第三十二話「川が、戻り始めた日」
三十二話目です。
竜と一緒に水脈を押した翌朝、何かが変わっていました。大きな変化ではありませんでした。でも、確かに変わっていた。
終わりというのは、劇的なことが起きるとは限りません。静かに、何かが戻っていくことが、一番深い終わりかもしれない。
では、どうぞ。
翌朝、セルドの都の東に流れる川を見に行った。
オルトが、夜明け前から川を見ていたらしかった。
宿を出たとき、オルトが走って戻ってきた。
走るオルトを、初めて見た。
「川が、増えている」
「本当ですか」
「増えている。昨日より、明らかに水量が多い。見に来い」
◇
川の岸に立った。
昨日より、水位が上がっていた。
劇的な変化ではなかった。
でも、確かに増えていた。
川の色が、昨日より澄んでいた。
流れが、少し速くなっていた。
「戻り始めた」と私は言った。
「これで十分か」とオルトが言った。
「十分ではないです。昨日、変えられたのは、水脈の出口の向きだけです。完全に元に戻るには、もう少し時間がかかります」
「どのくらい」
「数週間から、一か月くらいかもしれない。地下の水が、新しい向きで安定するまで、時間がかかります」
「それでも、戻ってきている」
「戻ってきています」
オルトが、川を見た。
ずっと見ていた。
「五年間、この川を見てきた」とオルトは言った。「五年間、少しずつ減っていくのを見てきた。減っていく川を見ている間は、何もできないことが、辛かった」
「そうでしたね」
「今日、増えているのを見て、何か言おうと思ったが、言葉が出なかった」
「言葉が出なくていいと思います」
オルトが、私を見た。
「ありがとう」
「竜と一緒にやりました」
「それでも、ありがとうだ」
◇
ガレス王に報告しに行った。
王の間に通されたとき、ガレス王はすでに川の話を聞いていた。
「川が増えたと、報告が来た」とガレスは言った。
「昨日、水脈の向きを変えました。少し時間がかかりますが、戻ると思います」
「竜は」
「敵ではありませんでした」
「どういうことだ」
話した。
卵のこと、地震で埋まったこと、百年間一人で守っていたこと、泣いていたこと。
ガレスが、黙って聞いていた。
話し終わっても、しばらく黙っていた。
「竜が、卵を守っていた」と、やっとガレスは言った。
「そうです」
「百年間、一人で」
「そうです」
「そのために、人を入れなかった」
「卵を踏み荒らされることを、恐れていたと思います」
ガレスが、窓の外を見た。
ガロン山が、遠くに見えた。
「竜を、敵だと思っていた」とガレスは言った。
「そうですね」
「百年間、この国の人間は、竜を恐れていた。山を奪った存在だと思っていた」
「でも、竜は、山を守っていた。水源を守っていた」
「水源を守ることが、この国の川を守ることだったのに、私たちは気づかなかった」
「気づけなかったのは、近づく方法がなかったからです」
ガレスが、私を見た。
「お前が、近づいた」
「ミアさんが、話しかけてくれました。私一人では、できなかったです」
ガレスが、少し目を細めた。
「竜は、今後も山にいるのか」
「います。卵が孵るまでは、動かないと思います」
「卵が孵ったら」
「分かりません。ただ、もう嵐を起こす理由はなくなると思います。川が戻れば、水脈は安定します。卵が孵れば、守るものは外に出ます」
「外に出た子竜は、どこに行く」
「竜に聞いてみないと分かりません。でも、この山に居続けるかもしれない」
「居続ければ、山が守られる」
「そうです。竜がいることで、山の生態系が保たれる部分があると思います。百年間、人が入らなかった分、山の奥は自然のままでした」
ガレスが、また窓の外を見た。
「竜を、守る必要があるかもしれないな」
「そうですね。竜がいることで、セルドの水源が守られている」
「逆転した」とガレスは言った。「竜が敵だと思っていたが、竜こそが、この国の水を守っていた」
