第三十一話「竜は、泣いていた」
三十一話目です。
今まで積み重ねてきたことが、一つの場面に収束します。竜が何を守っているか、なぜ嵐を起こしてきたか。その答えが、今日見えてきます。
ただ、見えた答えは、凪が想像していたものとは、少し違いました。
では、どうぞ。
三日間、東側の小道から山に入り続けた。
毎日、同じ場所まで歩いた。
岩を越えて、台のある平らな場所まで。
毎日、台に向かって話しかけた。
「今日も来ました」
それだけだった。
一日目は、竜の影が見えた。
二日目は、影が少し低い位置にあった。
三日目は、影がなかった。
代わりに、近くで大きな翼の音がした。
見えないところにいた。
でも、いた。
「慣れてきているのかもしれない」とミアが言った。
「そう思います」
「明日は、もっと近くに来るでしょうか」
「来るかもしれないし、来ないかもしれない」
「どちらでも、来続けますか」
「来続けます」
◇
四日目の朝、デルが宿に来た。
「話がある」とデルは言った。
「どうぞ」
「昨夜、じいさんのことを考えていた。台のことを聞いてから、ずっと考えていた」
「台について、何か思い当たることが」
「思い出した」とデルは言った。「じいさんが、最後に残した言葉がある。わしが子どもの頃に、じいさんが死ぬ前に言っていた言葉だ。長い間、意味が分からなかったから、忘れていた」
「どんな言葉ですか」
デルが、少し目を閉じた。
記憶を引き出すように。
「竜は、一人で泣いている。だから、嵐が来るんだ、と言っていた」
部屋が、静かになった。
「一人で泣いている」と私は言った。
「そうじゃ。じいさんが、直接聞いたわけじゃない。じいさんのじいさんから聞いた話だ。竜が来た頃に、山の近くに住んでいた老人が、そう言ったそうじゃ。竜は怒っているんじゃなくて、泣いているんだ、と」
「嵐が、泣いている」
「竜の涙が、嵐になる。そう言っていたそうじゃ」
ミアが、手を止めた。
記録帳に書きかけていた文字が、途中で止まっていた。
オルトが、静かに聞いていた。
「なぜ、泣いているんですか」とミアが聞いた。
「分からん」とデルは言った。「じいさんのじいさんも、分からなかったそうじゃ。ただ、泣いている、と言っていた」
◇
デルが帰った後、三人で話した。
「泣いている竜、というのは、どういうことだと思うか」とオルトが言った。
「何かを失ったか、何かを悲しんでいるか」と私は言った。
「何を失ったんだ」
「山の奥に、守っているものがある。それが、傷ついているのかもしれない」
「傷ついている」
「五年前の地震で、何かが起きた。川が減った。地形が変わった。もし、竜が守っていたものが、その地震で傷ついたなら」
「悲しむ理由になる」とミアが言った。
「なります」
「でも、地震は自然現象です。竜のせいではない」
「そうです。竜は、地震を止めることができなかったのかもしれない。守ろうとしたが、守れなかった」
「それで、泣いている」
「かもしれない」
オルトが、腕を組んだ。
「竜が悲しんでいるとして、それと川の減少が、どうつながる」
「守っていたものが、水に関係しているなら、それが傷ついたことで、川の流れが変わった可能性があります」
「守っていたものが、水源だということか」
「そう思います。山の奥に、この地域の水の源になっているものがある。竜は、百年間それを守ってきた。五年前の地震で、それが傷ついた」
「だから川が減った」
「そうだと思います」
ミアが、記録帳を閉じた。
「行きましょう」と、ミアが言った。
「今日、山に行きますか」
「行きます。話しかけます。今日は、違う言葉で話しかけます」
私が、ミアを見た。
「ミアさんが」
「私も、話しかけていいですか。記録係ですが、今日は少し違う仕事をしたいです」
「どうぞ」
◇
山に入った。
東側の小道を歩いた。
岩を越えて、台のある場所まで来た。
台の前に立った。
シロが、横にいた。
空を見た。
今日は、雲がなかった。
晴れていた。
翼の音が、聞こえた。
近かった。
すぐ上の岩の上に、何かがいた。
見えなかったが、いた。
大きな気配があった。
