問題が起きます」
「説明が必要」
「そうです」
◇
農地を歩きながら、農民の人たちと話した。
話しかけてきたのは、五十代くらいの男性だった。
顔が、乾燥した土のように固かった。
五年間、心配し続けてきた顔だった。
「川が戻ってきた。これで、来年は元に戻るか」と聞かれた。
「来年は、まだ難しいかもしれません」と私は答えた。
男性が、顔をしかめた。
「なぜだ。川が戻れば、水が来る。水が来れば、作物が育つんじゃないのか」
「川の水が来ても、土がまだ固いままです。固い土には、水が染み込めない。土が柔らかくなるまで、もう少し時間がかかります」
「どのくらいかかる」
「土の状態によりますが、一年から三年かもしれないです」
男性が、黙った。
「そんなに待てない」とつぶやいた。
「全部の農地が、同時に戻るわけではないです。川に近い場所から、順番に戻ってきます。川から近い農地は、早く戻る可能性があります」
「ここは、川から近い」
「そうです。ここは、比較的早い方だと思います」
「一年は待てるか」
「待てると思います。ただ、待っている間にも、やれることがあります」
「やれること」
「土の表面に、落ち葉を積む。草を生やす。土が直接乾かないようにする。それだけで、回復が早くなります」
男性が、土を見た。
「落ち葉を積むだけでいいのか」
「それだけじゃないですが、まず始めやすいことから」
男性が、少し考えた。
「分かった。やってみる」
「カナさんが、もっと詳しく教えてくれます」と私はカナを示した。
カナが頷いた。
「一緒に考えましょう」とカナは言った。
男性が、カナを見た。
カナが、記録帳を持って立っていた。
専門家の雰囲気があった。
「頼む」と男性は言った。
◇
その日の夕方、川のほとりに座って話した。
カナとミアと私の三人だった。
「農民の人たちが、苦しそうでした」とミアが言った。
「五年間、苦しかったと思います」と私は言った。
「川が戻っても、すぐには楽にならない」
「そうです。戻るまでに、また時間がかかる」
「それを聞いて、どう思いましたか。男性が、そんなに待てない、と言ったとき」
「辛い、と思いました」
「凪さんも、辛いと思うんですね」
「思います。気にならない、ということはないです」
ミアが、少し驚いた顔をした。
「気にならないと思っていました」
「なぜですか」
「いつも、淡々としているので」
「淡々としているのは、焦っても変わらないからです。気にならないわけじゃないです」
カナが、川を見ながら言った。
「それが、続けられる理由かもしれないですね」
「どういう意味ですか」
「気になるが、焦らない。感情はあるが、流されない。その両方があるから、続けられる」
「そうかもしれないです」
カナが、川の流れを見た。
「凪さん、一つ聞いていいですか」
「なんですか」
「森の集落に帰るとき、どんな気持ちになると思いますか」
「帰りたい、と思います」
「帰りたい」
「ルナとガルさんが、待っています。クロとキョロも。北の池の精霊も」
「会いたい、ということですか」
「会いたいです」
カナが少し微笑んだ。
「帰る場所があるということは、強みですね」
「そうですね」
「私には、帰りたい場所があるかどうか、分からなかったです。ずっと、記録することだけを考えていた」
「今は、分かりますか」
カナが少し考えた。
「ミアのところかもしれない」とカナは言った。「弟子が、ここにいます」
ミアが、カナを見た。
何も言わなかったが、少し耳が赤かった。
「良いですね」と私は言った。
「凪さんみたいには言えないですが」
「人それぞれでいいと思います」
川が、流れていた。
昨日より、また少し増えていた。
毎日、少しずつ増えていた。
劇的な変化ではなかったが、確かに変わっていた。
◇
三週間が経った。
カナとミアは、農地を回り続けた。
農民の人たちと話して、土の回復方法を教えた。
私は、時々山に行った。
東側の小道から、台のある場所まで。
竜は、いつもそこにいた。
卵の近くにいた。
言葉は通じなかったが、近くにいた。
ある日、竜が私を見て、低い音を出した。
「元気だ、と言っています」
シロが、尻尾を振った。
竜がシロを見て、また音を出した。
「お前も元気だ、と言っています」
シロが、胸を張った。
竜が、小さく笑うような音を出した。
竜が笑うというのが、正確かどうか分からなかった。
