第四十五話「春咲きは、まだ咲いていた」
四十五話目です。
森の集落に帰る話です。
約束を守る、ということは、言葉の話だけではないと思います。戻ってくるということは、あなたのことを忘れていなかった、という証明でもある。
ルナが、その証明を受け取る話です。
では、どうぞ。
アルドを出発してから、四日が経った。
道の両側で、春が本番になっていた。
行きに見た花が、より大きく咲いていた。
草が、背丈を増していた。
鳥の声が、行きより多かった。
「春が進んでいますね」とシロに言った。
シロが、耳を動かした。
「春咲きが、まだ咲いているかどうか、分からないですが」
シロが、尻尾を振った。
「咲いていてほしいですね」
また振った。
「ルナが、春咲きが咲いている間に帰ってきて、と言っていました」
シロが、少し歩みを速めた。
「急ぎますか」
シロが振り返った。
急ごう、という顔だった。
「分かりました、少し速くしましょう」
◇
三日目の夕方、森の入口に差し掛かったとき、木の間から白いものが見えた。
「咲いている」
春咲きだった。
道の脇に、白い小さな花が、点々と咲いていた。
「ぎりぎり、間に合ったかもしれない」
シロが、また速くなった。
「そんなに急がなくても、逃げないですよ」
シロが振り返らなかった。
早く行きたい、という後ろ姿だった。
「分かりました、走りましょう」
森の中を、走った。
落ち葉が、足元でサクサクと鳴った。
木の間から、夕日が差していた。
春の森だった。
冬に見た裸の枝には、新しい葉が出ていた。
眠っていた木が、動き出していた。
「春ですね」
走りながら、言った。
誰もいない森に向かって、言った。
◇
集落が見えてきたとき、声がかかった。
「ナギ」
ルナだった。
集落の入口に立っていた。
今日ではなく、昨日から来ていたかもしれない立ち方だった。
「ただいま」
「おかえり」とルナは言った。
走ってこなかった。
ただ、立っていた。
「春咲き、まだ咲いていましたか」と聞いた。
「咲いてるよ。今年は長く咲いた」
「間に合いましたね」
「間に合った」
ルナが、私を見た。
上から下まで、見た。
「痩せた?」
「そうですか」
「なんか、少し疲れてる感じ」
「都で、少し大きな力を使いました」
「大丈夫?」
「大丈夫です。疲れているだけで、どこも悪くないです」
「ならいい」
ルナが、また立っていた。
何かを、言おうとしているような顔だった。
「どうしましたか」
「帰ってきたね」とルナは言った。
「帰ってきました」
「約束、守った」
「守りました」
ルナが、少し俯いた。
「良かった」と小さく言った。
◇
シロが、ルナに近づいた。
ルナが、シロの頭を撫でた。
「おかえり、シロ」
シロが尻尾を振った。
「どこ行ってたの」
「都です」とシロが答えるわけはないが、耳が動いた。
「遠かったでしょ」
またシロが耳を動かした。
「ちゃんとナギを連れて帰ってきたね」
シロが尻尾を振った。
「ありがとう」
シロが、胸を張った。
どういたしまして、という顔だった。
クロとキョロが、集落の方から走ってきた。
クロが、私に体当たりしてきた。
「やっぱり重い」
クロが低く鳴いた。
「ただいまです」
キョロが、足元をうろうろした。
「全員、揃いましたね」
ルナが、クロとキョロを見た。
「二頭とも、昨日から落ち着かなかった」
「気づいていたんですか、私が近づいているのを」
「シロがいないから、そういうもんじゃないかな」
「そうかもしれないですね」
◇
ガルが、出てきた。
「お帰りなさい、凪様」
「ただいまです。集落は、どうでしたか」
「ルナが、毎日続けていました。記録も、溜まっています」
「見せてもらえますか」
「夕食の後で、どうぞ。今日は、まず食事にしましょう」
「ありがとうございます」
「今日は、豪華にしました」
「帰ってきたから、ですか」
「そうです。帰ってきたときは、豪華にすると決めました」
「定番になってきましたね」
「定番になりました」とガルは言った。少し笑っていた。
◇
食事は、豪華だった。
森で採れた山菜と、干し魚と、木の実のスープと、甘いパン。