「そういうことです」
ガレスが、長い間、外を見ていた。
それから、私に向き直った。
「凪、もう一つ頼んでもいいか」
「なんですか」
「山を、保護区にしたい。アルドがやったように。竜がいる山を、国として守る。そのために、何が必要か、教えてくれ」
「分かりました。考えます」
◇
昼過ぎ、山に向かった。
竜に、もう一度会いに行くためだった。
東側の小道を歩いた。
台のある場所まで来た。
竜は、いた。
今日は、岩の上に座っていなかった。
地面にいた。
卵の近くにいた。
岩の隙間が、まだ開いていた。
昨日、動かした岩が、そのままになっていた。
竜が、私を見た。
金色の目だった。
「川が、増え始めました」と私は言った。
竜が、音を出した。
「知っている、と言っています」
「山を、国が守ることになりそうです。人が入らないようにする、保護区という形で」
竜が、また音を出した。
「良い、と言っています」
「卵は、いつ孵りますか」
竜が、少し間を置いてから音を出した。
「長い、と言っています。まだ時間がかかると」
「そうですか。孵るまで、ここにいますか」
竜が、当たり前だ、という音を出した。
「そうですよね」
シロが、竜を見ていた。
竜が、シロを見た。
シロが、尻尾を振った。
竜が、低く、温かい音を出した。
「お前たちに、ありがとう、と言っています」
「一緒にやりました」
竜が、また音を出した。
今度は、長い音だった。
複雑な音だった。
聞いていると、意味が少し分かってきた。
百年間、一人だった。
誰も来なかった。
嵐を起こすたびに、遠ざかっていった。
もう来ないと思っていた。
でも、来た。
「来て良かったです」と私は言った。
竜が、翼を少し広げた。
それから、また閉じた。
その動きが、どういう意味か、はっきりは分からなかった。
でも、悪い意味ではなかった。
◇
山を下りるとき、ミアが言った。
「竜と話せたこと、記録します。でも、どう書けばいいか、少し迷っています」
「どういうことですか」
「言葉ではない会話を、言葉で書くのが難しくて」
「難しいですね」
「凪さんが感じ取ったことを、私が書く。でも、凪さんが感じ取ったことと、私が書いたことの間に、少しずれが生まれるかもしれない」
「そうですね。でも、完全に一致しなくていいと思います」
「そうですか」
「言葉は、完全には伝わらない。でも、伝わらなくても、伝えようとすることに意味があります。ミアさんが書いたことが、誰かに届いたとき、その人がまた別の何かを感じるかもしれない」
「記録が、また別の何かにつながる」
「そうです」
ミアが、記録帳を見た。
「書きます。不完全でも、書きます」
「それで十分です」
「凪さんが言うと、説得力があります」
「私も、感じ取ったことを完全には言葉にできないので」
「一緒ですね」とミアは言った。
「一緒です」
◇
夕方、デルのところに寄った。
川が増えていること、卵が見つかったこと、水脈の向きを変えたことを話した。
デルが、静かに聞いていた。
「竜の子どもが、いたんだな」とデルは言った。
「いました」
「それを守っていた」
「百年間」
「一人で」
「そうです」
デルが、目を閉じた。
しばらく、そのままだった。
「じいさんが知ったら、どう思ったかな」とデルは言った。
「竜を憎んでいましたか」
「憎んでいた。でも、理由を知ったら、違ったかもしれない」
「理由を知ることで、見え方が変わることがあります」
「そうじゃな」
デルが、目を開けた。
「川が戻れば、セルドの農地が戻る。農地が戻れば、食べ物が増える。食べ物が増えれば、人が元気になる」
「そうです」
「全部つながっているな」
「全部つながっています」
デルが、少し笑った。
「お前、よく言うな、それを」
「よく言います。本当のことなので」
デルが、また笑った。
「じいさんの話が、役に立ったか」