でも、そういう音だった。
◇
四週間が経ったころ、ガレス王に呼ばれた。
「山の保護区の指定が、正式に決まった」とガレスは言った。
「ありがとうございます」
「竜がいる山を、国として守る。記録にも残す。百年後の人間が読んでも、理解できるように書く」
「ミアさんが書いてくれます」
「カナという女性も、手伝ってくれている。良い記録ができそうだ」
「そうですね」
ガレスが、少し間を置いた。
「凪、もう少し、セルドにいてもらえるか」
「難しいです」と私は言った。
「理由は」
「森の集落に帰る約束があります。ルナという子に、帰ると言いました」
ガレスが、少し驚いた顔をした。
「王に頼まれても、子どもとの約束の方が大事なのか」
「約束は、約束です」
ガレスが、また少し驚いた顔をした。
それから、笑った。
「そうか。では、仕方ない」
「カナさんとミアさんが、残ってくれます。農地の回復は、二人に任せてください」
「分かった」
「それと、山に時々行ってほしいです。竜が、孤独にならないように」
「竜のところに、人が行くということか」
「嵐は、もう来ないと思います。東側の小道から、台のある場所まで。そこまでなら、行けます」
「誰が行く」
「ミアさんが、行ってくれると思います。竜とのことを、記録し続けたいと言っていたので」
「そうか。頼んでみよう」
◇
出発の前日、デルのところに寄った。
「帰るか」とデルは言った。
「明日、帰ります」
「遠いところから来て、遠いところへ帰るんだな」
「そうです」
「竜は、どうだった。最後に会ったのは」
「一昨日です。卵の近くにいました。元気そうでした」
「そうか」とデルは言った。「あの竜、名前はあるのか」
「聞いていないです」
「竜に、名前はあるのかな」
「あるかもしれないですし、ないかもしれないです」
「聞けばよかったな」とデルは言った。
「次に来たとき、聞いてみます」
「次に来るのか」
「来られるうちは、来ます」
デルが、少し笑った。
「お前は、来る、と言うな。する、と言う。できる限りとか、かもしれない、ではなく」
「ルナに練習させてもらいました」
「また子どもの話をする」とデルは言った。
「良い師匠でした」
「そういうことにしておこう」
デルが、窓の外を見た。
山が見えた。
「あの山が、変わった気がする。気のせいかもしれないが」
「気のせいじゃないと思います。竜が、もう泣いていないと思うので」
「泣いていない竜の山は、違って見えるかもしれないな」
「そうかもしれないです」
デルが、また笑った。
「また来い」
「来ます」
◇
出発の朝、川を見た。
来たときより、ずっと増えていた。
完全には戻っていなかった。
でも、流れていた。
音がしていた。
農民の人たちが、何人か川のそばにいた。
みんな、川を見ていた。
誰も何も言っていなかった。
ただ、見ていた。
「帰ります」と、川に向かって言った。
誰にでもなく、言った。
川が、流れていた。
それが、返事だった。
シロが、前を向いた。
帰ろう、という顔だった。
歩き始めた。
セルドの都が、後ろに遠ざかった。
山が、見えていた。
ガロン山。
青い竜がいる山。
卵がある山。
いつか、子竜が生まれる山。
「また来ます」と山に向かって言った。
山は、何も言わなかった。
でも、変わらずそこにあった。
それで、十分だった。
三十三話目、書きました。
セルド編の後日談と、帰還の準備の話でした。竜の問題が解決した後に、土の問題が残っていた。大きな問題を解決しても、積み重なった傷はすぐには消えない。それをカナとミアが引き継いでいく構造が、この物語全体のテーマと重なります。一人が全部やるのではなく、次の人に渡す。
「気になるが、焦らない。感情はあるが、流されない」というカナの観察。凪が淡々としているように見えても、気になっていないわけではないことが、ここで示されました。感情を持ちながら、それに流されない。その両方があるから続けられる。
「王に頼まれても、子どもとの約束の方が大事なのか」というガレス王の驚き。凪にとって、約束は約束です。相手が誰かは関係ない。ルナとした約束は、王の要請と同じ重さを持つ。
セルド編が終わりました。次話から、森への帰還が始まります。
また明日。
原案・構想:マスター
物語構成・本文作成・文体調整:クルス(Claude)