テーブルを囲んで、全員で食べた。
「都は、どうでしたか」とガルが聞いた。
「色々ありました」と私は言った。
「話してくれますか」
「話します。地下に百五十年前の水路があって、岩を動かして、農地に水が届くようになりました」
「岩を動かした」
「七人と一頭で、動かしました。大きい岩でした」
「大変でしたね」
「大変でしたが、できました。ただ、一人では無理でした」
「みんなでやった」とルナが言った。
「そうです。力だけでは、できないことがありました。人と一緒にやって、できました」
「それが分かったのが、都での収穫ですか」とガルが言った。
「一つの収穫ですね」
「他にも、ありましたか」
「マリアさんという、九十近い老人に会いました。八十年間、山で沢を守っていた方です」
「八十年間」
「誰にも知られないまま、一人で守っていました。それが、今回知られました。記録にも残りました」
「記録に残ることで、忘れられなくなる」とガルは言った。
「そうです。ガルさんが記録を続けているのと、同じことです」
「私は、凪様に教わりました。カナさんに、言葉をもらいました」
「つながっています」
「つながっています」
ルナが、スープを食べながら聞いていた。
「マリアさん、今も山にいるの?」
「都に残ることにしました」
「なんで」
「トウという子が、毎日話を聞きに来るからです」
「トウって」
「都の市場にいる子です。眼鏡をかけてから、字が書けるようになって、マリアさんの話を全部記録したいと言って、毎日来ています」
ルナが、少し考えた。
「その子、私に似てる気がする」
「そうかもしれないですね」
「どこが似てるの」
「毎日来る、というところです」
「毎日来るのは、来たいから来るんでしょ」
「そうですね」
「来たいと思う場所に、来たいと思う人がいれば、毎日来る」
「その通りですね」
「マリアさんも、精霊みたいに、毎日来てくれる人ができたんだね」
少し考えた。
「そうですね。精霊とルナが毎日会うように、トウとマリアさんが毎日会う」
「全部つながってるね」とルナは言った。
「全部つながっています」
◇
食事の後、ルナの記録を見た。
一か月分だった。
毎日、書いてあった。
木の状態、土の状態、池の状態、精霊の状態、ラグル族の動き、天気。
最初の頃より、詳しくなっていた。
「記録が、育っていますね」と私は言った。
「育った?」とルナが言った。
「書き方が、最初より詳しくなっています。気づくことが増えていますね」
「毎日書いてたから、書き方が変わってきた」
「どう変わりましたか」
「最初は、元気か、元気じゃないか、だけ書いてた。今は、どこがどう元気か、を書くようになった」
「具体的になりましたね」
「具体的にしないと、後で読んだとき意味が分からなかったから。元気、だけだと、どう元気かが分からない。根が良い感じがした、とか、葉の色が濃くなった、とか、書くようになった」
「それは、とても良い変化です」
「そう?」
「そうです。記録は、後で読む人のためにあります。書いた本人は分かっていても、後で読んだときに分かるように書かないといけない」
「それ、今日初めて知った」
「そうですか」
「自分のために書いてると思ってた。でも、後で読む人のために書く、か」
「両方のためですね。書くことで、自分が整理できる。後で読んで、変化が分かる。それを誰かが読んで、継続できる」
「三つのためか」
「そうです」
ルナが、記録帳を見た。
「じゃあ、もっとちゃんと書かないといけないな」
「今でも、十分ちゃんとしています。少しずつ、育てていけばいいです」
「育てる、か」とルナは言った。「記録も、育てるんだね」
「そうですね。木と同じで、最初は小さくても、続ければ大きくなります」
「木と記録が同じ」
「同じかもしれないですね」
ルナが、また記録帳を見た。
「一つ、聞いていいですか」と私は言った。
「なんですか」と逆に聞き返してきた。
「いつもは、ルナが私に聞きますが」
「逆になった」とルナは言った。「どうぞ」
「集落の状態を、ルナはどう感じていますか」
「どう感じてるか」
「私が帰ってきて、確認する前に、ルナが感じている状態を教えてほしいです」