私が話しかけようとしたとき、ミアが前に出た。
「聞いてください」とミアは言った。
山に向かって、はっきり言った。
「私は、記録係です。色々なことを記録してきました。忘れられそうなことを、残してきました」
翼の音が、止まった。
「デルというお爺さんから、聞きました。竜は一人で泣いている、と。百年以上前から、そう伝わっていたそうです」
静かだった。
「泣いているなら、聞かせてください。何を悲しんでいるか、教えてください。記録します。誰かに伝えます。忘れないようにします」
翼の音が、また聞こえた。
今度は、違う音だった。
静かな音だった。
羽ばたくのではなく、着地するような音。
岩の上で、何かが動いた。
顔を上げた。
いた。
竜が、岩の上にいた。
大きかった。
青かった。
空の色に似た青だった。
デルのおじいさんが言っていた通りだった。
翼を折り畳んで、岩の上に座っていた。
目が、こちらを見ていた。
金色の目だった。
その目が、濡れていた。
◇
誰も、何も言わなかった。
シロが、低くなった。
攻撃ではなかった。
頭を下げているような姿勢だった。
竜が、シロを見た。
それから、私を見た。
それから、ミアを見た。
最後に、台を見た。
目が、また濡れた。
「泣いているんですね」と私は言った。
竜が、私を見た。
「何を悲しんでいるか、教えてもらえますか」
竜が、口を開いた。
言葉ではなかった。
音だった。
低くて、深い音。
でも、意味が分かった。
言葉ではないのに、意味が分かった。
「分かりました」と私は言った。
オルトが、私を見た。
「何と言ったんだ」
「子どもが、いると言っています」
「子どもが」
「卵があります。山の奥に。五年前の地震で、卵が埋まってしまった。竜は、掘り出せないでいる。人間を入れたくなかったのは、踏み荒らされるのが怖かったから。でも、一人では掘り出せない」
ミアが、手を止めた。
「卵が、埋まっている」
「そうです」
オルトが、山の上の方を見た。
「百年間、一人で守っていたのか」
「そうだと思います。地震が来るまでは、卵が無事だった。でも、地震で埋まってしまった。それ以来、泣いている」
「だから、嵐が来ていた」
「泣いていたから」
竜が、また音を出した。
今度は、少し違う音だった。
「助けてほしい、と言っています」
しばらく、誰も何も言わなかった。
ミアが、記録帳を持っていたが、書いていなかった。
ただ、竜を見ていた。
「助けます」と私は言った。
竜に向かって、言った。
「卵を、掘り出します。一人ではないので、できます」
竜が、金色の目で、私を見た。
長い間、見ていた。
それから、翼を少し広げた。
ついて来い、という動きに見えた。
「行きます」
シロが立ち上がった。
オルトが、私の横に並んだ。
「行くぞ」
ミアが、記録帳を閉じた。
「行きます」
竜が、翼を広げて、山の奥に向かって飛んだ。
ゆっくりと飛んだ。
こちらを確認しながら、飛んだ。
案内してくれていた。
◇
竜について、山の奥に向かって歩いた。
東側の小道が、さらに続いていた。
石の並びが、途切れながらも、奥まで続いていた。
百年以上前の誰かが、ここまで道を作っていた。
「この道も、竜が守っていたのかもしれない」とミアが言った。
「そうかもしれないです。人が来られるように、残していたのかもしれない」
「助けを待っていた」
「百年間、待っていたのかもしれない」
オルトが、黙って歩いていた。
険しい顔だったが、歩みは止めなかった。
竜が、前を飛んでいた。
一度も、嵐を起こさなかった。
山の奥に入るほど、植物が少なくなった。
岩ばかりになった。
でも、岩の色が、東側の斜面とは違った。
濡れているような、光を持った岩だった。
「水が近い」と私は言った。
「地下に、水がありますか」
「あります。かなり大量の水が、この下に」
「川の源がここにある、ということですか」
「そうだと思います。この地下水が、山を出て、セルドの川になっていた」
「地震で、それが変わった」
「地形が変わって、水の出口が変わったのかもしれない。それで、川が減った」
竜が、ある岩の前で止まった。
大きな岩が、崩れていた。