「とても役に立ちました」
「そうか」とデルは言った。「じいさんも、喜ぶじゃろ」
「そうだといいですね」
デルが、窓の外を見た。
ガロン山が、夕日に染まっていた。
「あの山、これからは優しく見える気がする」とデルは言った。
「そうかもしれないです」
「百年間、泣いていたと思ったら、可哀想じゃな」
「でも、卵が無事でした」
「良かった」とデルは言った。静かに言った。「本当に、良かった」
◇
宿に戻る道で、オルトが言った。
「凪、セルドにいつまでいる」
「もう少し、様子を見てから帰ります。川が安定し始めるまで、確認したい」
「一か月か」
「それくらいかもしれないです」
「その間、セルドで何かできることがあれば、言ってくれ」
「山の保護区の設定を、一緒に考えたいです」
「分かった。動かす」
「それと、川が戻ってきたら、川沿いの農地の土の状態を見てみたいです。五年間、水が減っていたなら、土に影響が出ているかもしれない」
「カナに連絡するか」
「できますか」
「使いを出す。カナが来れば、ミアと一緒に動ける」
「ありがとうございます」
オルトが、夕暮れの山を見た。
「竜がいる山を、保護区にする。それを、この国の記録に残す。百年後の人間が、読んだとき、理解できるものにしたい」
「ミアさんが、書いてくれると思います」
「あいつは、良い記録係だ」
「そうですね」
「カナの弟子だけある」
「カナさんも、良い人です」
オルトが、少し笑った。
「お前が、人を褒めるのは珍しいな」
「気になる人たちなので」
「気になる、というのが、お前の褒め言葉か」
「そうかもしれないです」
「変な褒め方だ」
「そうですね」
夕日が、川を照らしていた。
川の水が、夕日を反射していた。
昨日より、明るく見えた。
水が増えると、反射する光も増える。
単純なことだったが、きれいだった。
「川が、もっと戻ったら、もっと明るくなりますね」
オルトが、川を見た。
「楽しみだな」と言った。
戦場帰りの兵士のような顔をしていたオルトが、そう言った。
「楽しみですね」と私も言った。
シロが、川の水を飲んだ。
一口飲んで、顔を上げた。
満足そうな顔だった。
「美味しいか」
シロが尻尾を振った。
「良かった」
川の音が、昨日より大きかった。
水が増えた分、音も増えた。
その音を聞きながら、歩いた。
セルド編、ここで一つの区切りがついた。
全部解決したわけではなかった。
卵はまだ孵っていない。
川は完全には戻っていない。
農地は、まだ回復途中だ。
でも、方向が変わった。
方向が変われば、いつか違う場所に着く。
「次は、どこに行くんだろう」とシロに言った。
シロが、私を見た。
まだ決めなくていい、という顔だった。
「そうだな。今日は、ここにいよう」
川の音が、続いていた。
夕日が、沈んでいった。
山が、暗くなった。
その山の中に、青い竜がいた。
卵と一緒に。
今夜は、泣いていないといいな、と思った。
三十二話目、書きました。
川が増え始めた朝、オルトが走って知らせに来た場面。五年間、川が減っていくのを見続けてきた人間が、増えていく川を見たとき、言葉が出なかった。その沈黙が、この話で一番大事な場面だったと思います。
ガレス王の「逆転した」という言葉。竜を敵だと思っていたが、竜こそが水源を守っていた。
デルへの報告の場面。「じいさんが知ったら、どう思ったかな」という問いに、答えは出ませんでした。でも、「良かった」という一言が出た。百年越しの、小さな和解でした。
「気になる人たちなので」という凪の褒め言葉。気になる、というのが、凪にとって一番大事な感情です。気になるから行く、気になるから直す、気になるから話しかける。
次話からは、セルドでの残りの日々と、森の集落への帰還の準備が始まります。
また明日。
原案・構想:マスター
物語構成・本文作成・文体調整:クルス(Claude)