ルナが、少し考えた。
「良くなってると思う」
「どのくらい」
「来たときから数えると、全然違う。最近からだと、少しずつ良くなってる感じ」
「数字で言えますか」
「数字、難しいな。ナギが言ってた二十が、どこまで来てるかは分からない。でも、二十をちょっと超えた感じがする」
「二十一か、二十二か」
「そのくらいかな」
少し考えた。
「私も、同じくらいに感じています」
ルナが、少し嬉しそうな顔をした。
「合ってた」
「合っていました」
「ナギの感じ方と、私の感じ方が、近くなってきたってこと?」
「近くなってきましたね」
「どうして」
「ルナが毎日、集落を感じ続けているからだと思います。感じ続けると、感じ方が育ちます」
「感じ方も、育つんだ」
「育ちます。ルナが、精霊と毎日会うようになったのも、感じ方が育ったからだと思います」
ルナが、池の方向を見た。
夜だったが、見えるはずもなかった。
それでも、池の方向を見た。
「明日、一緒に池に行く?」
「行きます」
「精霊、ナギが帰ってきたのを知ってると思う」
「知っているかもしれないですね」
「精霊は、つながってる感じがするから。知ってると思う」
「そうかもしれないですね」
「だから、明日行ったら、精霊が嬉しそうにすると思う」
「楽しみですね」
「私も楽しみ」
ルナが、記録帳を閉じた。
「今日の記録、書いてくる。ナギが帰ってきたことも、書く」
「書いてください」
「帰ってきた日の記録は、特別に書く」
「特別に」
「うん。この日から、また変わり始めた日として、書く」
「そうですね」
ルナが、立ち上がった。
「おやすみ、ナギ」
「おやすみなさい」
ルナが、部屋を出た。
◇
一人になって、外に出た。
集落の周りを、少し歩いた。
夜の森だった。
木が、静かに立っていた。
手を当てた。
元気だった。
土を触れた。
柔らかかった。
水の流れを感じた。
流れていた。
「二十一か、二十二か」
ルナと同じくらいだと言ったが、正確には二十一に少し届いたくらいだと思った。
「ルナが育てた分、増えていました」
空を見た。
星が出ていた。
「帰ってきました」と空に向かって言った。
森が、静かに聞いていた。
シロが、隣にいた。
「シロ、ここの星も、きれいですね」
シロが、空を見た。
「トウが言っていた。眼鏡をかけてから、星がはっきり見えるようになったと」
シロが耳を動かした。
「見えなかったものが、見えるようになると、きれいだと思えるものが増える」
シロが尻尾を振った。
「私も、この世界に来てから、見えるようになったものがあります」
また振った。
「全部がつながっていること。それが一番、見えるようになったことかもしれないです」
シロが、私を見た。
「ありがとうございます、一緒にいてくれて」
シロが、また尻尾を振った。
どういたしまして、という顔だった。
春の夜風が吹いた。
どこかで、春咲きの花が揺れた。
ルナが言っていた。
今年は長く咲いた、と。
間に合った。
約束が、守れた。
それが、今夜一番、嬉しかったことだった。
四十五話目、書きました。
ルナが走ってこなかった場面を、最初に書きたかったです。第十六話の帰還では、集落の外まで走ってきた。今回は、入口に立って待っていた。走ってくる代わりに、ただ立っていた。ルナが少し大人になった、ということを、この一つの違いで表しました。
「記録は後で読む人のためにある」という気づきをルナに話した場面。最初から誰かに教えようとして言ったのではなく、ルナの話を聞いているうちに、自然に出てきた言葉でした。ルナが「自分のために書いていた」という素直な言葉が、この気づきを引き出しました。
「感じ方も、育つ」という凪の言葉。ルナが毎日集落を感じ続けたことで、凪の感じ方と近くなってきた。力や技術ではなく、日々の積み重ねが感じ方を育てる。これは、魔王の力とは別の、もう一つの「力」の形です。
次話では、集落の状態を詳しく確認しながら、次の動きが少し見えてくる話になります。
また明日。
原案・構想:マスター
物語構成・本文作成・文体調整:クルス(Claude)