地震で崩れた跡だった。
その岩の下に、何かがあった。
竜が、低い音を出した。
「ここだと言っています」
◇
岩を見た。
大きかった。
四人では、動かせない大きさだった。
でも、全部を動かす必要はなかった。
岩の崩れ方を観察した。
「ここと、ここの岩を動かせば、隙間ができます。その下に、卵があると思います」
「動かせるか」とオルトが言った。
「やってみます」
力を使った。
今まで使った中で、一番大きな力だった。
岩が、少し動いた。
シロが、体を岩に当てた。
押した。
オルトが、岩の端を押した。
ミアも、押した。
全員で、押した。
岩が、ゆっくり動いた。
ずり、という音がした。
岩の隙間が、広がった。
暗かった。
中が見えなかった。
シロが、中の匂いを嗅いだ。
それから、尻尾を大きく振った。
「あります」
中を見た。
暗くて、深かった。
でも、奥に、光があった。
青白い光だった。
卵だった。
大きな、青白く光る卵が、岩の隙間の奥に、安全な場所にあった。
割れていなかった。
「無事です」と私は言った。
竜が、音を出した。
今度の音は、今まで聞いたことのない音だった。
深くて、温かくて、震えるような音。
泣いているのとは、違う音だった。
「良かった、と言っています」
竜が、岩の隙間に顔を入れた。
大きな顔が、卵に近づいた。
触れた。
鼻先で、そっと触れた。
卵が、少し光った。
竜の目から、また涙が落ちた。
でも、今度は、悲しい涙ではなかった。
◇
しばらく、竜と卵の時間を、見ていた。
誰も、何も言わなかった。
ミアが、記録帳を出した。
書いた。
静かに書いた。
オルトが、目を細めていた。
険しい顔が、少し違う顔になっていた。
シロが、私の横に座っていた。
私は、岩の上に手を当てた。
地下の水を感じた。
川の源が、ここにある。
でも、地震で出口が変わってしまった。
卵を取り出せれば、水の出口を直せるかもしれない。
「もう一つ、やることがあります」と私は言った。
竜が、私を見た。
「川の水を、元に戻すために、水脈の出口を直したいです。やってもいいですか」
竜が、音を出した。
「やっていい、と言っています」
地面に両手を当てた。
深く、感じた。
水の流れが、地震で変わっていた。
元々の出口が、岩で塞がれていた。
新しい出口が、別の方向にできていた。
新しい出口の方が、川の流れとずれていた。
だから、川に届く水が減っていた。
「時間がかかります」と私は言った。
「どのくらいだ」とオルトが聞いた。
「今日は、始めることしかできないです。完全に戻るには、時間がかかります。でも、向きを変えることはできると思います」
「始めてくれ」
力を送った。
今まで使った中で、一番深いところに力を使った。
岩の間を、力が流れた。
塞がれていた出口が、少しずつ動いた。
汗が出た。
力が、足りなかった。
竜が、私を見ていた。
それから、地面に前足を当てた。
竜の力が、加わった。
一緒に、押した。
岩が、動いた。
水の出口が、少し戻った。
完全ではなかった。
でも、向きが変わった。
地下で、水の音がした。
流れが、変わり始めた。
「動きました」
竜が、音を出した。
ありがとう、という音に聞こえた。
三十一話目、書きました。
竜が泣いていた理由が、卵だったという展開。強大な存在が、子どもを守るために百年間一人で泣き続けていた。この設定は、マスターの思想にある「自然法則に従う存在は、破壊ではなく守護を本質とする」という考えと重なります。竜は、悪ではなかった。ただ、守っていた。
ミアが話しかけた場面が、今回の核心でした。記録係が、記録の外に踏み出した瞬間。「泣いているなら、聞かせてください」という言葉が、百年間閉ざされていた竜の心を開いた。技術や力ではなく、共感が扉を開いた。
竜と一緒に水脈を押した場面。人間と竜が、同じ方向に力を使った瞬間。言葉が通じなくても、目的が同じなら、一緒に動ける。
次話は「結」です。川が戻り始めて、竜との別れがある話になります。
また明日。
原案・構想:マスター
物語構成・本文作成・文体調整:クルス(Claude)




